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ゴキブリを操る超能力に目覚めたんだけど  作者: 唯之助


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分岐(二)

 二〇二六年四月。大学生活が始まった。


 東京都立大学南大沢キャンパス。西新井のアパートからは電車で一時間半。通学時間は長いが、引っ越す余裕はなかった。アパートの部屋には、もう家具よりゴキブリの飼育設備のほうが多い。この環境を一から作り直す手間を考えると、長距離通学のほうがましだった。


 大学では目立たないように過ごした。講義に出席し、必要な単位を取り、サークルには入らない。高校時代と同じだ。ただし、一つだけ違ったのは、大学の図書館には高校の比ではない量の専門書と論文があったことだ。


 譲二は貪るように読んだ。


 進化発生生物学エボデボ。遺伝子制御ネットワーク。Hox遺伝子群──体の基本構造を決定するマスター遺伝子。これらの遺伝子は、昆虫からヒトまで、驚くほど保存されている。つまり、ゴキブリの体内にも、ヒトと相同な遺伝子が眠っているのだ。


 特に興味を引かれたのが「形態進化の制約と可能性」に関する論文だった。


 外骨格生物──昆虫──が大型化する際の最大の障壁は、呼吸系だ。昆虫は肺を持たず、気管系トラキアで酸素を取り込む。体表に開いた気門から気管が分岐し、組織に直接酸素を届ける。この仕組みは小型の体には効率的だが、体が大きくなると酸素供給が追いつかなくなる。


 古生代の石炭紀には、酸素濃度が現在の約一・五倍あり、翼開長七十センチのトンボ(メガネウラ)が存在した。だが現在の酸素濃度では、昆虫の体サイズには物理的な上限がある。


 つまり、ゴキブリをこれ以上大きくするには、呼吸系を根本的に変えなければならない。


 気管系から、肺に似た構造への移行。


 それが可能なのか。理論上は──エピジェネティックな変化が十分に蓄積され、適切な遺伝子が活性化されれば──不可能ではないかもしれない。肺は、魚類の浮き袋が進化したものだ。既存の構造を転用して新しい器官を作ることは、進化の歴史の中で何度も起きている。


 ゴキブリの気管系の一部が拡張し、ガス交換効率の高い袋状の構造に変化すれば、それは原始的な「肺」として機能しうる。


 問題は、そこに至るまでの過渡期だ。気管系から肺への移行は、中間段階で呼吸効率が低下するリスクがある。自然界なら、そのような個体は淘汰される。だが、譲二の環境では──人為的に保護し、選別し、念を送り続ければ──過渡期を乗り越えさせることができるかもしれない。


 五月。第六世代。


 譲二は新たな選別基準を導入した。迷路テストの成績に加えて、「運動負荷耐性」──つまり、長時間の運動をさせたときに体力が持続する個体──を優先的に親にした。体力の持続は、酸素供給効率の指標になる。


 第六世代の成体は体長八センチ。甲殻の色は濃い黒から、やや赤みを帯びた暗褐色に変わった。そして──気門の数が増えていた。通常のクロゴキブリの気門は腹部に八対だが、第六世代は十一対。しかも、各気門の開口径がわずかに拡大していた。


 呼吸系が変わり始めている。


 六月。第七世代。体長十センチを超える個体が出た。


 ここで、もうひとつの重大な問題が発生した。


 給餌量だ。


 体長十センチのゴキブリは、通常の三センチのゴキブリの約三十七倍の体積を持つ(体長比の三乗)。それだけの体を維持するには、膨大なカロリーが必要になる。高タンパクの餌を大量に確保しなければならない。


 乾燥ミルワーム、魚粉、卵黄。ペット用品店で買っていたが、消費量が急増し、月の餌代が一万円を超えた。


 コンビニバイトの給料と奨学金を合わせても、生活費と実験費用の両方を賄うのが厳しくなってきた。


 譲二は食費を極限まで切り詰めた。自分の食事は一日一食、もやしと卵の炒め物。あるいはコンビニの廃棄弁当。


 体は細り、顔色は悪化した。大学の講義中に意識が遠のくことが増えた。


 ある日、講義の後で研究室を見学させてもらったとき──生命科学科の昆虫生態学研究室──助教の篠原という若い男が声をかけてきた。


「稲川くん、だっけ。一年生でこの研究室に興味があるの珍しいね」


「はい。昆虫の進化に関心があって」


「いいね。何か具体的に?」


「……ゴキブリの、社会行動の進化を」


 篠原は少し驚いた顔をして、それから笑った。


「ゴキブリか。人気がない研究対象だけど、実は面白いんだよ。ブラベルス属なんかは、かなり高度な集団行動を取る。知ってる?」


「はい。集合フェロモンによる群れ形成と、暗所選好の集団意思決定に関する二〇〇六年のハルマン博士の論文は読みました」


 篠原の眉がぴくりと上がった。


「一年生が読む論文じゃないな、それ。英語で?」


「はい」


「……うちのゼミ、二年から入れるけど、興味があるなら早めに声かけてくれ」


 譲二は頷いた。大学の研究室に入れば、実験機材を使えるかもしれない。顕微鏡、遠心分離機、DNA解析装置。自分の部屋ではできない分析が可能になる。


 だが、同時に危険でもあった。研究室に出入りすれば、他人の目に触れる機会が増える。自分の実験がどれほど異常なものか、専門家が見ればすぐにわかるだろう。


 慎重に進めなければならない。

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― 新着の感想 ―
ここまで読ませていただきました。感想失礼します。 最初はゴキブリを少し動かせただけなのに、どんどんできることが増えていき、ゴキブリが進化していくのがなんだか面白い。 これを読むと、少し生物学に詳し…
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