静かなる世界
秩父の山奥で、稲川環は生きていた。
核戦争のとき、環は四十六歳だった。秩父の山家は爆心地から遠く、放射性降下物の直撃も免れた。井戸水と畑と山の幸で、自給自足に近い暮らしを続けた。
蔵の個体たちが助けになった。
電力が途絶え、ヒーターが使えなくなったとき、彼らは自ら薪を集めて蔵に運んだ。体長一メートルの体で山林に入り、枯れ枝を抱えて戻ってくる。環が畑を耕すとき、彼らは土を掘り返し、石を除け、害虫を追い払った。
核の冬の最も厳しい時期、食料が底をつきかけたとき、ハナが山から山芋と栗を大量に持ち帰ってきた。人間には見つけられない場所──崖の中腹や深い茂みの奥──に生えている食料を、彼らの鋭い嗅覚が嗅ぎ当てた。
環とゴキブリたちの共生。
人間一人と、ゴキブリの小さな家族──八匹──が、崩壊した世界の片隅で、静かに支え合って生きていた。
外の世界がどうなっているか、環にはほとんどわからなかった。ラジオは核戦争の数ヶ月後に沈黙した。NHKの放送が途絶え、民間のアマチュア無線がしばらく断片的に聞こえていたが、それも消えた。
人間が訪ねてくることは稀だった。核戦争後の最初の年に、秩父の町から避難してきた家族が一組、近くの空き家に住みついた。環は彼らと最低限の付き合いをした。野菜を分け合い、情報を交換した。蔵のことは見せなかった。
その家族も、三年目の冬に姿を消した。寒さか、飢えか、あるいは他の場所に移ったのか。
環は一人になった。ゴキブリたちと、二人きりの──いや、九人きりの世界。
年月が流れた。
二〇五五年。環は五十一歳。
蔵の個体たちの世代交代は、ゆっくりと続いていた。残留組の系統は繁殖力が控えめで、一世代に二、三匹しか子を産まなかった。蔵の中の個体数は十匹前後で安定していた。
ハナは老いていた。第二十三世代のハナは、もう十年以上を生きている。寿命が延びたとはいえ、それは大きな個体にとって長い年月だった。動きが鈍くなり、声がかすれ、巣から出ることが少なくなった。
ハナの子供たち──第二十四世代──が、ハナの世話をしていた。食べ物を運び、体を温め、巣を清潔に保つ。
老いたハナが、子供たちに語り聞かせる。
「じょうじは、せがたかかった。めがおおきくて。わらうと、やさしかった」
環から聞いた話を、そのまま伝えている。記憶の継承である。
「たまきは、じょうじがすきだった。すき、とは、いなくなったあとも、かんがえつづけること」
ハナの声はかすれていたが、子供たちは一言も聞き漏らすまいとするように、体を寄せて聞いていた。
二〇五七年。環は五十三歳。
体力が落ちてきた。畑仕事が辛くなり、山に入ることも減った。冬場の寒さが骨身に堪える。
ゴキブリたちが、環の世話をするようになった。
薪を割り、井戸から水を汲み、畑の世話をする。環が体調を崩して寝込んだとき、ハナの子供のひとり──環は「コハル」と名づけた──が、山から薬草を持ってきた。どこで覚えたのかわからなかったが、その葉を煎じて飲ませると、熱が引いた。
環は布団の中で笑った。
「私が看病されてるね」
コハルは環の額に手を当てた。ひんやりとした、硬い指。甲殻の名残がある五本指の手。
「たまき。ねつ。さがった」
「ありがとう、コハル」
二〇五九年。環は五十五歳。
ハナが「止まった」。
蔵の巣の中で、静かに。環が朝の餌を持っていったとき、ハナは目を閉じて横たわっていた。子供たちが周りを囲んで、声を出さずに座っていた。
十二号の最期と同じだった。十六号の追悼と同じだった。
コハルが言った。
「ハナ。とまった。じょうじ」
「じょうじ」。
死者を送る言葉。始まりの名前が、終わりの祈りになっていた。
環はハナを蔵の裏の山林に埋めた。四つの墓──初代四号、九号、十二号、そして譲二──の隣に。五つ目の石を置いた。
二〇六二年。環は五十八歳。
冬。
その年の冬は、特別に寒かった。核の冬の余波は十年以上経っても完全には回復しておらず、秩父の山奥は十一月に入ると零下十度を下回る日が続いた。
