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ゴキブリを操る超能力に目覚めたんだけど  作者: 唯之助


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実験(二)

 六月。梅雨の季節。


 譲二の部屋のゴキブリは二百匹を超えた。ケースは十五個。壁際だけでは足りず、テーブルの下にも並べた。部屋で人間が使えるスペースは、布団を敷く一畳半ほどになった。


 金が必要だった。


 ゴキブリの餌代は大したことない。だが、飼育ケース、温度管理用のヒーター、湿度計、計測道具。細々とした出費が重なる。母親からの仕送りは月に五万円。家賃を引くと残りは一万二千円。食費を切り詰めても、実験費用には足りない。


 譲二はアルバイトを始めた。


 西新井駅前のコンビニエンスストア、深夜帯。二十二時から翌二時まで。時給は深夜手当込みで千三百五十円。週四日で月に八万六千四百円。高校生の深夜バイトは本来違法だが、店長は履歴書の生年月日を確認しなかった。譲二は背が高く、顔つきが老けていた。十八歳だと言えば通った。


 深夜のコンビニは、譲二にとって居心地のいい場所だった。客はまばらで、会話はほとんど必要ない。レジ打ち、品出し、掃除。単純作業の繰り返し。脳の表面だけを使って体を動かしながら、深い部分ではゴキブリのことを考えていられる。


 同僚は二人いた。店長の鶴見──五十代の太った男で、バックヤードで競馬新聞を読んでいることが多い──と、同じ深夜帯の大学生・根本。根本は愛想のいい男で、最初は譲二に話しかけてきたが、三日で諦めた。「稲川くん、寡黙だね」と笑って、それ以降は必要最低限の業務連絡だけになった。


 それでいい、と譲二は思った。ここは金を稼ぐ場所であって、人間関係を築く場所ではない。


 ただ、深夜の客の中には、少しだけ気になる人間もいた。


 毎週水曜の午前一時頃に来る中年の女性。いつもロング缶のチューハイを二本と、ポテトチップスを一袋買う。目の下にクマがあり、コートのポケットに手を突っ込み、レジでは一言も発さない。会計を済ませると、駐車場の隅で一本目のチューハイを開けて飲む。冬の夜気の中、白い息を吐きながら。


 あの人も一人なんだろうな、と譲二は思った。この世界には、深夜に一人でチューハイを飲む大人がたくさんいるのだろう。


 そしてバックヤードには──ゴキブリがいた。


 コンビニのバックヤードは、ゴキブリにとって楽園だ。温度は一定、食べ物は豊富、水もある。譲二は深夜のバイト中、暇な時間にバックヤードのゴキブリたちに意識を向けた。


 コンビニのゴキブリは自分の部屋のゴキブリとは系統が違ったが、操ること自体は問題なかった。種が同じなら──クロゴキブリなら──どの個体でも能力は作用する。


 ある夜、面白いことを試した。


 バックヤードのゴキブリ五匹に、冷蔵庫の裏に落ちていたおにぎりの具(昆布の佃煮)を、ゴミ箱まで運ばせた。一匹では運べない大きさの食物を、五匹が協力して運ぶ。アリのように。


 ゴキブリは本来、このような協調行動をしない。群れで生活はするが、狩りや運搬を共同で行う社会性は持たない。だが、譲二の命令によって、それが可能になった。


 ゴキブリに社会性を教え込むことができる。


 帰り道、午前二時半の住宅街を自転車で走りながら、譲二は考えた。


 進化において、社会性の獲得は知能の飛躍的な発達と密接に関係している。人類がここまで高度な知能を持つに至った要因のひとつは、集団生活における複雑な社会的相互作用だ。仲間を認識し、協力し、役割を分担し、情報を共有する。そのためにより大きく、より複雑な脳が必要になった。


 図書館で読んだ「社会脳仮説」。霊長類の脳の大きさは、群れの規模と相関する。より大きな群れで生きる種ほど、大脳新皮質が大きい。


 もうひとつ、譲二の頭に浮かんだ仮説があった。「環境ストレスによる知能の発達」だ。


 生物は過酷な環境に置かれたとき、生存のために適応する。問題解決能力──つまり知能──は、環境からの課題を解決するために発達する。安全で安定した環境よりも、適度に困難な環境のほうが、知能の発達を促進するかもしれない。


