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ゴキブリを操る超能力に目覚めたんだけど  作者: 唯之助


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23/28

共犯者

 二〇三七年。春。


 片桐真由美は六十一歳になっていた。足立区衛生課を定年退職して一年。年金と貯蓄で慎ましく暮らしている。夫とは十五年前に離婚し、子供はいない。足立区の団地で一人暮らし。


 退職してからも、片桐はあの地図を手放せなかった。赤い点と青い点。西新井と秩父を結ぶ線。十年以上追い続けた「何か」。


 在職中に調べられることは全て調べた。足立区西新井のアパート。大家の山田から聞き出した情報。二階の角部屋に住んでいた大学生。稲川譲二。生物学専攻。虫を飼っていた。二〇三〇年に退去。婚姻届の記録から、配偶者は稲川環(旧姓宮本)。現住所は埼玉県秩父市。


 そして稲川譲二は二〇三四年に死亡。享年二十六歳。死因は脳出血。


 若すぎる死だった。何かに蝕まれたような死に方。


 残されたのは妻の環。秩父の山奥に一人で住んでいる。


 四月の半ば、片桐は西武秩父線に乗った。退職金で買ったコンパクトカーを秩父駅前の駐車場に停め、カーナビに住所を入力した。山道を四十分。舗装路が途切れ、砂利道になり、やがて落ち葉の道になった。


 谷間の緩斜面に、灰色の屋根が見えた。


 母屋の前に、軽トラックが停まっている。人が住んでいる気配。


 片桐は車を降り、母屋の玄関に向かった。呼び鈴はない。引き戸を叩いた。


「ごめんください」


 しばらくして、引き戸が開いた。三十代前半の女性。日に焼けた肌。眼鏡。黒髪を無造作に束ねている。片桐の記憶にある「稲川環」の住民情報と一致する年齢。


「どちらさまですか」


「片桐と申します。元、足立区衛生課の職員です」


 女性の──稲川環の──表情が、一瞬だけ強張った。すぐに戻ったが、片桐は見逃さなかった。


「衛生課……何のご用ですか」


「お話を伺いたいことがあります。以前、足立区の西新井にお住まいだった稲川譲二さんの奥様でいらっしゃいますか」


 環は片桐をしばらく見つめた。警戒。だが、敵意ではない。値踏みしている目だった。


「……上がってください」


 母屋の八畳間。古い卓袱台を挟んで向かい合った。環が淹れた番茶は、少しぬるかった。


 片桐は単刀直入に切り出した。


「十年以上前から、足立区を中心に大型のゴキブリの目撃報告が続いていました。私はその調査を担当していました。報告は全て、半径十五キロの円に収まっていた。その中心が、ご主人がお住まいだったアパートでした」


