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ゴキブリを操る超能力に目覚めたんだけど  作者: 唯之助


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萌芽(一)

 二〇二八年。大学三年。二十歳。


 第十五世代。


 体長は四十五センチに達していた。


 もう「ゴキブリ」ではない。何と呼ぶべきか、譲二自身もわからなかった。実験ノートには「被験体」とだけ書いている。


 外見は昆虫と哺乳類の中間のようだった。甲殻は背部にのみ残り、腹面は柔軟な皮膚に変わっている。前二脚は完全に「腕」として機能し、五本の指を持つ手で精密な作業ができる。後ろの四脚は──四本ではなく、退化の過程にあった。最も後ろの一対はほぼ機能を失い、小さな突起としてのみ残っている。実質的に、四肢──二本の腕と二本の脚──の体制に移行しつつある。


 頭部は体に対して大きく、短い首で胸部と繋がっている。複眼は発達し、構造が変化して──単純な光の検知ではなく、複雑な映像情報を処理できるようになっていた。触角は短くなり、代わりに頭部の側面に──耳に似た凹みが形成されていた。


 音を聞いている。


 そう気づいたのは一月だった。譲二がラボに入ると、五号の第三世代にあたるリーダー個体──「七号」──が首をわずかに動かして、譲二の方を向いた。ドアの開く音に反応したのだ。


 七号は譲二が近づくと、例の関節音を出した。だが、その音質が変わっていた。ギチギチという擦過音ではなく、もっと柔らかい、ヒュー、ヒュー、という呼気に近い音。腹部の肺様器官から送り出された空気が、口腔──口吻の構造が変化し、開閉可能な「口」が形成されていた──を通過する際に生まれる音だった。


 声帯に相当する構造はまだない。だが、気流を口腔の形で制御し、異なる音を出すことができるようになっていた。


 ヒュー。フー。フィー。


 母音に似た音のバリエーション。


 譲二は七号の前にしゃがみ、目の高さを合わせた。七号の複眼が、間近で譲二を捉えている。


「聞こえてるのか」


 七号の口腔が微かに動いた。フー。


「俺の声が聞こえてるんだな」


 フー。フー。


 七号が同じ音を繰り返す。まるで──譲二の言葉を模倣しようとしているかのように。


 だが、子音を形成する構造がない。唇がない。舌がない。口蓋がない。母音に近い音は出せても、「k」「s」「t」のような子音は物理的に不可能だった。


 まだ。


 だが、方向は見えた。


 二月。譲二は選別基準にもう一つの項目を追加した。「口腔構造の複雑性」。口腔内の筋肉と軟組織が発達し、より多様な音を出せる個体を優先的に選別する。


 声を与えるために。



 三月。春休み。


 ある晴れた日曜日、宮本環から珍しく電話がかかってきた。


「稲川くん、久しぶり! 元気? ねえ、来週の日曜ひま?」


「……たぶん」


「上野動物園に行かない? 仕事で昆虫の写真集める必要があって、一人だとつまんなくて」


 断る理由が思いつかなかった。本当は実験をしたかったが、ここ数ヶ月、自分の部屋とコンビニと大学を往復するだけの生活だった。人間と、面と向かって話すことが減っていた。声帯が退化するかもしれない、と高校時代に思ったのと同じ危惧が、再び頭をよぎった。


「……行く」


「やった! じゃあ十時に上野駅の公園口で」


 日曜日。上野動物園。


 宮本は専門学校の制服ではなく、カーキ色のカーゴパンツにボーダーのカットソーという格好で来た。肩にかけたキャンバスバッグには一眼レフカメラが入っていた。


「久しぶりに会うと、なんか照れるね」と宮本が笑った。


「……そうか」


「稲川くんは変わんないなあ。でも、また痩せた?」


「そうでもない」


「嘘。腕の太さ見てよ、私より細いじゃん」


 実際、宮本の方が健康的に見えた。日に焼けて、前より筋肉質になっている。環境調査の仕事で、フィールドに出ることが多いのだろう。


 動物園を回りながら、宮本は昆虫館で熱心に写真を撮った。譲二はその横で、展示されている昆虫たちを眺めた。


 ナナフシ、タマムシ、オオゴキブリ。


 展示ケースの中の「オオゴキブリ」は体長四センチほどの立派な個体だったが、七号に比べれば赤ん坊のようなものだった。

 宮本が笑った。


「稲川くん、ゴキブリの前で固まってる」


「やっぱり好きなんだ」


「好きっていうか……」


「研究対象だもんね。大学でもゴキブリの研究してるんでしょ」


「まあ」


「いいなあ。好きなことを仕事にできるって」


 昆虫館を出て、ベンチでアイスクリームを食べた。三月の柔らかい日差しが心地よかった。


「ねえ、稲川くん」


「うん」


「高校のとき、秘密があるって言ってたじゃん」


 譲二の手が止まった。


「もう教えてくれる?」


「……まだだめ」


「いつなら?」


「わからない」


 宮本はアイスクリームを舐めながら、しばらく黙った。


「怖いことしてるの?」


 核心を突かれた気がした。


「……怖いことかどうか、自分でもわからない」


「じゃあ、危ないことは?」


「たぶん、危なくはない。たぶん」


「たぶんが二回出た」と宮本は言った。


「稲川くんの『たぶん』は、普通の人の『かなり』だからね」


 見透かされている。三年以上の付き合いで、宮本は譲二の言葉の裏を読むことに長けていた。


「約束する」と譲二は言った。「いつか、必ず話す。全部」


「いつ?」


「完成したとき」


「何が?」


 譲二はアイスクリームの残りを口に入れ、棒を握ったまま空を見上げた。


「……まだ、名前がない」


 宮本は不思議そうな顔をしていたが、それ以上は聞かなかった。

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