分岐(一)
二〇二五年。高校三年。
進路のことを考えなければならない時期が来た。
担任の面談で「進学を考えているのか」と聞かれた。譲二は「はい」と答えた。本音を言えば、大学に行きたいという欲求はなかった。だが、実験を続けるためには、今の生活環境を維持する必要があった。大学に進学すれば、少なくとも四年間は「学生」でいられる。社会の目から隠れて、研究を続けられる。
問題は金だった。国立大学の学費は年間約五十四万円。母親にこれ以上の負担はかけられない。奨学金を借りるしかなかった。
成績は中の下。だが、この一年で状況が変わっていた。ゴキブリの実験を通じて、生物学、化学、遺伝学の知識を独学で身につけていた。教科書レベルをはるかに超えた知識が、結果的に理系科目の成績を押し上げた。三年の一学期、生物の偏差値は七十二。化学は六十八。数学と英語は平凡だったが、生物と化学が突出していた。
東京都立大学の生命科学科。自宅から通える国公立で、昆虫学の研究室がある。そこを第一志望に決めた。
受験勉強と実験の両立は過酷だった。学校から帰り、夕方から三時間勉強し、深夜にコンビニバイトをし、帰宅後の午前三時から五時まで実験をする。睡眠は五時から七時の二時間。土日は図書館で受験勉強をしつつ、合間にスマートフォンで飼育ケースのモニタリングカメラ──千五百円の安いウェブカメラを設置した──を確認する。
体重が六キロ落ちた。
宮本が心配した。
「稲川くん、本当に大丈夫? 顔色やばいよ」
「大丈夫」
「大丈夫じゃない顔してる。ちゃんとご飯食べてる?」
「食べてる」
「いつ?」
答えに詰まった。最後にまともな食事をしたのはいつだったか。コンビニの廃棄弁当とカップ麺の記憶しかない。
宮本は翌日から、弁当を二つ持ってくるようになった。
「卵焼き、焦げなくなったよ。蓋する作戦、効いた」
質素だが、温かい弁当だった。白米に卵焼き、ウインナー、ブロッコリー。ミニトマトは相変わらず三つ。
譲二は礼を言った。「ありがとう」と口に出したのは、宮本と知り合ってから初めてだった。
「やっと言えた」と宮本が笑った。「一年半かかったね」
受験の日──二〇二六年二月二十五日──の朝、宮本からLINEが来た。
「がんばれ! 稲川くんなら大丈夫!」
続けて、猫のスタンプ。
譲二はスマートフォンの画面を三秒ほど見つめてから、鞄にしまった。
試験はうまくいった。生物は満点だった。
合格発表。三月九日。
東京都立大学理学部生命科学科。合格。
譲二は自宅のパソコン──中古で一万五千円で買った、動作の重いノートパソコン──で合格者番号を確認し、小さく息を吐いた。喜びより安堵。これで四年間、研究を続けられる。
母親に電話した。
「大学受かった」
「えっ、ほんと? すごいじゃん。大学行くんだ。あんた頭よかったんだね」
「……奨学金で行くから、金のことは心配しなくていい」
「そう。じゃあ良かった」
電話は二分で終わった。
宮本にもLINEで報告した。返信は即座に来た。
「おめでとう!!!! やったね!!! お祝いしよう!!!」
絵文字が十六個ついていた。
翌週、宮本と二人で西新井大師の近くのファミレスで食事をした。高校三年間で初めての、学校外での二人きりの時間だった。
「私ね、生物系の専門学校に行くことにしたの」と宮本は言った。「環境調査の仕事がしたくて。虫とか植物の調査をする仕事」
「そうか」
「稲川くんは何を研究するの? 大学で」
「……昆虫。たぶん」
「やっぱり! 稲川くん、虫好きだもんね」
虫好き。そう言われると、少し違和感がある。好き、とは違う。だが、嫌いでもない。自分とゴキブリの関係を表す言葉が見つからない。
「宮本はさ」と、譲二は珍しく自分から切り出した。「なんで俺に話しかけたの。最初」
宮本はストローでメロンソーダを吸いながら、少し考えた。
「んー。一人でいるのに、寂しそうじゃなかったから」
「……それ、褒めてるのか」
「褒めてる。一人でいられる人って、強いと思う。でもね」
宮本は少しだけ声のトーンを落とした。
「強い人ほど、本当に辛いとき、助けを求められないんだよ。だから、近くにいようと思った」
譲二は何も言えなかった。
ドリンクバーの氷が溶ける音だけが、しばらく聞こえていた。
「宮本」
「うん?」
「……ありがとう。色々」
「どういたしまして。卵焼きのコツ、教えてくれたお礼だよ」
宮本はまた、にっと笑った。




