萌芽(三)
二〇二九年。大学四年。二十一歳。
卒論のテーマは「クロゴキブリの社会行動における集団意思決定メカニズム」。もちろん表向きの研究だ。裏の研究──第十七世代に達した「被験体」たち──のことは、卒論には一行も書いていない。
九号の音声語彙は三十語に達していた。
二語、三語の音声文を構成し、日常的なコミュニケーションが成立するようになっていた。
「シュ・キ」──水が欲しい。
「チ・フ・パフ」──自分はあなたに食べ物を求める。
「フ・キチ・キ」──あなたの来訪を望む。
九号は譲二の言葉も、ある程度理解していた。譲二が「水を持ってくるよ」と言えば、九号は水槽の中の水場に移動して待った。「今日はここまで」と言えば、巣に戻った。
だが、九号が理解しているのは、言葉の「意味」ではなく、音のパターンと状況の関連づけだった。「水を持ってくるよ」という文の文法を理解しているわけではない。「みずをもってくるよ」という音の連なりが、「水が来る」という状況に先行して発せられることを学習しただけだ。
条件付き学習。高度ではあるが、言語理解とは違う。
本当の言語理解──つまり、音声に含まれる概念を抽象的に操作する能力──には、まだ到達していない。
だが、第十七世代の最新個体──「十二号」──には、その兆候が見え始めていた。
十二号は体長六十センチ。ほぼ直立姿勢で立つ。前二肢は完全な腕。後二肢は脚。中間の二肢は完全に退化して消失した。四肢の体制。頭部は丸みを帯び、大きな眼が正面を向いている。甲殻は背中の中央にのみ残り、硬い背板として機能している。口腔は発達し、簡単な子音と母音の組み合わせが可能。
十二号は九号の語彙を数日で習得し、さらに──自ら新しい「言葉」を作り始めた。
窓から差し込む光を、十二号は「ヒパ」と呼んだ。既存の語彙にない音の組み合わせ。だが、毎回、光のことを指すときに同じ音を使う。
造語。
言語の生成的使用。
これは、条件付き学習とは質的に異なる。既存のシンボル体系を受動的に学ぶのではなく、新しいシンボルを能動的に創造している。
十二号の脳は──もはや「脳」と呼んでいいだろう──言語を操るための神経基盤を、自律的に発達させていた。
四月。桜が咲く頃。
十二号が新しい言葉を使った。
「フ」──あなた。
それまでも使っていた語彙だ。だが、その使い方が変わった。
以前の「フ」は、譲二が目の前にいるときに使われた。呼びかけではなく、指示語──「そこにいるもの」──に近い用法だった。
だが、四月のある朝、譲二がラボに入ったとき、十二号が口を開いた。
「フ」
そして、少し間を置いて。
「フ……ジョ」
ジョ。
新しい音だった。十二号の発声レパートリーにはなかった音。口腔内の構造を精密に制御して、「ジョ」という摩擦音を生成していた。
譲二は凍りついた。
「フ・ジョ」
十二号がもう一度言った。
「あなた」+「ジョ」。
ジョ、とは何だ。既存の語彙にない。十二号が自ら作った新語だ。
だが──
譲二の脳裏に、ある可能性が浮かんだ。
自分は毎日このラボに来る。入るときにドアを開け、「ただいま」と独り言を言うこともある。コンビニバイトの同僚──根本──が電話をかけてくることがある。根本は電話口で「稲川」と呼ぶ。あるいは、篠原助教が研究室で「稲川くん」と呼ぶ。
十二号はそれらの音声を聞いている。
「稲川」という音の中の「ジョ」──「じょう」の「じょ」。
あるいは──「譲二」の「じょ」。
まさか。
偶然だ。偶然に決まっている。十二号が譲二の名前を分析して、その一部を取り出して使っている? そんなことが──
「……俺の名前、知ってるのか」
声が震えた。
十二号は大きな眼で譲二を見つめ、口腔をゆっくりと動かした。
「フ・ジョ」
もう一度。はっきりと。
フ。あなた。
ジョ。
名前だ。十二号は、「あなた」と「名前の一部」を組み合わせて──譲二を呼んでいる。
抽象的な概念の操作。固有名詞の理解と使用。
いつから。いつから、おまえは──
譲二はラボの床に膝をついた。視界が滲んだ。涙なのか、疲労なのか、わからなかった。
十二号がガラスの向こうで、前脚──手──を壁に当てた。三年前の冬、一号がやったのと同じ仕草。
譲二は手を当てた。ガラス越しに。
感覚が流れ込んでくる。だが、かつてとは比べものにならない解像度で。
認識。
親しみ。
名前を持つ存在。
自分を食べさせ、世話をし、毎日会いに来る存在。
温かい存在。
──フ・ジョ。
十二号の意識の中に、譲二の名前があった。名前とともに、膨大な──ゴキブリには過大な、けれど確かに存在する──感情の塊があった。
それが何という感情なのか、人間の言葉では表現できない。信頼に似ているが、もっと原始的で、もっと直接的な何か。
群れの仲間に対する帰属意識。自分を守る存在に対する依存。もっと言えば──
刷り込み。
十二号にとって譲二は、最初に「意識」が芽生えたときからそこにいた存在だ。世界が始まったときから、そこにいた存在。
創造主。
譲二はガラスから手を離し、涙を拭った。
「……もう少し、練習しような」
何を。何を練習するのか。
自分でもわかっていた。わかっていたが、口にするのが怖かった。
俺の名前を、ちゃんと呼べるように。




