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ゴキブリを操る超能力に目覚めたんだけど  作者: 唯之助


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変態(一)

 二〇二六年九月。大学一年の秋。


 第八世代が誕生した。


 もはや「ゴキブリ」と呼ぶのが適切かどうかもわからなくなっていた。


 体長十五センチ。甲殻は暗褐色で、表面に微細な凹凸がある──まるで爬虫類の鱗のような質感。六本の脚のうち、前の二本は他の四本の一・五倍の長さがあり、先端に小さな「指」のような分節が発達していた。物を掴むことができる。頭部は胸部から明確に分離し、前方を向いている。複眼は大きく、色が深い紫がかった黒。触角の根元の突起はさらに成長し、小さな角のように突き出ている。


 そして、最も大きな変化。


 第八世代の個体を解剖する必要はなかった。外から見ても、腹部の形状が変わっていることがわかった。腹部の側面が膨らみ、呼吸のたびに微かに伸縮する。気管系が拡張し、袋状の構造──つまり、原始的な肺──が形成されていた。


 呼吸のパターンも変わった。通常のゴキブリは体表の気門から受動的に空気を取り込むが、第八世代は腹部を能動的に動かして空気を送り込んでいた。横隔膜こそないが、腹部の筋肉がポンプの役割を果たしている。


 これは、昆虫の体制から脊椎動物的な体制への過渡形態だ。


 外骨格はまだ保持しているが、内部では軟骨に似た支持構造が発達し始めている。完全な内骨格ではないが、体の大型化を支えるための「補助骨格」とでも呼ぶべきものだ。


 譲二は毎晩二時間以上、第八世代に念を送った。額に汗がにじむ。こめかみが疼く。鼻血が出ることもあった。能力の行使には、確実に肉体的な代償があった。


 十月。


 第八世代の迷路テストは、もはや意味をなさない。代わりに実施したのは「模倣テスト」だった。


 譲二が手で特定のジェスチャーをする──たとえば、右手を上げる──のを見せた後、同じ動作を求める。


 第八世代の最も賢い個体──譲二は「一号」と呼んでいた──は、前脚を持ち上げて譲二の動作を模倣した。


 鏡を見せた。一号は鏡の中の自分を、数秒間見つめた。触角を動かし、前脚を持ち上げ──鏡の中の像が同じ動作をすることを確認した。


 鏡像認知。


 自己認識の萌芽。


 これができる動物は、地球上でごく限られている。類人猿、イルカ、ゾウ、カササギ。そのリストに、ゴキブリの名前が加わったのだ。


 少なくとも、譲二のゴキブリは。


 十一月の終わり。


 寒い夜だった。暖房のないアパートの室温は十度を下回っていた。飼育ケースにはヒーターを入れてあるが、譲二自身は毛布にくるまっているだけだった。


 一号が、ケースの壁をこつこつと叩いた。


 最初は気にしなかった。ゴキブリがケースの壁にぶつかることはよくある。だが、叩く音のパターンが妙に規則的だった。


 こつ、こつ、こつ。三回。間を置いて、こつ、こつ。二回。また間を置いて、こつ、こつ、こつ、こつ。四回。


 譲二は毛布から出て、ケースの前にしゃがんだ。一号は透明なアクリルの壁越しに、譲二を見ていた。


 こつ、こつ。


 ──何が言いたい?


 念を送った。一号の触角が揺れた。前脚をアクリル壁に押し当て、ゆっくりとなぞるように動かした。


 何かを伝えようとしている。


 だが、何を。


 譲二は右手をアクリル壁に当てた。一号の前脚のすぐ向こう側に。


 感覚が流れ込んできた。嗅覚マップではない。もっと抽象的な──情報の塊のようなもの。形のない信号が、譲二の意識に触れる。


 温かい。


 その信号は、「温かい」としか表現できないものだった。生存に必要な条件──適切な温度──を求めている。あるいは、もっと単純に。


 寒い、と言っているのか。


 譲二はケースのヒーターの温度を確認した。二十五度に設定してある。ゴキブリの活動適温だ。


 違う。一号が伝えたいのはそういうことではない。


 一号は壁の向こうの譲二を──寒さに震えている譲二を──見ている。


 寒いのは、おまえだろう。


 そう言われた気がした。


 気のせいかもしれない。自分の感情をゴキブリに投影しているだけかもしれない。十六歳の秋にこの能力に目覚めて三年。自分は客観的な研究者であるべきだと知っている。データに基づかない解釈は、ただの願望だ。


