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ゴキブリを操る超能力に目覚めたんだけど  作者: 唯之助


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離散

 二〇三四年。冬。


 譲二が死んで二ヶ月が経った。


 宮本は一人で蔵の被験体たちの世話を続けていた。朝と夕方の餌やり、水の交換、温度管理。譲二がいた頃と同じルーティン。


 だが、蔵の中の空気は、明らかに変わっていた。


 被験体たちは以前より活発になっていた。


 十六号を中心に、群れの中で頻繁な「会議」が開かれるようになった。複数の個体が円形に座り、音声でやり取りをする。内容は宮本には半分も理解できなかったが、断片的に聞き取れる単語があった。


「そと」「やま」「ひろい」「いく」「いつ」


 外に出る話をしている。


 いつ、ここを出るか。


 宮本にはそれを止める力がなかった。念の能力はない。物理的な拘束力も、体長九十センチから一メートルの生物を閉じ込めておくには不十分だ。蔵の扉は木製で、彼らが本気で押せば壊れる。


 止めるべきなのか。止める権利があるのか。


 譲二なら、どうしただろう。


 答えは出ないまま、十二月になった。


 ある朝。蔵に入ると、十六号が宮本の前に立っていた。体長八十五センチ。暗褐色の体。正面を向いた大きな眼。


「たまき」


 宮本の名前を呼んだ。


 十六号は宮本を「たまき」と呼ぶ。「じょうじ」に次いで、彼らが覚えた二番目の人間の固有名詞だった。


「たまき。はなす。たいせつ」


「うん。聞いてる」


 十六号は少し間を置いた。彼らの中でも、重要な発言の前には沈黙を置く習慣があった。


「ここ。ちいさい。われわれ。おおきい。そと。いく」


 宮本は膝に手を当てて、十六号と目の高さを合わせた。


「全員で?」


「ぜんいん、ではない」


 これは予想していなかった。全員で出ていくのではない。


「いくもの。やまへ。いく。のこるもの。ここ。のこる」


「行く子と残る子がいるの?」


「はい。わたし。いく。こどもたち。いく。としより。のこる」


 十六号は「としより」──年長の世代──を残し、若い世代を率いて出ていくと言っている。


「残るのは誰?」


「じゅうはちばん。じゅうきゅうばんの、にひき」


 第十八世代の古い個体と、第十九世代のうち二匹。合わせて六匹が残る。十六号を含む十一匹が出ていく。


「たまき。のこるもの。みて」


 残る者を見てほしい。世話をしてほしい。


 それが十六号の「お願い」だった。


 宮本は目を閉じた。稲川譲二がかつて、この場所にいたことを思った。十二号に名前を呼ばれたあの夜。九号がシンボルカードで「自分・外・行きたい」と表現したあの日。ずっと、ずっと、ここに至る道は一本だった。


 閉じ込めておくことはできない。


 閉じ込めておくべきでもない。


「……わかった」


 声が震えた。


「行きなさい。気をつけて」


 十六号が、宮本の手に前脚を伸ばして触れた。十二号がかつて譲二にしたのと同じ仕草。


「たまき。ありがとう。じょうじ。ありがとう」


 ──じょうじ。ありがとう。


 死者への感謝。


 ここにいない者の名前を呼び、その不在に向かって礼を述べる。


 それは──記憶と敬意の表現だった。


 宮本は泣いた。今度は声を出さず、ただ涙だけが流れた。


 十六号は宮本の涙を見つめ、首を微かに傾けた。涙の意味を理解しているのか、していないのか。



 二〇三五年。一月七日。夜明け前。


 気温は零下三度。秩父の山は深い雪に覆われていた。


 蔵の扉が開いた。


 十六号が先頭に立ち、十一匹の被験体が一列になって外に出た。


 体長八十センチから一メートル。暗褐色の体。白い息を吐きながら、雪の上を二本の脚で歩く。前肢の手には、蔵から持ち出した物──木の棒、布の切れ端、石──を握っている。道具を携えての旅立ちだった。


 宮本は母屋の戸口に立って見送った。


 十六号が振り返った。五十メートルほど離れた雪の斜面の上から。


 手を上げた。


 宮本も手を上げた。


 それが最後だった。


 十一匹は山林に消えた。杉の木立の間を縫い、谷に沿って降りていく。足跡が雪の上に二本ずつ、点々と続いていた。


 宮本はその足跡が見えなくなるまで、戸口に立っていた。


 背後の蔵では、残された六匹が静かにしていた。



 蔵に戻ると、残された個体たちが宮本を見上げた。第十八世代の古い個体──もう動きが鈍く、巣から出ることも少ない──が、低い声で言った。


「たまき。さむい」


「うん。寒いね」


 宮本はヒーターの温度を上げ、毛布を蔵に持ち込んだ。


 それから、母屋に戻って、譲二のノートを開いた。


 最後のページに、譲二の字で──右手が不自由になる前の、まだしっかりした筆跡で──こう書いてあった。


「彼らはいずれ、ここを出ていく。それは進化の必然だ。止めてはいけない。ただ、出ていくとき、『じょうじ』の名前を覚えていてくれたら──それだけで、俺の人生には意味があった」


 宮本はノートを閉じ、窓の外を見た。


 雪はまだ降っていた。山林の向こう、十一匹が消えた方角を、白い雪が覆い尽くしていた。


 足跡はもう見えない。



 彼らがどこに向かったのか、宮本には分からなかった。


 だが、翌年の春。


 秩父の廃鉱山──かつて石灰石を採掘していた横穴──の入り口付近で、登山者が奇妙なものを発見した。


 洞窟の入り口に、小枝と石で組まれた構造物があった。風雨を防ぐように巧みに配置された石壁と、その上に架けられた木の梁。人間の工作物ではない。サイズが小さすぎる。だが、あまりにも精巧すぎて、自然のものとも思えなかった。


 登山者はスマートフォンで写真を撮り、SNSに投稿した。「秩父の山奥で謎の構造物を発見」。


 写真は数百のいいねを集めた後、忘れ去られた。


 洞窟の奥──人間が入れないほど狭い横穴の先──には、石灰岩の空洞が広がっていた。かつて地下水が削り出した天然の空間。恒温。恒湿。外敵の侵入は困難。


 その空洞の中で、十一匹は新しい巣を作り始めていた。


 第二十一世代の卵鞘が、すでに産み付けられていた。




 同じ頃、東京。


 足立区衛生課の片桐真由美は、退職まであと三年のデスクで、六年分の報告書ファイルを積み上げていた。


 大型ゴキブリの目撃報告は、二〇三三年をピークに減少していた。足立区、葛飾区、川口市。かつて報告が集中していたエリアでは、ほとんど新しい目撃例がなくなっていた。


 代わりに──埼玉県秩父市、横瀬町、小鹿野町。山間部から、散発的に、新しい種類の報告が上がり始めていた。


「体長一メートル近い、二足歩行の黒い生物を目撃した」


 片桐はその報告書を読み、長い間デスクの上で固まっていた。


 それから、六年前に自分が打った赤い点の地図を引っ張り出した。足立区西新井。かつての中心点。


 赤い点の横に、新しい青い点を打った。秩父。


 二つの点を線で結んだ。


 西新井から秩父へ。何かが移動している。


 何が。


 片桐はまだ知らない。だが、知る日は近づいていた。

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