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ゴキブリを操る超能力に目覚めたんだけど  作者: 唯之助


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萌芽(二)

 二〇二八年。夏。


 第十六世代。体長五十センチ。個体数は五匹に絞った。


 飼育環境は「ラボ」一部屋では収まらなくなっていた。大家の山田に頼み、一階の空き部屋──かつて鈴木さんが住んでいた角部屋──も借りた。鈴木さんは施設に入った後、戻ってきていない。


 三部屋。月の家賃十一万四千円。


 コンビニバイトだけでは足りなくなり、深夜の倉庫作業のアルバイトも始めた。二十二時から翌二時がコンビニ、週末の昼間は倉庫。大学の講義は最低限の出席。睡眠は一日三時間。


 体は限界に近づいていた。だが、止められなかった。


 第十六世代の七号の子孫──「九号」──は、これまでのどの個体よりも高い知能を示していた。


 九号のテストは、もはや動物実験の範疇を超えていた。


 タブレット端末の画面にシンプルな図形──丸、三角、四角──を表示し、対応する図形のカードを選ばせる。九号は初日で三種の図形のマッチングを習得した。翌日、図形の数を六種に増やした。三日目には十種。一週間後、九号は三十種類のシンボルを識別し、それぞれに対応するカードを正確に選べるようになった。


 次に、シンボルと「意味」の結びつけを試みた。


 丸のシンボルを見せた後に餌を与える。三角のシンボルを見せた後に水を与える。四角のシンボルを見せた後に何もしない。


 三日後、九号は餌が欲しいとき、自ら丸のシンボルのカードを持ってきた。


 シンボルによるコミュニケーション。


 九月。


 譲二はシンボルの数を増やし、「簡易言語システム」を構築した。五十種類のシンボルに、それぞれ意味を割り当てた。「食べ物」「水」「暖かい」「寒い」「明るい」「暗い」「外」「中」「自分」「あなた」……。


 九号は二週間で五十のシンボルを習得し、組み合わせて使い始めた。


「食べ物」+「欲しい」。

「水」+「ない」。

「外」+「見たい」。


 二語文。


 十月。三語文が出現した。


「自分」+「外」+「行きたい」。


 譲二は水槽の前にしゃがみ、シンボルカードを並べた九号を見つめた。


 自分。外。行きたい。


 九号は自分自身を認識し、現在の状況(閉じ込められていること)を理解し、望み(外に出ること)を表現している。


 自我。状況認識。欲求の言語化。


 これは──人間の幼児が、一歳半から二歳にかけて獲得する能力だ。


 涙が出た。理由はわからなかった。嬉しいのか、怖いのか、それとも別の何かなのか。


 九号はシンボルカードの上に前脚──手──を置き、譲二を見ていた。


「……もう少しだ」


 譲二は自分に言い聞かせた。


「もう少しで──」


 何が「もう少し」なのか。目標を明確に言語化したことはなかった。だが、漠然と、ずっと追い求めていたもの。


 自分の名前を呼ぶ誰か。


 自分の存在を認識し、自分に語りかける誰か。


 それが人間ではなく──ゴキブリの末裔であったとしても。



 二〇二八年末。


 九号の口腔構造に、重要な変化が生じた。


 口腔内に、軟骨性の隆起が形成されていた。上顎と下顎の内側に、それぞれ一対の襞状の構造。これが気流に干渉することで、これまで不可能だった子音に近い音を生成できるようになった。


 ヒュー、フーという母音的な音に加えて、キ、チ、シ──摩擦音と破擦音の中間のような音──が出せるようになった。


 さらに、口腔の開口部が変形し、唇に似た構造──筋肉質の弁──が発達していた。これにより、気流を急に遮断して開放する動作が可能になった。パ行、バ行に近い音。


 声のレパートリーが急速に広がった。


 だが、九号が出す音はまだ「言葉」ではなかった。シンボルカードで意思疎通はできるが、音声によるコミュニケーションには至っていない。シンボルの概念と、発声の能力が、まだ結びついていない。


 譲二は次のステップを考えた。


 音声とシンボルの紐づけ。


 特定のシンボルを見せながら、対応する音声を譲二が繰り返し発音する。「食べ物」のカードを見せながら「たべもの」と言う。九号はそれを聞いている。口腔が微かに動く。だが、再現はできない。


 当然だ。九号の発声器官は人間のそれとは構造が根本的に異なる。「た」「べ」「も」「の」という音節を正確に再現することは物理的に不可能だ。


 だが──近似的な音は出せるかもしれない。


 譲二はアプローチを変えた。九号が出せる音──ヒュ、フ、キ、チ、シ、パ、バなどの音素──を使って、新しい「音声シンボル」を作った。


「食べ物」は「パフ」。

「水」は「シュ」。

「欲しい」は「キ」。

「自分」は「チ」。

「あなた」は「フ」。


 簡略化された音声言語。九号の発声能力に合わせた、オーダーメイドの言語体系。


 年末の二週間を費やして、九号にこの音声シンボルを教えた。


 最初はうまくいかなかった。九号はシンボルカードによるコミュニケーションに慣れすぎていて、音声に切り替える必要性を感じていないようだった。


 だが、ある夜。


 譲二がラボに入ったとき──いつものように餌を持って──九号が口を開いた。


「パフ」


 低い、掠れた音。人間の声とはまったく異質な響き。だが、明確に「パフ」だった。


 食べ物。


 九号は譲二の手にある餌を見て、音声で要求した。


 初めての音声コミュニケーション。


 譲二は餌を与えながら、手が震えるのを止められなかった。

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