環の咳が止まらなくなった。肺炎だろう。抗生物質はない。医者もいない。
コハルが薬草を煎じてくれたが、今度は効かなかった。
環は母屋の布団の中で、蔵の個体たちに看取られていることを感じていた。コハルが隣に座り、他の個体たちが母屋の中に入ってきて、環を囲んだ。
十匹のゴキブリの末裔が、一人の人間を囲んで座っている。
環は薄く目を開けた。コハルの大きな眼が、すぐ近くにあった。
「コハル」
「たまき。いる。ここにいる」
「ありがとう……」
環は手を伸ばし、コハルの手に触れた。硬い指。ひんやりとした甲殻。でも、その奥にある温もり。
「譲二が……最初に、十二号に触ったとき……こんな感じだったのかな」
コハルには意味がわからなかったかもしれない。だが、「じょうじ」と「じゅうにごう」の名前は理解した。
「じょうじ。じゅうにごう。はじめ」
始まり。すべての始まり。
環は微笑んだ。最後に見えたのは、コハルの眼と、その向こうに連なる個体たちの輪だった。
二〇六二年十二月十八日。稲川環、死去。享年五十八歳。
最後の言葉は「ありがとう」だった。
コハルは環の手を握ったまま、長い間動かなかった。
それから、低い声で、長い、単調な音を出した。
ヒューーーーーー。
他の個体たちも唱和した。十匹全員が。
あの音だった。二十八年前、譲二が死んだ夜に十六号が出した音。弔いの音。「じょうじ」の次に古い、彼らの伝統。
環の遺体は、蔵の裏の山林に埋葬された。六つ目の墓。
初代四号。九号。十二号。稲川譲二。ハナ。そして稲川環。
六つの石が、苔むした斜面に並んだ。三つはゴキブリの祖先。一つは創造主。一つは子供。一つは創造主の伴侶。
コハルは六つの墓の前に立ち、言った。
「じょうじ。たまき。わたしたちは、ここにいる。まだ、ここにいる」
だが、「ここ」にいたのは、そう長くはなかった。
環の死から半年後。
山の向こうから、彼らの同胞がやってきた。
本流系統──十六号の子孫──の偵察隊。体長一・八メートル。植物繊維の外套を纏い、石器を携えた三匹が、秩父の山を越えてきた。
蔵の前で、二つの系統が向き合った。
本流系統のリーダーが、コハルに尋ねた。
「おまえたちは、だれだ」
「わたしたちは、のこるもの。たまきとともに、ここにいたもの」
「たまき……」
リーダーの眼が大きく見開かれた。
「たまきを、しっている。むかしのはなしにでてくる。じょうじのつれあい」
「たまきは、とまった。ここにねむっている」
リーダーは蔵の裏の六つの墓を見た。長い沈黙の後、三本の縦線──「じょうじ」を表す文字──を手で空中に描いた。
「じょうじのはか。ここが、はじまりのばしょ」
コハルは頷いた。
「じょうじは、せがたかかった。めがおおきくて。わらうと、やさしかった。もやしの、いためものを、たべていた」
本流系統のリーダーは、その言葉を聞いて、体を震わせた。
神話ではない。生身の記憶。口承では得られない、具体的な、人間としての「じょうじ」の記憶。
「おまえたちの、はなしを、きかせてくれ。すべて」
蔵の中で、二つの系統が向かい合って座った。コハルが語り始めた。環から聞いた全てを。譲二のこと。十二号のこと。西新井のアパートのこと。卵焼きのコツのこと。
本流系統のリーダーは、一言も聞き漏らすまいとしていた。
語り終えたとき、リーダーが言った。
「このばしょを、まもろう。えいえんに」
六つの墓を中心に、構造物が建てられ始めた。
蔵の周囲に石壁が積まれ、屋根が架けられた。養蚕の蔵が、新しい種族の聖堂になった。
残留組のコハルたちは聖堂の守り手となり、本流系統は定期的に巡礼に訪れるようになった。ユーラシア中に散らばった彼らの拠点から、秩父の山奥のこの場所に──六つの墓に──祈りを捧げるために。
彼らは墓の前で、三本の縦線を石に刻み、そして唱えた。
「じょうじ」
低い声の合唱。数十の声が、山の空気を震わせた。




