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郵便配達員の仕事に復帰してから半年が過ぎた。
その間、夢子は都内のマンションを引き払い、完全にこちらへと引っ越して来た。
都内への未練があるのではないかと思った永剛が、そう尋ねると夢子は
「歳も歳だし、わちゃついた街は疲れるし、それに私だって一度くらい結婚もしてみたいしさ」
そういい、ニヤけた表情を浮かべた。
結婚か、と永剛は思った。それは全然構わない。
「ちゃんとプロポーズするから、少しだけ待ってくれる?」
「本当かなぁ?」
「本当だよ」
ニヤニヤしながら夢子は永剛の脇腹を突っついた。
「こうして一緒に暮らすわけだから、えーちゃんにだけ働かせるわけにはいかないね」
「俺の給料でも充分生活出来るじゃん?無理に働かなくても平気だよ。それにボーナスだって出るし」
「そうだけどね。家でじっとしているのも、つまらないじゃない?」
確かにそうだった。こんな何も無いような土地で昼間家にいたら暇を持て余すのは目に見えていた。
子供が産まれたというのなら、まだわからないでもないがそのような事がない限りは、やはりゴロゴロと家の中にいるのは永剛だってごめんだった。
「バイトで良いいんじゃない?」
「そう?なら、のんびりと探してみるね」
楓が自殺して以降、通っていた学校向こうの商店街裏には足を運んでいない。
ラピッドの前身である見守りの会も場所を移動した為、あちらまで行く用事がなかったというのが主な理由だった。
自分が未成年の頃にあの店先に座っていた老婆はとっくに亡くなっている事だろう。
所謂、違法風俗店と呼ばれるものが所狭しと立ち並んでいたが、時が経ち時代も変わった今ではきっと存在すらしていないと思われた。
まさか夢子がそのような店で働くとは思えないが、いかがわしい店が今も乱立しているとしたら余り良い気分はしなかった。
10代の頃はそれこそ毎晩のようにその違法風俗街で沢山の女を抱く夢を妄想していたが、その前に楓と出会い夢は夢のままで終わったが、今の自分にはれっきとした恋人がいる随分な大人になったのだ。
10代の頃には考えもしなかった事が、夢子を拉致した後、変わってしまった。
食事だってそうだった。油物や炭水化物を多く摂取するようになり、体重も10キロ以上も増えた。仕事の配達もバイクだから、身体を動かすのは夢子を抱く時くらいだった。それに夢子自身が、太っている男が好きらしく、クマのプーさんを抱いているようで気持ちよくつ落ち着くらしかった。
だから夢子は今の俺の体重の70キロから、更に20キロは太って欲しいそうだ。それだけ太ったら、ラピッドの仕事に支障をきたす懸念があったが、夢子はそんな事はないと言い、寧ろ体重があるからこそ、その圧で圧倒出来ると話した。
確かにそうだと思った。85キロの人間にのしかかれたら、そう簡単には身動きが取れないだろう。想像に容易かった。だから永剛は夢子に言われるがまま、沢山の高カロリーな食事を摂取するようになって行った。
夢子がアルバイト先を、例の商店街の喫茶店に決まったと聞いたのはそれから1週間も経たない頃だった。
「時給はかなり安いけど、貰えないよりマシかなぁ」
都内の喫茶店の時給が幾らか知らないが、都内で生活していた夢子がいうのだから、やはり安いのだろう。
都内と比べるのは間違った話ではあるが、対比する物がある事で今自分が置かれている状況をしっかりと理解する事が出来る。
それをネガティブに捉えるかポジティブに捉えるかで、その人が地方で暮らせるかどうかの見極めが出来る気がする。その点、夢子なら大丈夫そうだと思った。
夢子を拉致した時には肩付近だった髪が、今ではその肩を過ぎ肩甲骨まで伸びていた。
たまにウザそうにする時もあり、最近はしょっちゅう一つ束にして結んでいた。
夢子は11時に家を出て、夜8時位に戻って来た。夢子の通勤の為に自分の自転車を貸そうと考えたが、自分も通勤に自転車が必要になる為、夢子の為に新しく自転車も購入した。
