核の炎(二)
最初の一ヶ月。
電力は三日目に途絶えた。秩父の水力発電所は無事だったが、送電網が各地で寸断され、孤立した。
環は薪ストーブと井戸水で凌いだ。幸い、秩父の山家には薪が豊富にあった。食料は備蓄の米と畑の野菜。
情報は断片的にしか入らなかった。手回し充電式のラジオで、NHKの緊急放送を拾った。
東京は壊滅的打撃。死者は推定数十万から百万。横浜も甚大な被害。政府機能は長野に移転。自衛隊が救助活動を行っているが、放射性降下物のために広範囲に立ち入り禁止区域が設定されている。
嘉手納、三沢、岩国、佐世保の被害も深刻。
そして、世界。
米中ロの全面核戦争。欧州の主要都市が攻撃を受けた。ワシントンD.C.、ニューヨーク、ロサンゼルス。モスクワ、サンクトペテルブルク。ロンドン、パリ、ベルリン。
使用された核弾頭は推定千五百発。直接の死者は一億人以上。
だが、それは始まりに過ぎなかった。
最初の三ヶ月。電力網が世界規模で崩壊した。送電インフラの物理的破壊と電磁パルスの複合効果。先進国の電力供給が九十パーセント以上停止した。
電力がなければ、上下水道が止まる。通信が止まる。冷蔵・冷凍が止まる。医療機器が止まる。工場が止まる。
物流が崩壊した。燃料の精製・輸送が不可能になり、トラックが動かなくなった。鉄道は送電停止で止まった。港湾は破壊されるか、放射能汚染で使用不能になった。
都市部で飢餓が始まった。日本の食料自給率は四割以下。備蓄は二ヶ月分もなかった。
半年後。「核の冬」が始まった。
千五百発の核爆発が巻き上げた煤煙は、成層圏に達した。地球を覆う黒い幕。日照量が三十パーセント減少し、全球平均気温が四度から六度低下した。
夏が来なかった。
二〇五一年の日本列島に、夏は来なかった。七月の平均気温が十五度。稲は実らず、野菜は育たなかった。
飢餓は都市部から地方へと広がった。農村部でも冷害で収穫が激減した。自給的な農業を営んでいた世帯だけが辛うじて生き延びた。
一年後。日本列島の人口は推定三分の一に減少した。一億二千万から約四千万。
三年後。さらに半減。二千万。
五年後。核の冬は徐々に緩和されたが、気温の回復は遅かった。農業の再建は進まず、残存する人口は小規模な農耕コミュニティを形成して散在していた。技術は急速に失われた。電子機器は使えず、化学プラントは停止し、製鉄所は稼働しない。
十年後。二〇六〇年。
日本列島の人口は推定千万人。江戸時代初期と同程度。
社会の形態は、産業革命以前に戻っていた。手作業の農耕。薪と炭による暖房。蝋燭と松明による照明。情報の伝達は口伝と手紙。移動手段は徒歩と馬。
一部の地域では水車や風車による原始的な動力が復活していたが、蒸気機関を再建するための鉄鋼と石炭の採掘・精錬は、技術の断絶によって不可能になっていた。知識は書物に残っているが、それを実行するための産業基盤──鉱山、製鉄所、工作機械、熟練工──が消滅していた。
世界規模では、人口は約十五億に減少した。核攻撃前の八十億から五分の一以下。先進国ほど被害が深刻だった。インフラ依存度が高く、人口密集地が多く、食料自給率が低い国から順に崩壊した。
比較的無傷で残ったのは、核攻撃の直接対象にならなかった赤道付近の発展途上国と、自給的農業を基盤とする地域だった。アフリカの一部、南米の内陸部、東南アジアの農村地帯。
だが、核の冬はそれらの地域にも影響を及ぼした。飢饉と疫病が世界を席巻し、残存した社会も大きく後退した。
人類は、二百年かけて築いた産業文明を失った。
ただし、完全に石器時代に戻ったわけではない。鍛冶の技術、木造建築の技術、農耕の知識は残った。産業革命直前──つまり十八世紀相当──の技術水準で、人類は踏みとどまった。
踏みとどまった、と言えればの話だが。




