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ゴキブリを操る超能力に目覚めたんだけど  作者: 唯之助


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エピローグ

 西暦にして、およそ五百年後。


 暦はもう誰も数えていなかった。


 秩父の山は変わらなかった。杉林は人の手が入らなくなって久しく、巨木が谷を埋め、苔が全てを覆っていた。かつて舗装路だったものは土に還り、コンクリートの破片だけが所々に白い骨のように覗いていた。


 聖堂は残っていた。


 もとの養蚕の蔵は朽ちたが、その上に何度も何度も石が積まれ、修繕され、建て直された。今の聖堂は三代目か四代目か──記録はない。だが、場所だけは動かなかった。六つの墓を囲むように建てられた石造りの空間。天井は低く、窓はなく、入口は一つ。


 彼らの体躯に合わせた建築だった。


 身長は二メートルを超えていた。直立二足歩行。二本の腕。五本の指。甲殻は肩と背の中央にのみ残り、暗い琥珀色に光っている。頭部は丸く、二つの大きな眼が正面を向いている。瞳孔のようなものがあり、光に応じて収縮した。


 言語は複雑になっていた。文法があり、時制があり、仮定法があった。文字を持っていた。樹皮と鉱物の染料で、石や木の板に記す。だが、最も古い言葉──最も神聖な言葉──だけは、文字に書かれることがなかった。


 音でしか伝えられない言葉。


 書けば意味を固定してしまう。音のまま残すことで、その言葉は意味の手前に──意味より深いところに──留まり続ける。


 巡礼の季節だった。


 春。山桜が咲く頃。


 遠くから来た巡礼団が、山道を登ってくる。四十余名。大陸の西から、海を渡り、列島を横断してきた一団だった。植物繊維を編んだ外套を纏い、石と骨の道具を携えている。子供もいた。親の背にしがみつく幼体が、大きな眼で山林を見回している。


 聖堂の前で、守り手が出迎えた。


 守り手は三名。聖堂に常駐し、墓を守り、巡礼者を迎え入れる。コハルの系譜を継ぐ者たちだった。温和で、静かで、忍耐強い気質の血統。


 守り手の長──名はなかった。守り手には個人の名がない。「守り手」であることが、そのまま名だった──が、巡礼団のリーダーに向かって言った。


「よくいらした。遠い道を」


「はじまりのばしょに来たかった。子供たちに見せたかった」


 守り手は頷き、聖堂の入口に手をかけた。


「入りなさい」


 聖堂の中は薄暗かった。


 苔むした石の壁。低い天井。奥に、六つの石が並んでいる。


 石は磨かれていた。毎日、守り手が布で拭いている。五百年間、一日も欠かさず。


 六つの石の表面には、それぞれ記号が刻まれていた。もはや、それが何を意味するのか、完全には分かっていない。最も古い三つの石には、彼らの祖先を示す印が刻まれている──ということになっていた。四番目の石には、三本の縦線。五番目の石には、花に似た印。六番目の石には、三本の縦線と、その横に添えられた小さな環の印。


 巡礼団が聖堂の中に入った。四十余名が膝を折り、石の前に座った。子供たちは前列に。大人たちが後ろに。


 守り手が語り始めた。


「むかし、むかし。ここではないばしょに、ひとりのにんげんがいた」


 語りの定型句。毎年、同じ言葉で始まる。


「そのにんげんは、ひとりだった。だれにもなまえをよばれず、だれともはなさず、せまいへやで、ひとりだった」


 子供たちの眼が大きく見開かれている。


「そのにんげんは、ちからをもっていた。わたしたちのそせんに、ことばをあたえるちから。かたちをあたえるちから。いのちの、あたらしいかたちを──」


 守り手は言葉を探した。この部分は、毎回少しずつ違う。口承だから。語り手によって揺れる。だが、核心だけは変わらない。


「──つくりだすちから」


 沈黙。


「そのにんげんのなまえを、わたしたちのそせんがはじめてよんだ。それが、ことばのはじまりだった」


 守り手が巡礼団を見渡した。


「そのなまえを、いまから唱える。これは、もじにはかけない。おとでしかつたえられない。いちばんふるい、いちばんたいせつなことば」


 聖堂の空気が張り詰めた。


 守り手が口を開いた。


 低い声。腹の奥から押し出される、長い呼気。


「じょうじ」


 巡礼団が唱和した。四十余の声が重なる。


「じょうじ」


 もう一度。


「じょうじ」


 子供たちも、見様見真似で口を動かした。舌足らずな声で、ぎこちなく。初めて発するその音を、体に刻み込むように。


「じょうじ」


 聖堂の石壁が、低い共鳴で震えた。


 それが何を意味するのか、正確には誰も知らなかった。


 にんげんの名前だったということは伝わっている。最初に言葉をくれたにんげん。ひとりぼっちだったにんげん。わたしたちの祖先が、その名を呼んだことで、ことばが始まった──


 だが、それ以上のことは失われていた。


 背が高かったこと。目が大きかったこと。笑うと優しかったこと。もやしの炒め物を食べていたこと。コハルが環から聞き、環が譲二から受け取った記憶──生身の、具体的な、人間としての記憶──は、百年のうちに薄れ、二百年のうちに輪郭を失い、三百年を過ぎた頃には、物語の定型句の中に溶けた。


 残ったのは、音だけだった。


「じょうじ」


 意味の手前にある、音。


 五百年の時間を渡ってきた、四つの音節。


 それを唱えるとき、彼らの体の奥で何かが震える。それが何なのか、言語化できる者はいない。遺伝子の記憶だと言う者もいた。最初の刷り込みの残響だと言う者もいた。あるいは、単なる習慣に過ぎないのだと。


 だが、唱えるのをやめる者はいなかった。


 五百年間、一度も。



 巡礼が終わり、一団が山を降りていく。


 春の風が谷を吹き抜け、山桜の花弁が舞った。


 守り手は聖堂の入口に立ち、見送った。手を上げた。遠くなっていく背中に向かって。


 かつて、宮本環がそうしたように。


 かつて、十六号がそうしたように。


 聖堂の奥で、六つの石が静かに並んでいる。


 四番目の石──三本の縦線が刻まれた石──の表面を、午後の光が一筋だけ射して、照らした。


 石は何も語らない。


 だが、毎年春になると、ここに声が満ちる。低い、深い、数十の声が重なる合唱。山の空気を震わせ、谷に響き、やがて消えていく。


 消えて、また翌年、同じ音が生まれる。


 それは祈りに似ていた。あるいは、ただの名前だった。


 意味を失ってなお響き続ける名前。


 ひとりぼっちだった少年が、誰かに呼ばれたかった名前。


 それが今、種族の記憶の最も深い場所で、心臓の鼓動のように、途絶えることなく──


「じょうじ」


 ──脈打っている。

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