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ゴキブリを操る超能力に目覚めたんだけど  作者: 唯之助


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実験(三)

 夏休み。


 譲二は図書館通いを再開した。だが、読む本が変わっていた。昆虫学の棚から離れ、遺伝学、分子生物学、神経科学の棚に移った。高校生が読むにはあまりに専門的な書籍ばかりだったが、譲二には目的があった。


 自分の能力のメカニズムを、科学的に理解したい。


 「念」を送るとゴキブリの成長が加速し、知能が向上する。その現象は確認できた。だが、なぜそうなるのか。自分の脳から発せられる「何か」が、ゴキブリの遺伝子発現に影響を与えているのか。それとも、もっと直接的に神経細胞の分裂と結合を促進しているのか。


 答えは出なかった。大学レベルの教科書を読んでも、自分の能力を説明できる理論は見つからなかった。当たり前だ。こんな能力は科学の想定外にある。


 だが、読書は無駄ではなかった。


 エピジェネティクスという概念を知った。遺伝子の塩基配列そのものは変わらなくても、遺伝子の「読まれ方」が環境によって変化する。メチル化やヒストン修飾といった化学的な修飾が、遺伝子のオン・オフを切り替える。そして、その変化は──条件次第で──次の世代に受け継がれることがある。


 譲二は仮説を立てた。


 自分の能力は、ゴキブリのエピジェネティクスに作用しているのではないか。遺伝子の配列を書き換えるのではなく、既に存在する遺伝子の「眠っている」部分を目覚めさせている。ゴキブリのゲノムには、三億年の進化の歴史の中で蓄積された膨大な遺伝情報がある。そのほとんどは使われていない。だが、自分の「念」がスイッチを入れることで、眠っていた遺伝子が発現し、新たな形質が現れる。


 仮説に過ぎない。検証する手段もない。だが、この枠組みで考えると、観察事実の多くが説明できた。


 成長の加速──代謝関連の遺伝子が活性化されている。

 知能の向上──神経発達に関わる遺伝子群がオンになっている。

 体の大型化──成長ホルモン関連の発現パターンが変化している。

 そして、世代を重ねるごとに変化が蓄積していく──エピジェネティックな変化が遺伝しているから。


 理屈が見えると、次にやるべきことも見えてきた。


 八月。譲二は実験プロトコルを大幅に改訂した。


 まず、選別を厳格化した。各世代で最も「賢い」個体──迷路テストの成績が上位十パーセント──だけを次世代の親にする。人為選択だ。品種改良と同じ原理。犬がオオカミから数万年で多様な品種に分化したように、強い選択圧をかければ、変化は加速する。


 次に、栄養を最適化した。高タンパクの餌──乾燥ミルワーム、魚粉、卵黄──を与え、脳の発達に必要な脂肪酸を添加した。人類の脳が爆発的に発達した要因のひとつは、栄養価の高い食物──特に動物性脂肪と魚の摂取──だとする説がある。同じ論理をゴキブリに適用した。


 そして、社会環境を設計した。個体を孤立させず、常に集団で生活させる。集団内で協調行動を促すような課題を与え続ける。食料の運搬、巣の構築、外敵からの防衛。ゴキブリたちが「協力しなければ生き残れない」環境を作った。


 八月末。第四世代が誕生した。


 譲二は、最初の個体が卵鞘から出てくる瞬間を、息を止めて見守った。


 幼体の体長は通常の二倍。約八ミリ。体色が微妙に違っていた。通常のクロゴキブリの幼体は淡い褐色だが、第四世代は生まれた時点で黒みが強い。甲殻の光沢が、どことなく金属的だった。


 そして──頭部の触角の根元に、小さな突起のようなものが二つあった。


 通常のゴキブリには存在しない構造。


 譲二はルーペで観察した。突起は左右対称に位置し、表面に微細な毛が生えている。感覚器官の一種だろうか。何を感知するためのものなのか、この時点ではわからなかった。


 だが、第四世代の行動を観察していて、ひとつ気づいたことがある。


 第四世代の個体は、譲二が「念」を送らなくても、互いに高度な協調行動を取った。


 餌場への移動は常に隊列を組み、見張り役を残す。新しい個体がケースに追加されると、既存の集団が「調査」するように近づき、触角で相手を確認した後、受け入れるか排除するかを判断する。


 受け入れの基準は不明だったが、結果として、第四世代の集団は通常のクロゴキブリを排除した。異なる系統の個体を同じケースに入れると、第四世代は集団で通常個体を追い立て、ケースの隅に追いやった。


