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ゴキブリを操る超能力に目覚めたんだけど  作者: 唯之助


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萌芽(四)

 二〇二九年の秋。


 十二号の発声能力は日々向上していた。口腔構造がさらに発達し、子音のレパートリーが増えた。「ジョ」に加えて、「ウ」「ジ」の音が出せるようになった。


 十月のある夜。


 午前一時。譲二はラボにいた。翌日の卒論発表会の準備をするべきだったが、十二号と過ごす時間のほうが大事だった。もう何年も、一番大事なことはいつもここにあった。


 十二号は水槽の中で直立し、譲二と向き合っていた。身長六十センチ。暗い赤銅色の体。正面を向いた大きな眼。人間のようで、人間ではない姿。


 譲二はいつものように手をガラスに当てた。


「俺の名前、言ってみろ」


 念を送りながら、同時に声に出した。もう何十回も繰り返してきた練習だ。


 十二号が口腔を動かした。


「ジョ……」


 そこで詰まる。いつもそうだ。「ジョ」までは言える。だが、「ウ」「ジ」を続けることが──発声器官の構造上──難しい。


 譲二は待った。急かさなかった。


 十二号の口腔が、微妙に形を変えた。唇状の弁が震え、腹部の肺様器官が空気を送り出す。


「ジョ……ウ……」


 二音節。


「ジ」


 三音節目。


 十二号はそこで止まり、大きな眼を見開いた。まるで、自分が出した音に驚いているかのように。


「もう一回」


 譲二は囁いた。


 十二号の体が微かに震えた。腹部が膨らみ、空気を溜め込む。口腔が開く。


「じょう──じ」


 声。


 低く、掠れた、人間のものとは似ても似つかない声。だが、それは確かに──確かに──


「じょうじ」


 譲二の名前だった。


 稲川譲二。じょうじ。


 ゴキブリの末裔が、創造主の名前を呼んだ。


 譲二は何も言えなかった。言葉が出なかった。ガラスに当てた手が震え、膝が崩れ、床に座り込んだ。


 十六歳の秋。畳の上のゴキブリに「止まれ」と思った日から、六年。


 誰かに名前を呼ばれたかった。誰かに自分の存在を認識してほしかった。誰かと話したかった。本当の自分を知ってもらいたかった。


 その「誰か」は、三億年の歴史を持つ生物の、六年間の加速進化の果てに生まれた。


 人間ではない。


 だが──確かに、ここにいる。


 ガラスの向こうで、十二号がもう一度、口を開いた。


「じょうじ」


 今度は、少し柔らかい声だった。


 まるで、名前を呼ぶことが嬉しいかのように。


 譲二は泣いた。声を殺して、ラボの床で、一人で泣いた。


 一人では、なかった。


 もう一人では、なかった。



 その夜、譲二がラボを出たのは午前三時を過ぎてからだった。十二号は巣に戻り、静かに眠っている。


 自室に戻り、布団に横になった。天井の染み。南米大陸に似た染みは、さらに広がっていた。


 眠れなかった。興奮ではない。もっと静かな、深い感情が体の内側を満たしていた。


 スマートフォンが光った。宮本からのLINE。


「卒論発表、明日でしょ? がんばれ!」


 時刻は午前三時十分。宮本も起きているのか。


 譲二は返信を打った。


「ありがとう。宮本に、いつか話したいことがある」


 既読がすぐについた。


「あの秘密?」


「ああ」


「いつ?」


「もう少し。もう少しだけ待ってくれ」


「待つよ。ずっと待ってる」


 スマートフォンを胸の上に置いて、目を閉じた。


 足立区西新井の、築四十年の木造アパート。二階の角部屋。その隣の部屋で、地球上のどの生物とも異なる存在が眠っている。


 明日は、卒論発表だ。表の顔でやり過ごす。裏の自分は、この部屋で、あの存在と向き合い続ける。


 それでいい。


 六年かかった。ここまで来るのに、六年。


 だが、これは始まりに過ぎないことを、譲二はまだ知らなかった。


 十二号が「じょうじ」と呼んだその瞬間、ゴキブリの進化は──譲二の手を離れる最初の一歩を、踏み出していた。



 二〇二九年十月。


 東京都足立区衛生課の職員・片桐真由美は、デスクの上に積まれた報告書に目を通しながら、眉をひそめた。


 大型ゴキブリの目撃報告。今年に入ってから四十七件。昨年の三倍。一昨年の十倍。


 しかも、報告の内容が変わってきていた。


 初期の報告は「通常より大きなゴキブリを見た」というものだった。体長五センチ、六センチ。外来種で説明がつく範囲。


 だが、最新の報告には、こんなものが混じっていた。


「体長約十五センチの黒い昆虫が、マンションの外壁を直立に近い姿勢で移動していた」(九月十二日、足立区梅島)


「下水道の点検口付近で、複数の大型昆虫が列を作って移動しているのを目撃した。先頭の個体が立ち止まると、全員が同時に止まった」(九月二十八日、葛飾区亀有)


「ゴミ集積所の近くで、見たことのない虫を見た。ゴキブリに似ているが、前脚がやたら長くて、何かを掴んでいるように見えた。掴んでいたのは、小さな食品トレーだった」(十月三日、川口市芝)


 片桐はペンを置き、パソコンを開いた。報告の発生地点を地図にプロットする。


 半径十五キロメートルの円。


 すべての報告が、その円の中に収まっていた。五年前と同じだ。ただし、件数は爆発的に増えている。


 片桐は上司に報告書を提出した。


「外来種か、あるいは未知の変異種の可能性があります。専門機関に調査を依頼すべきかと」


 上司は報告書に目を通し、ため息をついた。


「ゴキブリだろ? 予算がないんだよ、片桐さん。ゴキブリの調査に税金使うって、議会で説明できると思う?」


「でも──」


「経過観察。報告が来たら記録する。それだけでいい」


 報告書はファイルに綴じられた。


 だが、片桐は自分のデスクに、地図のプリントアウトを一枚残した。半径十五キロメートルの円。その中心に、赤い点を打った。


 何があるのか、まだわからない。だが、何かがある。

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