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ゴキブリを操る超能力に目覚めたんだけど  作者: 唯之助


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喪失(二)

 二〇三四年。三月。


 桜はまだ咲いていなかった。秩父の山桜は四月にならないと開かない。


 三月十四日。午前六時。


 宮本は隣で眠っている譲二の呼吸が、いつもと違うことに気づいて目を覚ました。


 浅い。不規則。そして、左手が微かに震えている。


「稲川くん。稲川くん」


 揺すっても反応がない。目は閉じたまま。呼吸は続いているが、意識がない。


 宮本は救急車を呼んだ。秩父の山奥から最寄りの病院まで、四十分。救急隊員が到着するまでの間、宮本は譲二の手を握り続けた。


 脳出血だった。左前頭葉。出血量は少なかったが、長年の微小出血で脆くなっていた血管が、ついに破れた。


 手術が行われた。開頭血腫除去術。出血は止まったが、脳の損傷は残った。


 譲二は三日後に意識を取り戻した。


 右半身に軽度の麻痺。言語障害はなかったが、思考の速度が落ちた。以前なら瞬時に出てきた言葉が、数秒かかるようになった。


 病室のベッドで、宮本が隣に座っていた。


「おはよう」


「……おは、よう」


 宮本が泣いた。今度は声を殺さず、声を上げて泣いた。


 一ヶ月の入院の後、退院した。秩父の家に戻った。


 右手が不自由になった。箸が持てない。ペンが持てない。ノートへの記録は宮本が代筆した。


 蔵には、宮本の付き添いでしか入れなくなった。


 十六号が譲二を見た。譲二の歩き方が変わったことに、すぐに気づいたようだった。


「じょうじ。からだ。わるい」


「……ああ」


「なおる?」


 譲二は少し間を置いた。


「たぶん、なおらない」


 十六号は黙った。それから、第十九世代の個体たちに何かを伝えた。低い声で、早口で。譲二には聞き取れない速度だった。


 その日以降、被験体たちの態度が変わった。


 譲二が蔵に入ると、全員が動きを止め、静かになった。以前は活発に動き回り、声を出していたのが、譲二がいる間は抑制されたように大人しくなった。


 気を遣っている。


 病人に対して、静かにしている。


 彼らは──譲二を「弱った存在」として認識し、それに配慮している。


 優しさ、とまでは言えないかもしれない。だが、社会的な規範──弱者への配慮──の萌芽ではあった。


 六月。


 譲二は宮本に実験ノートの全てを渡した。スマートフォンのデータ、大学のパソコンに残した解析結果、手書きのノート十二冊。


「これが全部だ。七年分」


「……うん」


「俺がいなくなった後、彼らをどうするかは、宮本が決めてくれ」


「いなくなるって決めつけないで」


「決めつけてるんじゃない。備えてるんだ」


 宮本は実験ノートを抱えて、しばらく動かなかった。


 九月。


 二度目の脳出血。今度は右側頭葉。


 出血量は前回より多かった。意識を失い、救急搬送され、再び手術。


 今度は一週間、意識が戻らなかった。


 宮本は病室に泊まり込んだ。蔵の被験体たちの世話は、宮本が毎朝病院に行く前と、毎晩戻ってきた後に行った。片道四十分の道を、一日二往復。


 十六号が宮本に尋ねた。


「じょうじ。どこ」


「病院。体が悪くて」


「びょういん……なおすところ?」


「うん。治すところ」


「なおる?」


 宮本は答えられなかった。


 十月一日。午前三時十七分。


 稲川譲二、死去。享年二十六歳。


 死因は脳出血の再発。二度目の手術から回復しきれないまま、三度目の出血が起きた。脳幹への出血。即死ではなかったが、人工呼吸器を外せば数時間の命だった。


 宮本は人工呼吸器を外す決断をした。譲二の事前の意思──「機械で生かされるのは嫌だ」──に従って。


 午前三時十七分。心拍停止。


 宮本は病室で譲二の手を握ったまま、朝まで動かなかった。


 秩父の蔵では、十六号が低い声で鳴いていた。


 普段は出さない、長い、単調な音。


 ヒューーーーーー。


 途切れることなく、何分も何分も。


 他の個体たちも、同じ音を出し始めた。十七匹全員が、同じ音を。


 蔵の中に響く、低い共鳴音。


 何の音なのか、その場に人間はいなかったので、誰にもわからなかった。


 だが後に、宮本が蔵に戻ったとき、十六号がこう言った。


「じょうじ。とまった」


 止まった。


 十二号が最初に使った表現。「止まった」。死を表す、彼らの言葉。


 宮本はその場に崩れ落ちた。

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