 排他的な社会性。


 「仲間」と「よそ者」の区別ができるようになっている。


 譲二はゴキブリの群れを見つめながら、背筋がうすら寒くなるのを感じた。



 九月。新学期。


 学校にいる時間が、ますます苦痛になっていた。頭の中は常にゴキブリのことで一杯で、授業の内容がまったく入ってこない。中間テストの成績は下から五番目。担任との面談で「最近どうしたんだ」と聞かれたが、「大丈夫です」と答えるだけだった。


 宮本環だけは相変わらずだった。


「稲川くん、最近やつれてない? ちゃんと寝てる?」


「寝てる」


「嘘だ。目の下のクマすごいよ。夜更かしして何してるの?」


「……勉強」


「嘘だ。テストの点下がってるじゃん」


 宮本は鋭かった。あるいは、譲二のことをよく見ていた。


「ゲーム? 漫画? それとも──彼女?」


「……どれでもない」


「じゃあ何。教えてよ」


「教えられない」


 宮本は少し黙った。いつも賑やかな彼女が黙ると、妙に空気が重くなった。


「……秘密なんだ」


「ああ」


「ふーん」


 宮本は弁当の卵焼き──相変わらず少し焦げている──を口に運びながら、窓の外を見た。


「秘密があるのは、いいことだと思うよ」


 意外な言葉だった。


「え?」


「秘密って、自分だけの世界があるってことでしょ。それって、悪いことじゃない」


 宮本は譲二のほうを向いて、にっと笑った。


「でも、いつか教えてね。約束」


 譲二は返事をしなかった。だが、胸の奥で何かが小さく軋んだ。


 ──教えたい。本当は。でも、教えたら、おまえは俺から離れていく。


 確信があった。ゴキブリを操る力。ゴキブリを進化させる実験。そんなことを知ったら、宮本だって引くだろう。当たり前だ。まともな人間なら引く。


 だから、言えない。永遠に。



 十月。


 第五世代が誕生した。卵から成体まで二週間。体長は最大個体で七センチ。通常のクロゴキブリの二倍以上。


 迷路テストはもう意味をなさなかった。第五世代は、譲二が作れるどんな迷路も、初見でほぼ正解する。


 代わりに、新しいテストを考案した。「道具使用テスト」。


 小さなプラスチック片を餌場の前に置く。餌場には透明なアクリル板の壁がある。ゴキブリが餌にたどり着くには、プラスチック片をくわえて壁の隙間に差し込み、テコの原理で壁を持ち上げなければならない。


 道具の使用は、動物の知能を測る指標のひとつだ。霊長類、カラス、タコ。道具を使える生物は、地球上でもごくわずかしかいない。


 第五世代の個体は、三日目にプラスチック片を壁の隙間に差し込んだ。四日目に、テコの原理で壁を持ち上げた。五日目には、複数の個体が役割分担して──一匹がプラスチック片を支え、もう一匹が壁を押す──作業を効率化した。


 ゴキブリが道具を使っている。


 譲二はケースの前にしゃがみ込み、長い間動けなかった。震えていたのは、寒さのせいではなかった。


 だが、同時に新たな問題が浮上した。


 第五世代の個体は、通常のクロゴキブリとはもはや外見が明確に異なっていた。体長七センチ。甲殻は漆黒で金属的な光沢を持ち、頭部が大きく、前脚が他の脚より太く長い。触角の根元の突起──第四世代で初めて確認されたもの──がさらに発達し、小さな角のように見える。


 これは、もう「大きなゴキブリ」では済まない。明らかに異形の生物だ。


 もし誰かに見られたら。


 もし、また逃げ出したら。


 譲二は飼育スペースの密閉性をさらに強化した。コンテナの継ぎ目をシリコンコーキングで埋め、蓋にはワイヤーロックをかけた。換気用のメッシュは二重にした。


 それでも、不安は消えなかった。


 十一月のある夜。深夜のコンビニバイトの最中、レジに立ちながらスマートフォンのニュースアプリを眺めていたとき、小さな記事が目に止まった。


「足立区の下水処理施設で大型の不明昆虫が目撃される」


 記事の内容は短かった。点検作業員が通常の倍以上の大きさのゴキブリのような昆虫を目撃した。外来種の可能性があるとして、区の衛生課が経過観察中。


 譲二の心臓が、一拍だけ止まった。


 七月に逃げた三匹。あれが、下水道で繁殖している。


 いや──まだわからない。外来種かもしれない。偶然の一致かもしれない。


 だが、記事に添えられた写真──ぼやけたスマートフォン画像──に写っていたものは、暗い通路の壁面にへばりつく黒い影だった。輪郭はぼやけていたが、頭部の突起のようなものが写っている気がした。


 気のせいだ、と思うことにした。


 気のせいであってくれ、と。

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