気に入ったかどうかは知らないが、夢子は自転車をえらく気に入ったようだった。
「自転車なんて乗るの幾つ以来かなぁ」
都内で働いている時は、移動は徒歩か電車だったらしく、自転車を持っていなかったらしい。
「自転車ってちょっと遠出するにはもってこいだね」
「そうだね」
夕食を2人で食べながらそのような会話をしていた。
その後で、夢子はバイト先の喫茶店に来る、客について愚痴を言い始めた。
「70くらいのお爺なんだけどね」
「うん」
「そいつ、私以外の店員には絶対注文しないのよ」
「どういう事?」
「私がオーダーを取りに行くと何を飲むか、食べるか、言ってくれるんだけど、私が他の客の対応をしていると、ただ居座っているだけになるから、店長なんかそいつが来た瞬間、夢子ちゃん、お願いってなるんだよね。別にオーダーを取るのは構わないんだけど、その後が面倒でさ」
「うん」
「受けたオーダーの品を、例えばアイスコーヒーだったとしたら、そのアイスコーヒーも私がそのお爺の席まで運ばないと絶対受け取らないの。他の店員が持って行くと、お前が触ったグラスは汚いからワシの所に置くんじゃない!と顔を真っ赤にして怒鳴るし、仕方ないから改めて私が持って行くんだけどさ。運んだら運んだで、そのお爺、カサカサに乾いたシワシワの手で私の手をとって、これで美味しい物でも食べるんだよ?なんて言いながら黄ばんだ歯茎を剥き出してニヤニヤすんのよ。で、私は、まぁ、一応、小銭を何か受け取った感触があるから、はぁ……ありがとうございますって言って席を離れ、厨房の側まで戻ってさ。渡された私の手の平を確認するとさ、そこに73円くらいあってさ」
「何、そのジジイ、そんな金でご飯なんて食えないじゃん」
「それもそうだけど、その小銭がさ」
「うん」
「全部、ベトベトなのよ」
「ベトベト?どういう事?」
「多分、全部の小銭に唾がついてるだと思う」
「まさか、舐めたお金を夢子にあげたって事?」
「舐めた程度じゃないくらい、ベトベトしてるから、多分、口の中に入れたんだと思う」
「気持ち悪いジジイだな。出禁とか出来ないの?」
「昔からの常連みたいで、無理みたい」
「って事はそのジジイ、毎日来てるわけ?」
「うん、毎日」
「まさか、夢子、そんな事を毎日されてんの?」
「うん。私がバイト始めて2日目くらいからずっと」
「そんな所辞めなよ」
「無理だよ。なんだかんだでやっと見つけられたバイトだし」
確かにこのような田舎町では、バイトはそうは見つからない。誰かの紹介というのであれば働き口も少しは選択肢が増えるかも知れないが、自分にはそのようなコネはなかった。
「店長の話だと、10年くらい前に奥さんと子供に夜逃げされてからは今は1人で暮らしてて、身寄りも親類もいない寂しい老人だから、大目に見てほしいって言われちゃったし……」
「そういう問題じゃないよ」
ジジイもジジイだが店長も店長だ。そんな客は出禁にするべきだ。たった1人来なくなったくらいで、売り上げが爆下がりするわけでもないだろう。
話を聞けば聞くほど、腹が立って来る。
俺の夢子に汚い真似をしやがって。
「そうだけどさ。どうにも出来ないじゃん」
夢子が食事の手を止め箸をお皿の上に置いた。
「あいつ、死ねば良いのに。そしたら、汚い事されないのにさ」
悲しみがこもった声で夢子はいうと、微かに上目遣いで潤んだ瞳を永剛へ向けた。
「ね?死ねばいいと思わない?」
「思うよ」
「えーちゃんにのしかかれたら、あのお爺、直ぐ死にそう」
夢子はいい微笑んだ。
「きっとぺちゃんこに潰れちゃうよ」
と続け笑った。
「そのジジイ身寄りは無いんだっけ?」
「うん。店長がそう言ってたよ」
「そっか。なら、殺しやすいな」
永剛が言うと一瞬、夢子の瞳がギラリと光った。その瞳の中に光が増えていく。部屋の明かりのせいかも知れない。
「お爺の家、私、知ってるよ」
「調べたの?」
「たまたま帰り道で見かけたんだよ」
「そうなんだ」
「うん」
「なら、ご飯食べたら行ってみようか」
永剛が言うと夢子は両腕を伸ばし永剛の首に抱きついて来た。
「えーちゃん、大好き」




