告白(二)
二〇三〇年三月。
宮本が提案した。
「ここじゃもう無理でしょ」
事実だった。体長六十センチの個体が五匹。アパート二部屋では飼育環境として限界を超えている。しかも足立区の住宅密集地だ。近隣住民に見られるリスクは日増しに高まっていた。
「おばあちゃんの実家が秩父にあるの。空き家になってる」
宮本の祖母──宮本ハツ──は秩父の山間部の出身だった。若い頃に東京に出てきて足立区に住みつき、そこで宮本の母を育てた。秩父の実家は祖母の兄が継いでいたが、その兄も五年前に亡くなり、以来空き家のままだった。
「秩父の奥のほう。横瀬町から更に山に入ったところ。集落っていうか、もう集落の跡。住んでるのは二軒だけで、どっちも高齢のおじいちゃんおばあちゃん。隣の家まで三百メートルぐらいある。裏は山。母屋の他に蔵がある」
「蔵?」
「昔は養蚕やってたらしくて、蚕を飼うための蔵。コンクリートの基礎に土壁。窓は小さいのが二つだけ。頑丈だよ」
養蚕用の蔵。虫を飼うための建物。皮肉だった。
三月末、譲二と宮本は秩父を下見に行った。
西武秩父線の終点から、宮本が借りた軽トラックで山道を四十分。舗装路が途切れ、砂利道になり、やがて落ち葉に覆われた細い道になった。杉林の間を縫って登っていくと、谷間の緩斜面にぽつんと、灰色の屋根が見えた。
母屋は築七十年の木造平屋。八畳二間に台所と風呂場。屋根はトタンで、一部が錆びて穴が開いている。だが構造は思ったより頑丈だった。柱は太い栗材で、歪みは少ない。
蔵は母屋の裏手にあった。石積みの基礎の上に、厚い土壁。内部は八畳ほどの空間が二層になっている。一階は土間で天井が高く、二階は板張りの棚が並んでいた。蚕棚の名残だ。窓は東側に二つだけ、いずれも三十センチ四方の小さなもの。
「いい」と譲二は言った。「ここなら、できる」
四月。引っ越し。
大学院の入学手続きと並行して、秩父への移転を進めた。アパートの大家・山田には「就職で引っ越す」と告げた。山田は「そうか、寂しくなるな」と言い、寿司を取ってくれた。譲二が六年間住んだ部屋を出るとき、山田は玄関先で手を振った。鈴木さんのことを見つけてくれた学生さん、として記憶されるのだろう。
飼育設備の移動は深夜に行った。大型水槽は軽トラックに載せ、宮本が運転した。十二号を含む被験体は、密閉コンテナに入れて譲二が助手席で抱えた。真夜中の関越自動車道を走る軽トラックの中で、コンテナの内側から「じょうじ」という低い声が微かに聞こえた。
「怖がってるの?」と宮本が聞いた。
「たぶん。移動は初めてだから」
譲二はコンテナの壁に手を当て、念を送った。──大丈夫だ。
コンテナの中が静かになった。
秩父の家に着いたのは午前三時だった。山の空気は四月でもまだ冷たく、満天の星が見えた。東京では見えない星だった。
蔵の一階を改造し、水槽を設置した。電気は母屋から延長コードで引いた。水道は井戸水。インターネットはモバイルルーター。文明からは遠いが、実験には十分だった。
むしろ、この環境のほうがよかった。
周囲に人がいない。山林が広がっている。空気が澄んでいる。そして──虫が多い。
秩父の山林には、東京の比ではない数の昆虫がいた。譲二の能力の感知範囲──今では半径二百メートルほどに拡大していた──に入ってくるゴキブリの数は少なかったが、その代わり、周囲の生態系が豊かだった。被験体たちに与える餌の選択肢も広がった。
宮本は週末ごとに秩父に通った。平日は都内の環境調査会社で働き、金曜の夜に車を飛ばして山に来る。土日は譲二の実験を手伝い、日曜の夜に東京に戻る。
「二重生活だね」と宮本は笑った。
「すまない」
「謝らないで。私が好きでやってるんだから」
