告白(一)
二〇三〇年。一月。
卒論発表を終え、大学院への進学が決まった翌週のことだった。
譲二は宮本環に電話をかけた。午後八時。コンビニバイトに出る前の、わずかな空白の時間。
「話がある」
「あの秘密?」
「ああ」
「……やっと」
宮本の声が微かに震えていた。待ちくたびれた、というよりも、ようやく来た、という響き。
「来週の日曜、部屋に来てくれ。見せたいものがある」
「部屋? 西新井の?」
「隣の部屋のほう」
「隣?」
「来ればわかる」
日曜日。二月二日。曇り。
宮本は午前十時きっかりに来た。カーキ色のダウンジャケットにジーンズ。肩にいつものキャンバスバッグ。
譲二は自室で宮本を迎え、ふたりで六畳の畳に向かい合って座った。
「話す前に、一つ約束してくれ」
「うん」
「今から見せるものを見て、怖くなったら帰っていい。俺のことを気持ち悪いと思っても、それは正しい反応だ。謝る必要はない」
宮本は眼鏡の奥の目を細めた。
「稲川くん、私のこと甘く見てない?」
「甘くは見てない。だから、先に言っておく」
「わかった。約束する。でも、帰らないよ。たぶん」
譲二は深く息を吸い、吐いた。
「俺には、ゴキブリを操る能力がある」
宮本は瞬きをした。一回。二回。三回。
「……操る」
「テレパシーみたいなものだ。念じると、ゴキブリが俺の命令に従う。十六歳のとき気づいた。高二の秋、宮本に『秘密がある』と言ったのはそのことだ」
宮本はしばらく黙っていた。表情が読めなかった。怒っているのか、呆れているのか、恐れているのか。
「それだけ?」
「……それだけ、じゃない」
譲二は立ち上がった。
「ついてきてくれ」
隣の部屋──ラボ──のドアを開けた。
蛍光灯の白い光が、三つの大型水槽を照らしていた。室温は二十五度に保たれ、微かに湿った空気が廊下に流れ出す。
宮本がラボに一歩踏み入れた瞬間、足が止まった。
水槽の中に、十二号がいた。
体長六十センチ。暗い赤銅色の甲殻。直立した姿勢。正面を向いた大きな複眼。二本の腕。二本の脚。人間のようで、人間ではない。
宮本の顔から血の気が引いた。キャンバスバッグを持つ手が、白くなるほど握り締められた。
「な……に、これ」
「六年かけて、ここまで進化させた。元はクロゴキブリだ」
十二号が水槽のガラスに近づいた。宮本を見ている。初めて見る人間──譲二以外の人間──に対する好奇心だろうか。頭部がわずかに傾く。
宮本が一歩後ずさった。
「稲川くん、これ……」
「怖かったら帰っていい」
「怖い」
宮本の声は正直だった。
「怖い。でも──」
十二号が口腔を開いた。
「じょうじ」
低い、掠れた、人間のものとは異なる声。だが、明確に名前を呼んでいる。
宮本が息を呑んだ。
「……しゃべった?」
「ああ。先月から。俺の名前だけだけど」
「じょうじって……譲二、のこと?」
「たぶん」
宮本は震えていた。全身が。だが、逃げなかった。
長い沈黙があった。ラボの蛍光灯がじじ、と音を立てた。水槽のエアレーションの泡が、ぽこぽこと鳴っていた。
宮本が、ゆっくりと水槽に近づいた。
「……触っても、いい?」
「ガラス越しなら」
宮本は右手をガラスに当てた。十二号が、反対側から前脚──手──を当てた。あの仕草。譲二との間で何百回と繰り返された、ガラス越しの接触。
「温かい」と宮本が言った。声がまだ震えている。「ガラスの向こうから、温かいのが伝わる」
「感覚を共有してるんだと思う。こいつは、そういうことができる」
宮本はガラスから手を離し、譲二のほうを振り向いた。眼鏡の奥の目が赤かった。泣いているのか。
「稲川くん」
「うん」
「六年間、一人でこれ」
「ああ」
「……ばか」
それが、宮本の最初の反応だった。
恐怖でも嫌悪でもなく、怒りだった。六年間、一人で抱え込んでいたことに対する。
「なんで早く言わないの。なんで一人で全部やるの。倒れたらどうするの。死んだらどうするの」
「だって──」
「だってじゃない。私、ずっと心配してた。痩せてくし、顔色悪いし、鼻血出てるの知ってるし。原因これでしょ。この……研究のせいでしょ」
譲二は何も言えなかった。
宮本は深呼吸をした。一回、二回、三回。目元を袖で拭い、鼻をすすった。
「手伝う」
「え?」
「私、環境調査の仕事してるの知ってるでしょ。生き物の扱いは慣れてる。少なくとも餌やりとか清掃とか、一人でやることない」
「宮本、これがどれだけ──」
「危ないかってこと? 知ってる。見ればわかる。でも、稲川くんが一人で続けるほうがもっと危ない」
十二号が、ふたりのやり取りを眺めていた。頭部をゆっくりと左右に動かし、二人の人間を交互に見ている。
「じょうじ」
十二号がまた言った。それから、宮本のほうを向いた。
「……ふ」
宮本を指す音。「あなた」。
「この子、私のこと見てる」と宮本が言った。声の震えが、少しだけ収まっていた。
「ああ。見てる」
「名前、あるの? この子」
「十二号、と呼んでる」
「十二号……」
宮本は小さく笑った。
「もうちょっと可愛い名前つけてあげなよ」
その笑い声を聞いて、譲二は初めて実感した。
拒絶されなかった。
この人は、逃げなかった。




