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ゴキブリを操る超能力に目覚めたんだけど  作者: 唯之助


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衰退(二)

 二〇三一年の夏。


 譲二は大学院を休学した。体力が通学を許さなくなっていた。篠原助教には「家庭の事情」とだけ伝えた。篠原は何か感じ取ったようだったが、深くは聞かなかった。


 秩父の家で、終日を過ごすようになった。蔵と母屋を往復し、被験体の観察を続け、ノートに記録を取る。念は一日十五分に制限した。それでも、頭痛は消えなかった。


 七月。第十九世代が誕生した。


 十二号と、第十八世代のメス個体との間に生まれた子供たち。五匹。


 この世代で、決定的な変化が起きた。


 幼体の段階で、既に音声を発した。


 生後三日。まだ体長十センチにも満たない幼体が、口を開いて「ふ」と言った。母音の一つ。意味はまだ伴っていない。だが、生得的に発声する能力が備わっている。


 言語能力が、学習ではなく本能として遺伝し始めている。


 生後一週間で、幼体は親の言葉を聞いて模倣した。二週間で単語を使い始めた。一ヶ月で二語文。


 人間の幼児が言語を獲得するのに一年以上かかることを考えると、異常な速度だった。だが、彼らの脳は最初から言語処理に最適化されたハードウェアを持って生まれてくる。人間で言えば、文法装置を内蔵した状態で生まれるようなものだ。


 九月。第十九世代の成体。体長八十センチ。


 外見はもはや昆虫の面影をほとんど残していなかった。直立二足歩行。二本の腕。五本指の手。頭部は球形で、二つの大きな眼──複眼ではなく、融合した単眼に近い構造──が正面を向いている。甲殻は背部の中央と腕の外側にのみ残り、装甲のように見える。肌──外骨格ではなく、柔軟な皮膚──は暗褐色で、微かに光沢がある。


 十二号は老いていた。


 第十七世代の十二号は、すでに二年以上を生きている。体長六十センチの体はまだ健在だったが、動きに以前のような俊敏さはなかった。関節の軟骨が磨耗しているのか、歩行時にわずかなぎこちなさがある。


 十二号は蔵の一階の隅に自分の巣を構え、そこから動くことが少なくなっていた。だが、第十九世代の幼体たちが近づくと、十二号は口を開いて何かを語り聞かせた。


 長い、複雑な音声の連なり。譲二にはすべてを解読できなかったが、いくつかの単語は聞き取れた。


「じょうじ」「はじめ」「ちいさい」「おおきい」「かわる」


 十二号は──子供たちに、物語を語っていた。


 自分がまだ小さかった頃のこと。水槽の中で暮らしていたこと。「じょうじ」という存在がいて、食べ物をくれたこと。名前を呼んだこと。


 口承伝達。歴史の萌芽。


 譲二はそれを蔵の入口で聞きながら、目頭が熱くなった。



 十一月。


 二回目のMRI検査。東京の病院まで、宮本の運転で往復した。


 結果は良くなかった。


 微小出血の数が増えていた。前頭葉だけでなく、側頭葉、頭頂葉にも広がっている。一部の出血跡は瘢痕化し、周囲の脳組織を圧迫していた。


 医師は深刻な顔で言った。


「このペースで進行すれば、数年以内に重大な脳血管障害──脳出血や脳梗塞──が起きるリスクが高いです。二十代でこの所見は極めて異例です。何か原因に心当たりはありませんか」


「ありません」


 嘘だった。原因は知っている。七年間にわたる超能力の行使。脳の血管を繰り返し酷使した結果だ。


 帰りの車の中で、宮本は泣いた。ハンドルを握ったまま、道路を見つめたまま、声を殺して泣いた。


 譲二は助手席で、何も言えなかった。


「念を……完全にやめて」


「やめる」


「約束して」


「……約束する」


 嘘ではなかった。だが、完全にやめることが何を意味するか、譲二には見えていた。


 念をやめれば、被験体との最後のつながりが切れる。操ることはもうしていない。だが、感覚の共有──彼らの思考の断片を感じ取ること──は、まだ続けていた。十二号の意識に触れ、温かさを感じること。それが、譲二にとっての生きがいの一つだった。


 それも、手放さなければならない。


 十二月。念を完全に停止した。


 最初の一週間、頭の中が空っぽになったような感覚があった。七年間ずっとあった──ゴキブリたちの気配、微かな意識の波、嗅覚マップの断片──が、すべて消えた。


 静寂。


 西新井のアパートで一人暮らしを始めたときの静寂に似ていた。だが、あの頃よりずっと深い。


 被験体たちのほうにも変化があった。


 十二号が、蔵の中で落ち着かない様子を見せ始めた。譲二がラボに入っても、以前のように「じょうじ」と呼びかけることが減った。代わりに、宮本のほうを見る。


 念のつながりが切れたことで、十二号は譲二の意識を「感じ取れなく」なったのだ。目の前にいるのはわかる。だが、かつてのような深い接続──意識と意識の直接的な交流──がなくなった。


 譲二にとっての十二号が変わったのではない。十二号にとっての譲二が変わったのだ。


 かつては意識の中に常に存在していた「じょうじ」が、ただの外側の存在になった。


 見える。聞こえる。だが、感じない。


 十二号の態度は、明らかに変わった。不信ではない。戸惑いだ。いつもそこにあった温かい存在が、突然冷たくなったような。


 宮本が蔵で餌やりをしているとき、十二号が宮本に近づき、前脚を伸ばしてそっと宮本の手に触れた。


「じょうじ……つめたい」


 宮本は譲二を振り返った。


 譲二は蔵の入口に立って、それを見ていた。

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