 譲二は翌日から、飼育環境に「課題」を導入した。


 餌を簡単に取れない場所に置く。水場へのルートに障害物を配置する。温度を周期的に変動させる。ケースの中に侵入してくる(と見せかけた)ダミーの天敵──ゴム製のカエルの模型──を時々置く。


 ゴキブリたちは困惑し、混乱し、そして──適応した。障害物を迂回し、餌を取るための新しいルートを開拓し、ダミーの天敵を避けるための隠れ場所を確保した。


 そして、最も興味深い変化。課題を与えられた群れの中で、「リーダー」が出現した。特定の個体が先導して新しいルートを探索し、他の個体がそれについていく。食料を発見した個体が、フェロモンだけでなく、体を使ったジェスチャー──触角を特定の方向に向ける、体を揺らす──で仲間に情報を伝達する。


 原始的なリーダーシップと情報伝達。


 これは自分の命令とは無関係に、ゴキブリたちが自発的に獲得した行動だった。


 ゴキブリに社会性を教え込むことができる。


 いや、正確には「教え込む」のではない。適切な環境を整えれば、ゴキブリは自ら社会性を獲得するのだ。


 自転車のペダルを漕ぐ足に、自然と力が入った。



 二〇二四年七月。高校二年の夏。


 期末テストが終わった翌日、譲二は学校に行かなかった。


 行かなかった、というより、行けなかった。前夜の実験に没頭しすぎて、気がつけば午前四時を回っていた。ケースCの第三世代が孵化する瞬間を見届けたかったのだ。卵鞘から這い出す幼体の、透き通った体。まだ翅もない、数ミリの生命。それが譲二の意識に触れた瞬間、微かな──本当に微かな──反応を返した。


 生まれたばかりの幼体が、既に「感じて」いる。


 第三世代の変化は、第二世代までとは質が違った。


 成長速度はさらに加速し、卵から成体まで三週間を切った。だがそれ以上に目を引いたのは、形態の変化だった。


 体長が五センチに達した個体がいた。クロゴキブリの標準的な成体は三センチ前後だから、一・七倍近い。しかも、頭部が相対的に大きい。通常のゴキブリの頭部は胸部の下に隠れるように位置しているが、第三世代の一部の個体は、頭部が前方にやや突き出していた。


 脳が大きくなっている。


 譲二はその個体を解剖する気にはなれなかった。代わりに、外形の計測を毎日続けた。頭幅、胸幅、体長、触角の長さ。データはスマートフォンのスプレッドシートに蓄積されていった。


 七月の終わり、もうひとつの問題が生じた。


 逃亡だ。


 ケースの蓋を閉め忘れたわけではない。第三世代の個体は、蓋の隙間──衣装ケースのプラスチックが微妙に歪んでできた、一ミリにも満たない隙間──を見つけ出し、そこから脱走した。通常のゴキブリは体を扁平にして二ミリ程度の隙間を通過できるが、五センチの大型個体がそれをやるには、信じられないほど体を変形させる必要がある。


 できたのだ。


 逃げた個体は三匹。譲二は能力を使って感知しようとしたが、アパートの外に出てしまった個体の気配は、ぼんやりとしか掴めなかった。方角はわかる。南東。おそらく下水管を伝って移動している。だが、呼び戻すには距離がありすぎた。


 三匹は、そのまま消えた。


 譲二は自分を責めた。管理が甘かった。ケースの密閉性を過信していた。翌日、ホームセンターで密閉式のコンテナを買い、全てのケースを入れ替えた。換気用の小さな穴には、目の細かいステンレスメッシュを貼った。


 だが、逃げた三匹のことが頭から離れなかった。あの個体は通常のゴキブリより大きく、賢い。野生環境で繁殖したら──通常のクロゴキブリと交配したら──何が起きるのか。


 考えないようにした。たった三匹だ。東京の下水道には何億匹というゴキブリがいる。三匹が混じったところで、何も起きないだろう。


 そう自分に言い聞かせた。

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