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ゴキブリを操る超能力に目覚めたんだけど  作者: 唯之助


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衰退(一)

 二〇三〇年の冬。


 秩父の山は早く冬が来た。十一月には初霜が降り、十二月には積雪があった。蔵のヒーターをフル稼働させても、壁からの冷気が染み込んだ。


 譲二の体調が、目に見えて悪化していた。


 頭痛が常態化した。以前は念を送った後だけ痛んでいたのが、今では何もしていなくても、こめかみの奥に鈍い痛みがある。鎮痛剤が手放せなくなった。


 鼻血の頻度が増した。月に一度が、週に一度になり、やがて三日に一度になった。止まるまでの時間も長くなった。


 視界の端に、ときどきちらつきが走る。稲妻のような閃光が一瞬だけ見え、すぐに消える。


 大学院の研究室で篠原助教が気づいた。


「稲川くん、顔色悪いな。病院行ってるか?」


「大丈夫です」


「大丈夫じゃないだろ。最近、ゼミ中にぼーっとしてることが多い。脳貧血か何かじゃないのか」


 篠原の言葉は的外れではなかった。譲二自身も、何かがおかしいと感じていた。だが、病院に行く時間も金もなかった。大学院の学費、秩父の家の維持費、被験体の餌代。コンビニバイトは辞めたが、代わりに大学のティーチングアシスタントの給料と奨学金で食いつないでいる。


 十二月。宮本が強引に譲二を病院に連れていった。


 東京の総合病院。脳神経外科。MRI検査。


 結果は、二週間後に出た。


 医師──初老の男──は、モニターに映るMRI画像を指さしながら、淡々と説明した。


「前頭葉と側頭葉に、複数の微小出血の痕跡があります。脳小血管病変──小さな血管が繰り返し出血している跡です。通常、この年齢では見られない所見です」


 譲二は画像を見つめた。灰色の脳の断面に、白い点が散らばっている。前頭葉──思考と判断を司る領域──に集中して。


「原因は?」


「現時点では不明です。外傷歴はないとのことですし、先天的な血管奇形も見当たらない。何か、脳に極端な負荷をかけるようなことをしていますか?」


 譲二は一瞬、宮本と目を合わせた。


「……していません」


「念のため、半年ごとの経過観察を勧めます。進行するようなら、より精密な検査が必要です」


 病院を出た後、宮本は歩道の端で立ち止まった。


「稲川くん」


「わかってる」


「わかってない。念を送るのをやめて」


「やめたら、彼らの進化が止まる」


「進化が進んでも、稲川くんが死んだら意味ない」


「……意味はある。彼らは俺がいなくても、もう自分たちで──」


「いなくなっていいって言ってるんじゃない」


 宮本の声が裂けた。冬の道路に、白い息が散った。


「私は稲川くんに生きていてほしいの。ゴキブリの進化より、稲川くんの命のほうが大事なの。当たり前でしょそんなの」


 譲二は何も言えなかった。


 当たり前のことが、自分にはわからなくなっていた。



 年が明けて二〇三一年。


 譲二は念の送出時間を減らした。一日二時間から、一時間に。さらに三十分に。


 脳への負担は軽くなったが、頭痛は完全には消えなかった。既に蓄積されたダメージが、少しずつ進行している。


 だが、驚くべきことが起きた。


 念の時間を減らしても、被験体の進化は止まらなかった。


 第十八世代──秩父で生まれた世代──は、譲二の念を受けなくても、独力で成長し、変化していた。成長速度は念を送っていた頃より遅いが、完全に停滞しているわけではない。


 つまり──エピジェネティックな変化が、遺伝的に定着しつつある。


 もはや、譲二の能力がなくても、進化の歯車は自力で回り始めている。


 七年間にわたって蓄積された変化が、ゲノムの深い層にまで浸透した。スイッチは入った。もう、外部からの力がなくても、スイッチは入り続ける。


 第十八世代。体長七十センチ。ほぼ直立二足歩行。前肢の手は五本指で、爪がある。頭部は球形に近づき、頭蓋が拡大している。複眼の構造がさらに変化し──個々のレンズが融合して、より大きな少数の眼になりつつあった。単眼化の始まり。昆虫の複眼から、脊椎動物に近いカメラ眼への過渡期。


 口腔は発達し、軟骨性の声帯に相当する構造が形成された。子音と母音の組み合わせのレパートリーは大幅に増え、日本語の音素の約半分を近似的に再現できるようになった。


 語彙は百を超えた。文法の萌芽──語順のルール──が自発的に生まれていた。


 二月のある日、十二号の息子──「十四号」──が、譲二に向かってこう言った。


「じょうじ。そと。しろい」


 外が白い。


 窓から見ると、雪が降っていた。十四号は窓の外を見て、その状況を三語で描写した。


 単なる要求ではない。観察の報告だ。自分が見たものを、他者に伝えている。


 情報共有。言語の社会的使用。


 三月。宮本が秩父に引っ越してきた。東京の仕事を辞め、秩父の環境調査事務所に転職した。


「こっちのほうが通勤楽だし」と宮本は言ったが、本当の理由は譲二の体調だった。一人にしておけない。そう判断したのだろう。


 母屋の八畳間に二人で暮らし始めた。質素な生活だった。宮本の収入と譲二の奨学金。蔵の裏の小さな畑で野菜を育てた。


 形の上では、同棲だった。


 四月のある夜、布団に並んで横になりながら、宮本が言った。


「結婚しよう」


 譲二は天井を見ていた。秩父の家の天井には、西新井のアパートのような雨漏りの染みはなかった。代わりに、太い梁が走っている。


「俺は……長くないかもしれない」


「知ってる」


「それでもか」


「それでも。だから、今のうちに」


 沈黙が流れた。蔵のほうから、被験体たちの微かな気配が伝わってくる。十二号が巣の中で寝返りを打つ音。十四号が何か呟いている声。


「……わかった」


 五月。二人は秩父市役所に婚姻届を出した。証人は大家の山田──わざわざ足立区から来てくれた──と、宮本の母親。宮本の母親は娘が秩父の山奥で「研究者と暮らす」と聞いたとき渋い顔をしたが、宮本がきっぱりと「決めたの」と言うと、それ以上は何も言わなかった。


 式は挙げなかった。写真も撮らなかった。ただ、婚姻届を出した帰りに、秩父の街中の食堂で豚の味噌漬け定食を二人で食べた。


「これが結婚式の食事か」と譲二が言った。


「贅沢言わない。おいしいでしょ」


「……おいしい」


 それが二人の結婚式だった。

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