 環は番茶の湯呑みを両手で包み、片桐の話を黙って聞いていた。


「二〇三三年頃から足立区の報告は激減し、代わりに秩父周辺から新しい報告が出始めました。この住所の近辺です」


 片桐は鞄から地図を取り出した。赤い点と青い点。


「何かご存じのことがあれば、教えていただけませんか」


 長い沈黙があった。裏手の蔵のほうから、微かに何かが動く音が聞こえた。


 環が立ち上がった。


「見せたほうが早いです」


 蔵まで歩く短い道のりで、環は言った。


「見ても、絶対に叫ばないでください。彼らは大きな音を怖がります」


「彼ら?」


 蔵の扉が開いた。


 薄暗い内部。ヒーターの低い唸り。土と湿った空気の匂い。


 蔵の奥に、影が動いた。


 体長八十センチほどの、暗褐色の生物。直立した姿勢。二本の腕と二本の脚。大きな眼が、蔵の入口に立つ二人の人間を見つめている。


 片桐の足が止まった。


 もう一匹。もう一匹。蔵の中に、合計八匹。大きいのは八十センチ、小さいのは三十センチ。小さい個体は幼体だろう。親の背後に隠れるようにして、こちらを窺っている。


 片桐は叫ばなかった。声が出なかったのだ。


 最も大きな個体──残留組の第十九世代のリーダー──が、環のほうを見た。


「たまき。だれ」


 声。低い、人間ではない声。だが、明確な日本語。


「お客さん。怖い人じゃないよ」


 個体は片桐を見た。首を傾け、触角の名残のような短い突起を動かした。それから、小さく頭を下げた。


 会釈。


 ゴキブリの末裔が、初対面の人間に会釈をした。


 片桐は卓袱台の前に戻ったとき、両手が震えていた。番茶がカタカタと鳴った。


「……これは、何ですか」


「夫が作りました。十六歳のときから、十年かけて」


 環は全てを話した。稲川譲二の能力。実験。進化。十二号。「じょうじ」。念の代償。死。十六号の旅立ち。残された者たち。


 片桐は一時間以上、一言も挟まずに聞いた。


 全てを聞き終えた後、片桐は長い息を吐いた。


「報告すべきなんでしょうね。行政として」


「そうでしょうね」


「報告すれば、あの子たちは殺処分されます」


「……はい」


 片桐は地図を見つめた。赤い点と青い点。十年間、自分だけが追い続けた点。


「報告しません」


 環が顔を上げた。


「退職してますから。義務はない。それに──」


 片桐は番茶を一口飲んだ。まだぬるかった。


「十年追いかけて、ようやく答えが見つかったんです。答えを潰すために追いかけてたわけじゃない」


 環の目が赤くなった。


「ありがとうございます」


「ただ、一つだけ聞かせてください。山に出ていった子たちは、今どうなっていますか」


「わかりません。出ていったきり、何も」


 片桐は頷いた。


「それが、いちばん怖いところですね」



 片桐は月に一度、秩父を訪ねるようになった。


 環にとって、譲二の死後初めての「秘密を共有できる人間」だった。片桐は環の話し相手になり、蔵の個体たちの様子を一緒に観察した。


 片桐は退職後の時間を使って、独自の調査を続けていた。


 東京湾岸の港湾施設周辺で、大型のゴキブリがコンテナに紛れ込む事例が報告され始めていた。税関の検疫記録。船会社の害虫報告書。片桐は人脈を辿って資料を集めた。


「海を渡ってますよ。もう」


 二〇三八年の秋、片桐は環に報告した。


「横浜港と東京港から出たコンテナ船で、釜山、上海、ホーチミンの港湾施設で異常な大型ゴキブリが確認されています。どの報告も『外来種』で片付けられてる。でも、写真を見ると──東京地下のやつらと同じです」


 かつて逃げ出した三匹の子孫。東京の下水道で十五年以上繁殖し、数を増やし続けていた系統。秩父の本流ほどの知性はないが、体長二十〜三十センチ、群れで行動し、通常のゴキブリとは明らかに異なる。


 彼らは港湾施設の地下を棲みかとし、食料の豊富なコンテナに潜り込む。意図的なのか偶然なのかは分からない。だが結果として、海を渡った。


「それだけじゃありません」


 片桐は別の資料を広げた。


「秩父周辺の山岳地帯で、登山者やハンターが『人型の黒い生物』を目撃するケースが急増しています。二〇三六年だけで二十三件。大半はSNSに投稿されて、UMAだの宇宙人だので盛り上がって終わり。誰も本気にしていない」


「十六号たち……」


「でしょうね。しかも、目撃範囲が広がっています。秩父だけじゃなく、奥秩父から甲武信岳を越えて長野側、群馬側にも出ている。山伝いに勢力を広げてるんだと思います」


 環は窓の外を見た。秩父の山々が、夕暮れの光に染まっていた。


「止められるんですか」


「もう無理でしょう」と片桐は言った。


「行政レベルでも、たぶん無理です。仮に今すべてを公表したとして、何ができますか。山の中に散らばった知性ある生物を、一匹残らず捕獲する? 地下の何万匹を駆除する? しかも海を渡って他国にまで広がっている」


 片桐は地図を畳んだ。


「稲川さんのご主人は、パンドラの箱を開けたんです。もう、閉まらない」

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