邂逅(二)
翌日から、譲二の生活は少しだけ変わった。
まず、部屋の粘着シートを全て撤去した。殺虫剤のスプレー缶もゴミ袋に入れた。代わりに、台所の隅にパンくずを少量置いた。
夜になると、ゴキブリが出てきた。一匹、二匹、三匹。壁の隙間から、排水口の裏から、畳の下から。
譲二は布団の上に座り、出てくるゴキブリの一匹一匹に意識を向けた。
わかったことがいくつかある。
まず、能力には距離の限界があった。部屋の中にいるゴキブリ──おそらく半径五メートル程度──には明確に意志を伝えられる。だが、壁の向こう、隣の部屋のゴキブリにはぼんやりとした感覚しかない。いることはわかる。何匹いるかも、おおまかに感じ取れる。だが、個別に命令を出すことは難しかった。
次に、命令の精度には差があった。「止まれ」「動け」「こっちに来い」といった単純な指示はほぼ百パーセント伝わる。だが、「あの壁の穴を通って隣の部屋に行け」のような複雑な指示になると、成功率は半分以下に落ちた。ゴキブリの認知能力の限界なのか、譲二の伝達能力の限界なのかは判然としない。
そして最も重要な発見。能力は一匹ずつだけでなく、複数のゴキブリに同時に作用させることができた。ただし、同時に操れる数が増えるほど、一匹あたりの制御精度は下がった。十匹に「止まれ」と命じると、七匹が止まり、二匹が減速し、一匹が無視する。百匹に命じると、ざっと半分が従い、残りは曖昧な反応を示す。
譲二はスマートフォンのメモアプリに記録を取り始めた。日付、時刻、対象の数、命令の内容、成功率。理科の実験レポートのように。
十月。十一月。十二月。
学校では相変わらず透明人間だった。授業を受け、弁当を一人で食べ、掃除当番をこなし、帰る。誰とも口をきかない日が何日も続いた。声帯が退化するんじゃないかと思うこともあった。
唯一の変化は、帰り道にペットショップの前で立ち止まるようになったことだ。西新井駅の近くにある小さなペットショップ。犬や猫を眺めに来る客に混じって、譲二は昆虫コーナーの前にいた。カブトムシ、クワガタ、鈴虫。
ゴキブリは売っていない。当然だ。だが、譲二はふと思った。自分の能力はゴキブリだけに作用するのか。他の昆虫にも効くのか。
試してみた。帰り道の公園で、ベンチに止まったアリに意識を向ける。
──止まれ。
アリは何の反応も見せず、そのまま歩いていった。
蚊を見つけて試した。ハエを見つけて試した。蝶々にも、蜘蛛にも。何も起きなかった。
やはり、ゴキブリだけだった。
十二月の半ば、期末テストが終わった日。譲二は学校帰りに西新井大師の参道を歩いていた。理由はない。ただ、まっすぐ帰りたくなかっただけだ。部屋に帰ればゴキブリが待っている。それは事実だったが、今日はなぜかそれが億劫だった。
参道の商店街は、年末に向けてささやかな飾りつけがされていた。安っぽい電飾と、色褪せた門松のポスター。平日の午後で、人通りはまばらだった。
たい焼き屋の前を通りかかったとき、店の奥から中年の女の声が聞こえた。
「また出た! ちょっと健ちゃん、あんた早く何とかしてよ!」
「うるせえな、殺虫剤どこだよ」
「棚の上! 早く! きゃあ、こっち来た!」
譲二は立ち止まった。
感じた。店の中に、ゴキブリが三匹いる。そのうち二匹は棚の裏に隠れていて、一匹が床を走り回っている。
意識を向ける必要すらなかった。ゴキブリの存在が、磁力のように感覚の中に入ってくる。
──出てくるな。隠れていろ。
三匹が同時に動きを止めた。走り回っていた一匹は方向を変え、冷蔵庫の下の暗がりに潜り込んだ。
店の中が静かになった。
「あれ……どこ行った?」
「知らねえよ。逃げたんじゃねえの」
譲二はそのまま参道を歩き続けた。たい焼き屋の中で、中年の夫婦が安堵したように笑い合っているのが聞こえた。
この力は、誰かの役に立つのかもしれない。とても小さな、とても地味な形で。
だが、その考えはすぐに消えた。ゴキブリを操れることを誰かに話せるわけがない。話したところで信じてもらえるわけがない。仮に信じてもらえたとしても、気味悪がられるだけだ。
能力のことは、誰にも言わない。
これは、自分だけの秘密だ。
帰り道、自動販売機で温かい缶コーヒーを買った。百三十円。プルタブを引くと、甘い匂いが冬の空気に混じった。
参道の外れのベンチに座り、缶コーヒーを飲みながら、道を行く人々を眺めた。家族連れ、老夫婦、制服姿の高校生の集団。皆、誰かと一緒にいる。当たり前のように。
譲二は一人だった。一人でベンチに座り、一人で缶コーヒーを飲み、一人で帰る。それがいつもの日常だった。
寂しい、とは思わないようにしていた。寂しさは認めた瞬間に牙を剥く感情だと、経験的に知っていた。認めなければ、ただの静けさだ。一人はただ静かなだけ。それでいい。
缶コーヒーを飲み終えて、立ち上がった。空き缶をゴミ箱に捨て、アパートへの帰路についた。
その夜、母親から珍しく電話があった。月に一度あるかないかの連絡。
「元気?」
「うん」
「金、足りてる?」
「足りてる」
「学校は?」
「普通」
会話はいつもこんな感じだった。母親──稲川美紀、三十四歳──は蕨市のワンルームマンションで一人暮らしをしている。夜はスナックで働き、昼はドラッグストアでパートをしている。二つの仕事を掛け持ちして、自分の生活費と譲二への仕送りを工面している。
決して悪い人ではない、と譲二は思っている。ただ、母親というものがどういう存在であるべきか、お互いにわかっていない。美紀は十八歳で譲二を産んだ。高校を中退し、実家を追い出され、水商売の世界に飛び込んだ。譲二を育てたのは母親の母──つまり祖母だったが、祖母は譲二が十歳のときに心筋梗塞で亡くなった。その後、美紀と二人暮らしの期間が数年あったが、中学に上がるタイミングで「あんたもう一人で大丈夫でしょ」と言われ、西新井のアパートに放り出された。
恨んでいるわけではない。ただ、母親に対して抱く感情がよくわからない。感謝もあるし、諦めもあるし、少しだけ寂しさもある。でもその寂しさを口にしたことは一度もないし、これからもないだろう。
「体には気をつけなよ」
「うん。母さんも」
「じゃあね」
電話は一分半で終わった。通話履歴を見ると、前回の電話は四十三日前だった。
スマートフォンを畳の上に置き、天井を見上げた。
誰かと、もっと長く話したい。もっと意味のある話を。自分のことを──本当の自分のことを──知ってもらいたい。
だが、「本当の自分」とは何だ。ゴキブリを操れる高校一年生。それが自分の正体だ。そんなことを誰に話せるというのか。
台所の隅に置いたパンくずの上を、ゴキブリが一匹歩いていた。譲二はそれをぼんやりと眺めた。
──おまえに話しても、しょうがないよな。
ゴキブリの触角が揺れた。




