変態(二)
六月。第十世代。
個体数を絞り込んだ。第十世代で生存しているのは十二匹。すべてがエリート──十世代に及ぶ選抜の頂点に立つ個体たちだ。
体長二十五センチ。甲殻は厚く、暗い赤銅色。六本の脚のうち前二本はもはや「腕」と呼ぶべき形態で、先端の分節は五つに分かれ、物を器用に掴める。頭部は完全に胸部から独立し、短いが明確な「首」がある。複眼の構造が変化し、より鮮明な視覚を得ているように見えた──彼らが譲二の手の動きを追う精度が、格段に上がっていた。
体内の変化はさらに劇的だった。
原始的な肺が拡張し、腹部の大半を占めるようになっていた。酸素供給効率の向上により、筋肉量が増加し、動きが力強くなった。外骨格と内部の軟骨構造がハイブリッドな支持系を形成し、体重の増加を支えていた。
そして──脳。
脱皮殻の頭部を光学顕微鏡で観察すると、頭蓋の内容積が通常のゴキブリの数百倍に拡大していた。昆虫の脳は本来、「脳」と呼ぶのもためらわれるほど小さな神経節の集合体に過ぎない。だが、第十世代の頭部には、それとは全く異なる構造が発達していた。
複数の神経節が融合し、単一の大きな脳様構造を形成していた。表面には皺のような折り畳み──大脳皮質の原型とでも呼ぶべきもの──が見える。
大脳化が進んでいる。
七月。暑い夜。
譲二は「ラボ」の床に座り、第十世代のリーダー格の個体──「一号」の孫世代にあたるため「三号」と呼んでいた──と向き合っていた。
三号は水槽の前面に立ち、前脚──腕──をガラスに当てていた。体長二十五センチ。譲二の前腕ほどの大きさ。黒みがかった赤銅色の甲殻が、蛍光灯の光を鈍く反射している。
譲二は手のひらをガラスに当て、意識を集中した。
三号の「感覚」が流れ込んでくる。嗅覚マップ──だが、それだけではない。かつては匂いの情報だけだった感覚共有が、今ではもっと複雑なものになっていた。空間認識、温度分布、振動のパターン、そして──何か別のもの。
思考、に近い何か。
三号の脳の中に、情報を処理する「回路」が動いている。入力された感覚情報を統合し、比較し、判断する。それは自律的な認知プロセスだ。譲二の命令とは無関係に、三号は自ら「考えて」いる。
何を考えている?
意識を深く沈めた。三号の認知プロセスに、もぐりこむように。
──空間。この空間は壁で囲まれている。壁の向こうに、もう一つの空間がある。そこに、別の存在がいる。大きい存在。温かい存在。食物をくれる存在。
断片的だが、明確な認知だった。三号は自分の環境を把握し、そこに存在する「他者」──つまり譲二──を認識している。
しかも、譲二を単なる環境要因としてではなく、「行動する主体」として認識していた。
意志を持つ存在として。
譲二は目を開けた。汗が額から顎に垂れていた。
三号はガラス越しに、じっと譲二を見ていた。大きな複眼が、蛍光灯の光を受けて微かに輝いている。
「……おまえ、考えてるんだな」
三号の触角が揺れた。
意味を汲み取ることはできなかった。だが、その動きが──以前とは違って──何かを「伝えよう」としているように感じたのは、気のせいだろうか。
二〇二七年の秋。
変化の速度が、指数関数的に上がり始めた。
第十一世代。成長期間は十日。体長三十センチ。前脚の「手」は七つの分節に分かれ、人間の指に似た可動域を持つ。後ろ四本の脚は太く筋肉質で、直立に近い姿勢で体を支えられるようになった。完全な二足歩行ではないが、前傾姿勢で「立つ」ことができた。
十月。
第十一世代のリーダー格──「五号」──が、予想もしない行動を取った。
水槽の中に小枝と葉を入れておいたのだが、五号がそれを使って何かを作り始めたのだ。小枝を組み合わせ、葉で覆い、水槽の隅に小さな──だがはっきりと意図的な──構造物を作った。
巣だ。
ゴキブリは通常、狭い隙間に潜り込むだけで、巣を「作る」ことはしない。だが五号は、素材を選び、加工し、組み立てた。しかも、巣の入り口は水槽の照明から最も離れた方向に向けてあり、内部の温度が安定するよう設計されていた。
建築行動。
譲二はその巣を壊さず、記録だけを取った。翌日、五号は巣の構造を改良していた。入り口の上に小枝で庇を作り、雫──水槽壁面の結露──が内部に入らないようにしてあった。
学習と改善。
十一月。第十二世代。体長三十五センチ。
十二匹を維持するのが限界だった。餌の確保がますます困難になっていた。高タンパクの餌──鶏肉、魚、卵──を大量に必要とする。月の餌代は三万円を超えた。
譲二の体重は五十二キロ。身長百七十五センチの男としては痩せすぎだ。自分の食事を削ってゴキブリに回す日が増えた。
宮本環とは、月に一、二回LINEでやり取りするだけになっていた。宮本は専門学校に通いながら、環境調査会社でインターンをしている。忙しそうだった。
たまに「元気?」と来る。「元気」と返す。嘘ではないが、本当でもない。
十二月のある夜、実験中に鼻血が出た。いつものことだ。能力の行使による脳の負担。だが、今回はなかなか止まらなかった。ティッシュを詰めてもすぐに赤く染まる。三十分ほど止まらず、少し心配になった。
だが、翌日には何ともなかった。
それより、五号のことが気になっていた。
五号が、音を出し始めたのだ。
ゴキブリは本来、ほとんど音を出さない。威嚇時にシューという排気音を出す種はいるが、クロゴキブリはそれすらしない。だが第十二世代の五号は、前脚の関節を擦り合わせて音を出すことを覚えた。バッタやコオロギの「鳴き声」に似た原理だ。
最初はランダムな音だった。ギチ、ギチ、ギチ。不規則で、意味のなさそうな音。
だが、日を追うごとにパターンが現れ始めた。
譲二が餌を持って近づくと、特定の音を出す。ギチギチ、ギチ。水を替えるときは別のパターン。ギチ、ギチギチギチ。
状況に対応した音のパターン。
原始的な「言語」の萌芽。
年末。第十三世代への移行を前に、譲二は自室のパソコンの前に座り、これまでの実験記録を整理した。
二〇二三年十月から二〇二七年十二月まで。四年と二ヶ月。十二世代。
体長は三センチから三十五センチへ。約十二倍。
脳容量は推定で数百倍。
行動の複雑性は、定量化が難しいが──道具使用、建築行動、音声コミュニケーション──人間以外の霊長類に匹敵するレベルに到達しつつある。
そして、まだ加速している。
世代を重ねるごとに、変化の速度自体が上がっている。エピジェネティックな変化が蓄積され、一世代あたりの変化量が増大している。指数関数的な成長曲線。
このまま行けば──あと数年で、何が起きるのか。
譲二はパソコンを閉じ、天井を見上げた。
六畳一間の天井。雨漏りの染み。南米大陸に似た染みは、少し広がっていた。
「……どこまで行くんだろうな」
隣のラボから、五号のギチギチという音が微かに聞こえていた。




