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ゴキブリを操る超能力に目覚めたんだけど  作者: 唯之助


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邂逅(一)

 稲川譲二が自分の異常に気づいたのは、二〇二三年の秋だった。高校一年の秋。十六歳。


 その日のことを、譲二は鮮明に覚えている。十月十四日、土曜日。午後三時過ぎ。


 部屋にいた。六畳一間のワンルーム。正確にはワンルームではなく、二階建てアパートの一室で、六畳の和室に申し訳程度のキッチンとユニットバスがついている。家賃三万八千円。足立区西新井。母親が払っている。母親はここにはいない。蕨市のワンルームマンションで、夜の仕事をしながら一人で暮らしている。


 父親は知らない。「お父さんは誰」と訊いたのは八歳のときで、母親は煙草の煙を天井に向かって吐きながら「あたしも知りたいわ」と言った。それきり、訊いたことはない。


 譲二は制服のズボンのまま畳に寝転がっていた。学校から帰ってきて、鞄を放り出して、そのまま動けなくなっていた。


 別にいじめられているわけではない。ただ、誰とも話さなかった。クラスに友人はいない。話しかけられることもない。存在感が薄いというより、存在していないに等しい。出席番号十三番。席は窓際の後ろから二番目。担任の山崎は出席を取るとき、十二番の伊藤と十四番の大久保の間で一瞬だけ目を泳がせ、「稲川」と呟くように呼ぶ。譲二が「はい」と答えても、山崎の視線はもう次に移っている。


 学校とはそういう場所だった。四十人弱の人間がひとつの箱に詰め込まれ、六時間以上を共に過ごしているのに、譲二にとってそこは無人島と変わらなかった。教師の声は波の音のように意味を持たず、級友たちの笑い声は風に似ていた。


 寝転がったまま天井を見ていると、視界の端に黒い点が動いた。


 ゴキブリだった。


 体長三センチほどのクロゴキブリ。天井の端から壁を伝って降りてきている。この部屋には珍しくない。築四十年の木造アパートだ。隙間だらけで、夏場は毎日のように出る。譲二はもう慣れていた。最初の頃は叫んで逃げたが、一人暮らしでは誰も助けに来ない。殺虫剤を噴射するのも面倒になり、いつからか放置するようになった。


 ゴキブリは壁を降り、畳の上を走り始めた。譲二の頭から五十センチほどの距離を、斜めに横切ろうとしている。


 ──止まれ。


 なぜそう思ったのか、譲二自身にもわからない。声に出したわけではない。ただ、頭の中で思っただけだ。寝転がったまま、ぼんやりと、止まれ、と。


 ゴキブリが止まった。


 触角を小刻みに揺らしながら、畳の目の上でぴたりと静止した。


 偶然だ、と譲二は思った。たまたま止まっただけだ。ゴキブリは走っては止まり、止まっては走る。それが普通だ。


 ──右に曲がれ。


 ゴキブリは右に九十度方向を変え、三歩ほど進んで、また止まった。


 譲二は息を止めた。上体を起こし、畳の上のゴキブリを凝視した。心臓が早鐘を打っている。


 ──こっちに来い。


 ゴキブリは方向を変え、まっすぐ譲二に向かって歩き始めた。触角を前方に伸ばし、ゆっくりと、しかし迷いなく。


 譲二の膝の前まで来て、止まった。


 ──回れ。


 ゴキブリはその場でくるりと一回転した。


「嘘だろ……」


 声が出た。自分の声が、妙に乾いていた。


 譲二は右手を伸ばし、ゴキブリに触れようとした。指先が五センチほどの距離に近づいたとき、ゴキブリの触角がぴくりと動いた。だが逃げない。通常であれば、人間の指がこの距離まで近づけば瞬時に逃走するはずだ。


 ──逃げるな。


 ゴキブリは動かなかった。


 譲二の人差し指が、ゴキブリの背中に触れた。硬い甲殻の感触。つるつるとして、わずかに温かい。


「おまえ……俺の言うこと、わかるのか」


 もちろん返事はない。ゴキブリは触角を揺らしながら、譲二の指先の下でじっとしていた。


 その夜、譲二は眠れなかった。


 布団に入っても目が冴えて、天井の染みを数えた。古いアパートの天井には、雨漏りの跡がいくつもあって、譲二はそれを地図に見立てることがある。南米大陸に似た染み。アフリカに似た染み。今夜はどの染みも目に入らなかった。頭の中を、あのゴキブリの感触──つるつるとした甲殻の硬さと微かな温度──が繰り返しよぎる。


