邂逅(四)
三月。春休みに入った。
譲二は区立図書館に通い始めた。自転車で十五分。竹ノ塚駅の近くにある、古びた三階建ての建物。
図書館は譲二にとって、学校よりも居心地のいい場所だった。誰も話しかけてこない。一人でいることが自然な場所。周囲の人間も皆、一人で本を読んでいる。ここでは「孤独」が標準仕様だった。
二階の閲覧コーナーの、窓際の席が譲二の定位置になった。午前十時の開館と同時に入り、昼は一階の自販機でパンを買って食べ、午後五時の閉館まで読み続けた。
読む本は決まっていた。昆虫学。特に、ゴキブリに関する文献を片端から読んだ。
驚いたことがいくつもあった。
ゴキブリは約三億年前からほぼ同じ姿で生き延びている生物だということ。恐竜よりも遥かに古い。人類の歴史が二十万年だとすれば、ゴキブリはその千五百倍の時間を生き抜いてきた。
放射線への耐性が人間の十五倍あること。致死量の放射線を浴びても生存する個体がいること。
頭部を切断されても一週間以上生きること。最終的に死ぬ原因は脳の損傷ではなく、口がなくなったことによる脱水であること。
一匹のメスが生涯に産む卵鞘は約二十個。一つの卵鞘に二十から四十の卵が入っている。つまり一匹のメスから、四百匹以上の子孫が生まれる。
そして──ゴキブリには社会性があること。集団で生活し、フェロモンで情報を共有し、食料の場所を仲間に伝達する。その行動は原始的ながらも、確かに「コミュニケーション」と呼べるものだった。
譲二はノートに書き留めた。
「コミュニケーションがある。なら、もっと複雑な情報のやり取りも可能になるのではないか?」
ここで、もう一つの能力に気づいた。
三月の終わり頃。部屋のゴキブリたちの中に、一匹だけ明らかに他と違う個体がいることに気づいた。
体が大きいわけではない。特に変わった模様があるわけでもない。だが、譲二の命令に対する反応速度が、他の個体より明らかに速かった。そして、複雑な指示──たとえば「テーブルの上のパンくずを取って、台所の角まで運べ」──を正確に実行できた。
譲二はその個体を観察し続けた。すると、奇妙なことに気づいた。
その個体は、他のゴキブリに比べて成長が早かった。
三月の初めに初めて確認したとき、体長は約二センチ。まだ幼体だった。それが三月末には三・五センチ。成体のクロゴキブリの標準サイズを超えていた。通常、クロゴキブリが幼体から成体になるまでには半年近くかかる。この個体はわずか一ヶ月で成体サイズに達した。
成長が加速している。
なぜだ。
譲二は考えた。自分が日常的に意識を向けている個体だ。他のゴキブリよりも多くの「念」を受けている。もしかして──自分の能力には、ゴキブリを操るだけでなく、その生理機能を活性化させる力があるのではないか。
成長加速。
もしそうだとしたら。
譲二の脳裏に、図書館で読んだ進化論の一節が浮かんだ。
「進化は世代交代の中で起こる」
世代交代が早ければ早いほど、進化の速度も上がる。ゴキブリの世代交代を加速できるとしたら──
まだ、漠然とした着想に過ぎなかった。だがその夜、譲二は生まれて初めて、興奮して眠れなかった。ゴキブリ以外の理由で。