宮本の存在は、実験の効率を劇的に向上させた。餌の調達、水槽の清掃、温度管理。これまで譲二が一人で抱えていた雑務を分担できるようになり、譲二は観察と念の送出に集中できた。
そして何より、宮本は「話し相手」だった。
六年間、誰にも話せなかった研究の進捗を、宮本に語ることができた。データを見せ、仮説を説明し、悩みを打ち明けた。宮本は専門的な知識は限られていたが、環境調査の現場で鍛えた観察眼で、しばしば譲二が見落としていたことを指摘した。
「この子たち、お互いに順番守ってるよ。餌場に行くとき」
「え?」
「見て。十二号が先に食べて、その次がいつも同じ子。その次も同じ。序列があるんだよ」
宮本の観察は正しかった。被験体の間には明確な社会的序列が形成されていた。序列は単純な力関係ではなく、知性と年齢が複合的に作用しているようだった。十二号はリーダーだが、それは最も強いからではなく、最も賢いからだ。
二〇三〇年夏。
秩父の山奥で、第十八世代が誕生した。
ここで、一つの問題が──避けて通れない問題が──表面化した。
前の世代はどうなるのか。
通常のクロゴキブリの寿命は約一年半。だが、被験体たちの寿命は大幅に延びていた。第十五世代の個体が、まだ生きている。第十六世代も、第十七世代も。世代を重ねるごとに個体数は絞り込まれているとはいえ、蔵の中には十五世代から十八世代まで、四つの世代が同時に存在していた。
合計十九匹。
そして、世代間には明確な差があった。
第十五世代。体長四十五センチ。最も古い世代。甲殻は厚く、体は頑健だが、知能は後の世代に比べると明らかに劣る。音声は単純な母音の組み合わせしか出せない。行動は慎重で保守的。蔵の隅に自分たちの巣を作り、あまり動かない。
第十六世代。体長五十センチ。九号の世代。シンボルカードでの意思疎通ができ、限定的な音声を発する。十五世代より活動的で好奇心がある。
第十七世代。体長六十センチ。十二号の世代。音声言語の使用。造語能力。最も知性が高い現役世代。
第十八世代。生まれたばかりの幼体。だが、すでに親世代を超える兆候を見せている。
四つの世代が一つの空間で暮らすということは、四つの異なる「知性レベル」が共存するということだった。
人間で言えば、大人と幼児と赤ん坊が同じ家に住んでいるようなものだ。だが、人間と違って、世代間の知性の差は「年齢差」ではなく「種としてのスペック差」だった。第十五世代がいくら学習しても、第十七世代の知性には届かない。ハードウェアが違う。
この格差が、社会的な緊張を生んでいた。
六月のある日、譲二は蔵の中で異変を感じ取った。
第十七世代の十二号と、第十五世代の古い個体──「初代四号」と呼んでいた──が対峙していた。初代四号は十五世代のリーダー格で、体格では十二号より劣るものの、経験と慎重さで群れの秩序を維持してきた個体だ。
初代四号が、十二号の巣の近くにある餌場から押し出されていた。十七世代の三匹が、無言で──だが明確な意図を持って──初代四号の進路を塞いでいた。
排除だ。
譲二は割って入ろうとした。念を送る。──やめろ。
十二号が譲二を見た。大きな複眼が、感情を読み取れない光を湛えていた。それから、低い声で言った。
「……ふるい」
古い。
十二号が初代四号を指して「古い」と言った。それは単なる記述ではなかった。判断だった。古い個体は群れにとって負担である、という。
譲二は背筋が冷えた。
──こいつは、仲間を切り捨てようとしている。
「だめだ」と声に出した。「追い出すな」
十二号は譲二を見つめたまま、しばらく動かなかった。それから、ゆっくりと後退した。十七世代の他の個体も、道を開けた。初代四号が餌場に戻った。
命令は通った。だが、十二号の複眼に宿っていたもの──それは従順とは違う光だった。
納得していない。
従っているが、同意はしていない。