 午前二時を過ぎた頃、諦めて起き上がった。台所の蛍光灯をつけ、インスタントコーヒーを淹れた。マグカップに口をつけながら、自分の手を見た。何の変哲もない手だ。少し指が長い。爪は深爪気味。この手で、ゴキブリに触れた。この頭で、ゴキブリに命令した。


 それはいったい、何の力なのか。


 超能力。テレパシー。サイコキネシス。漫画やアニメで見た言葉が浮かんでは消える。だがどれもしっくりこない。自分の能力はもっと限定的で、もっと奇妙で、もっと──地味だ。


 ゴキブリ限定のテレパシー。


 笑うしかなかった。実際、声を出して笑った。深夜二時の六畳一間に、自分の笑い声が響いた。壁が薄いから、隣室の佐藤さんに聞こえたかもしれない。でも佐藤さんはいつもイヤホンをして寝ているから、たぶん大丈夫だ。


 笑い終えた後、ふと真面目な疑問が浮かんだ。この力はいつからあったのか。生まれつきか。それとも、ある時点で発現したのか。


 思い返してみると、幼い頃にゴキブリを怖がった記憶がある。小学校一年のとき、母親のアパートの台所にゴキブリが出て、泣き叫んだ。母親は煙草を咥えたまま、スリッパでぱんと叩き潰した。「こんなもんで泣くな」。


 あのとき、能力はなかった──と思う。ゴキブリに「止まれ」と思った記憶はない。ただ怖くて泣いただけだ。


 では、いつから。


 中学のとき? 一人暮らしを始めてから? それとも、十六歳になった今年になってから?


 わからない。わからないが、今、確実にある。この力は、自分の中にある。


 部屋の隅に置いた粘着シートを確認した。三匹のゴキブリがかかっていた。譲二は粘着シートの前にしゃがみ込み、貼りついたゴキブリたちに意識を向けた。


 ──動くな。


 三匹は既に動けない状態だったので、これでは実験にならない。譲二は粘着シートをそっと剥がし、一匹を割り箸で慎重に引き剥がした。脚の先端が何本かちぎれたが、ゴキブリは畳の上に解放された途端、猛烈な速度で走り出した。


 ──止まれ。


 止まった。


 ──戻って来い。


 戻ってきた。


 ──粘着シートの上に乗れ。


 ゴキブリは一瞬だけ触角を震わせた。まるで逡巡するように。だが次の瞬間、粘着シートの上に自ら歩いていき、べたりと貼りついた。


 譲二は畳の上に座り込んだまま、長い間動けなかった。


 これは現実だ。自分は、ゴキブリを操れる。


 嬉しいとは思わなかった。嬉しいはずがない。超能力に目覚めたのだとしても、それがよりによってゴキブリを操る力だとは。テレキネシスでも、パイロキネシスでも、読心術でもない。ゴキブリ。この世で最も忌み嫌われる生物を、意のままに動かす力。


 笑えた。自分らしいと思った。


 稲川譲二という人間の人生に、これ以上ふさわしい超能力があるだろうか。誰にも必要とされず、誰にも気づかれず、六畳一間で一人きりで暮らしている少年に与えられた力が、ゴキブリを操る力。


 神様がいるなら、相当な皮肉屋だ。


 翌日、譲二は追加の実験を行った。


 まず、範囲を確認した。ベランダに出て、壁を這っているゴキブリに意識を向ける。止まった。アパートの外壁を移動中の個体にも命令が通る。だが、道路を挟んだ向かいの建物には届かなかった。


 次に、持続時間を調べた。「この場所から動くな」と命令したゴキブリを放置して、どのくらいの時間命令が持続するか。結果は約三十分。三十分を過ぎると、個体は命令を「忘れた」ように通常の行動に戻った。


 さらに、命令の種類を増やしてみた。


 「ひっくり返れ」──成功。


 ゴキブリは自ら仰向けになった。


 「死んだふりをしろ」──成功。


 完全に動きを止め、脚を内側に丸めた。


 「歌え」──失敗。


 ゴキブリは歌えない。当たり前だ。


 「嬉しそうにしろ」──失敗。


 感情表現は命令できないらしい。


 概念として理解できることだけが命令可能なのだと、譲二は推測した。「止まれ」「動け」「右」「左」は、ゴキブリの運動ニューロンに直接作用する。だが「歌え」や「嬉しそうにしろ」は、ゴキブリの神経系に対応する回路が存在しない。


 つまり、自分の能力はゴキブリの脳に「言葉」を送っているのではない。ゴキブリの神経系が実行可能な動作パターンを、直接起動しているのだ。


 理屈が見えてくると、恐怖は薄れ、好奇心が勝り始めた。


 これは、調べる価値がある。

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