プロローグ
二〇二四年七月十九日、午前六時二十三分。東京都足立区の下水処理施設「中川水再生センター」の早朝点検を担当していた作業員、三田村修一は、第三沈殿槽の点検通路で異様なものを目にした。
最初、それは黒い革手袋が水面に浮かんでいるように見えた。あるいは、誰かが捨てた長財布か何かだと思った。だが三田村が点検灯を向けると、それは動いた。
水面をすべるように横切り、コンクリートの壁面を垂直に駆け上がる。
三田村は声を上げた。二十七年間この施設で働いてきたが、あんなものは見たことがなかった。体長は優に十五センチを超えていた。チャバネゴキブリでもクロゴキブリでもない。甲殻の光沢は異様に深く、まるで黒曜石を磨き上げたかのようだった。そして何より──六本の脚のうち、前の二本が明らかに他の四本より長く、太かった。
三田村が報告書を提出したとき、上司は笑った。「外来種だろ。最近多いんだ、コンテナに紛れて入ってくるやつ」
報告書はファイルに綴じられ、誰の目にも触れることなく棚の奥に消えた。
同年八月三日。埼玉県川口市のファミリーレストラン「ジョナサン川口芝店」の厨房で、深夜の清掃中にアルバイトの女子大生が悲鳴を上げた。
グリストラップの蓋を開けた瞬間、中から飛び出してきたゴキブリの群れ──それ自体は珍しくない。だが、その中に明らかに異質な個体が三匹混じっていた。通常のクロゴキブリの二倍以上の体躯。そして、逃げる方向が妙だった。三匹が一斉に同じ方向へ走り、排水口ではなく換気扇の隙間から外へ出た。まるで、脱出経路を知っているかのように。
女子大生は翌日、店長に報告した。店長は害虫駆除業者を呼んだ。業者はグリストラップを徹底的に洗浄し、通常の薬剤を散布し、通常の報告書を書いた。「クロゴキブリの大型個体を確認。処置済み」
だが、そのとき駆除業者のベテラン作業員、永島健太郎だけは、少しだけ違和感を覚えていた。二十年この仕事をしてきて、あの光沢は見たことがない。図鑑を引いても該当する種がない。永島は念のため、グリストラップの縁にこびりついていた脱皮殻をビニール袋に入れてポケットにしまった。いつか誰かに見せようと思ったが、結局そのまま忘れた。
同年九月。十月。十一月。
足立区、葛飾区、川口市、草加市。東京東部から埼玉南部にかけての一帯で、「大型のゴキブリを見た」という報告が、各自治体の衛生課に散発的に寄せられていた。件数は月に五件から十件程度。統計的に有意な増加とは認められず、どの報告書にも同じ結論が記されていた。
「外来種の可能性あり。経過観察」
誰も気づいていなかった。それらの報告が、すべて半径十五キロメートルの円内に収まっていることに。そして、その円の中心に、築四十年の木造二階建てアパートがあり、その二階の角部屋に、一人の少年が暮らしていることに。