その夜、譲二は宮本に相談した。
「世代間の格差が広がりすぎてる。古い世代が新しい世代に圧迫されてる」
「人間の老人問題みたいだね」と宮本は言った。
「笑い事じゃない。十二号は初代四号を群れから排除しようとした。俺が止めたけど、いつまで従うかわからない」
「……稲川くんの命令って、どのくらい効くの? 今でも」
核心をつく質問だった。
「……正直に言うと、第十七世代には、以前ほど効かない」
認めたくなかった事実。能力が弱まったわけではない。むしろ、譲二の能力自体は年々強化されている。感知範囲は広がり、同時制御数も増えた。だが、被験体の知性が上がったことで、「命令に従うかどうかを判断する」能力が生まれてしまった。
単純な「止まれ」「動け」は今でも効く。だが、彼らの意志に反する命令──たとえば「古い個体を受け入れろ」──は、従順さではなく忍耐で聞いている。いつか、忍耐の限界が来る。
宮本は膝を抱えて考え込んだ。
「じゃあ、分けたら?」
「分ける?」
「世代ごとに、生活空間を分ける。蔵の一階と二階で。あるいは母屋の一部を使って」
譲二は考えた。物理的に分離する。群れを世代別に分割する。
「それは……自然な群れの在り方じゃない」
「自然じゃなくても、全員が安全なほうがいいんじゃない?」
宮本は正しかった。
七月。蔵を改造し、一階を第十七・十八世代の居住区、二階を第十五・十六世代の居住区とした。階段は譲二が手動で開閉できる仕切り板で区切った。餌場は各階に設置。水も個別に供給。
分離は表面上うまくいった。世代間の衝突はなくなった。
だが、二階に隔離された第十五・十六世代の個体たちは、日に日に活力を失っていった。
八月。初代四号が死んだ。
朝、二階の水槽を確認したとき、初代四号は巣の中で動かなくなっていた。体を丸め、前脚を胸の前で組んだ姿勢。眠っているように見えたが、触角はもう揺れていなかった。
外傷はない。病気の兆候もない。ただ、静かに止まった。
寿命──だろうか。第十五世代の最初の個体が生まれたのは二〇二八年初頭。約二年半。通常のゴキブリの寿命の倍近い。大型化に伴って寿命も延びていたが、無限ではなかった。
譲二は初代四号の亡骸を蔵の裏の山林に埋めた。スコップで穴を掘り、落ち葉の上に横たえ、土をかけた。
墓標は立てなかった。だが、位置は覚えた。
翌日、一階の十二号が蔵の仕切り板の前に立っていた。板の向こう──二階──から伝わる匂いの変化を感じ取ったのだろう。初代四号がいなくなったことを、知っている。
十二号は譲二を見た。
「ふるい……いない」
古いのが、いなくなった。
その声に、感情があったのかどうか、譲二にはわからなかった。
九月までに、第十五世代は全個体が死んだ。一匹ずつ、静かに。衰弱でも病気でもなく、ただ止まるように。最後の一匹が死んだ朝、二階の水槽は空になっていた。
第十六世代の九号も、動きが鈍くなっていた。かつてはシンボルカードを器用に操ったその手が、震えるようになっていた。
十月。九号が死んだ。
九号は最期まで、譲二に「パフ」──食べ物──と音声で要求し続けた。最後の朝、譲二が餌を持って二階に上がると、九号は巣から出てこなかった。巣の中を覗くと、九号は壁に背をもたせかけ、前脚を膝の上に置き、目を閉じていた。
呼吸はなかった。
譲二はしばらくの間、九号の亡骸の前に座っていた。九号は初めて音声で「パフ」と言った個体だ。初めてシンボルカードで三語文を作った個体だ。初めて「自分・外・行きたい」と欲求を表現した個体だ。
九号を山林に埋めたとき、初代四号の墓の隣に並べた。
宮本が、小さな野花を摘んできて添えた。
「ありがとう、九号」
宮本の声は静かだった。
一階では、第十七世代の十二号が仕切り板の向こうを見つめていた。