 だが。


 譲二は暖房をつけた。部屋全体が温まるまで二十分かかった。電気代は翌月の請求書に跳ね返るだろう。


 一号はアクリル壁から前脚を離し、ケースの隅に設けた巣──木片とティッシュペーパーで作った小さな塊──に潜り込んだ。


 譲二は毛布にくるまり直して、天井を見た。


「……ありがとう」


 誰に言ったのか、自分でもわからなかった。



 二〇二七年。大学二年。


 篠原助教の研究室に正式に所属した。


 研究室では「ゴキブリの社会行動の進化的起源」をテーマに選んだ。表向きの研究だ。通常のクロゴキブリを使った行動実験を行い、論文を書く。裏の研究──自室での進化実験──とは完全に切り離した。


 だが、大学の研究室に出入りすることで、得られるものは大きかった。


 光学顕微鏡で第八世代の脱皮殻を観察できた。甲殻の構造が、通常のゴキブリとは明確に異なっていた。外骨格の厚みが増し、内側に軟骨様の組織が層をなしている。キチン質の組成も変化しているようだった。


 PCR装置を使って、脱皮殻からDNAを抽出し、簡易的な遺伝子解析を試みた。結果は──衝撃的だった。


 第八世代のゲノムには、通常のクロゴキブリには見られない遺伝子発現パターンがあった。特に、神経発達に関わるNGF(神経成長因子)関連遺伝子の発現量が、通常個体の約二十倍。そして、Hox遺伝子群──体の基本設計図を決めるマスター遺伝子──の一部が、通常とは異なる時期に、異なる部位で発現していた。


 体の設計図が、書き換えられている。


 譲二は研究室のパソコンでデータを解析しながら、画面の向こうに映る遺伝子発現のグラフを見つめた。


 自分がやっていることの意味が、改めて突きつけられた。


 これは品種改良ではない。品種改良は、既存の種の中での変異を選別する行為だ。譲二がやっているのは、種そのものを変えることだ。新種の創造。いや──新しい「何か」の創造。


 ゴキブリであってゴキブリでないもの。昆虫であって昆虫でないもの。


 恐ろしいか、と自問した。


 恐ろしくなかった。それが、いちばん恐ろしかった。


 春。第九世代。体長二十センチ。


 ケースのサイズが限界に達した。衣装ケースでは小さすぎる。譲二はホームセンターで大型の工具箱を買い、内部を改造した。だが、それでも一匹あたりの空間が狭い。ストレスで個体同士が争い始めた。


 六畳一間の部屋では、もう無理だ。


 譲二は数週間悩んだ末、アパートの大家──山田──に相談した。


「隣の空き部屋を借りたいんですが」


 隣室の佐藤はいつの間にか引っ越していた。山田は首を傾げた。


「二部屋? 何に使うんだい」


「研究です。大学の。昆虫の飼育をしていて、スペースが足りなくて」


「昆虫? ああ、前から虫を飼ってるって聞いてたけど。まあ、空き部屋のまま置いとくよりはいいか。家賃は同じ三万八千円でいいよ」


 月の固定費が七万六千円に跳ね上がった。コンビニバイトのシフトを増やし、週五日に。睡眠時間がさらに削られた。


 だが、二部屋になったことで飼育環境は劇的に改善された。新しい部屋──「ラボ」と呼ぶことにした──には、大型のアクリル水槽を三つ並べた。それぞれに異なる環境を設計し、複数の系統を同時に走らせた。

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