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マリヤが何処へ向かったのかは全く分からなかった。
だが、ノートに書いていた候補者全ての住所が、記憶が確かなら駅向こうという事が、圭介の焦りを辛うじて抑え込む事に役立っていた。
圭介は無意識の内に普段は絶対にやらない事をやっていた。それは車の速度を上げる事だった。
法定速度を僅かに破りながら圭介は駅へと向かう。マリヤがいつ自宅から出て行ったのか分からない今、こんな事をしてもとっくに間に合わない可能性の方が高かった。
だがこの時ばかりはその考えを振り払い、圭介は間に合うという希望に必死に縋り付いていた。
駅近くのパーキングに車を止めると、圭介は頭の中で思い当たる人物を想起した。駅から1番近くに住んでいる奴は……断片的な記憶を頼りに圭介はそちらへと足を向けた。
歩行者専用の横断歩道の信号が点滅を始める。一気に駆け出そうとした瞬間、横断歩道の向こう側に立って信号を待つスーツを着た1人の男の姿を見つけ、その足を止めた。
ハッとして息を飲む。頭の中で眠っていた記憶が一気に目を覚ました。今の今まで忘れていたが、あの顔を忘れるわけがない。
表参道で室浜要が誘拐した赤津奈々の娘を派出所付近へ連れて行った後、止めていたパーキングでこちらを伺い見ていた刑事が直ぐ目の前に立っていたのだ。
絶対に奴に違いなかった。
どうしてこんな所にいるんだ?奴は東京の、渋谷の刑事ではなかったのか?圭介は慌てて目を伏せた。別な方向へ足を向けようかとも考えたが、マリヤの事もあり、それは思い止まった。今はしらみつぶしに捜せるという訳ではない。
記憶が確かな部分から押さえて行くのが賢明だ。
だが、こちらが妙に意識すれば、相手にこちらの存在を気づかれてしまう恐れもある。
あの時感じた嫌な予感がただの思い過ぎであればいいが、どうにもその思いは拭いきれなかった。奴を恐れているわけではない。ただ言葉に出来ない何かが、普通の刑事と違う何かが、奴から感じられたのだった。
行き交う車が速度を落とし始める。黄色から赤に変わり、車が止まった。横断歩道の信号が青に変わり、さほど多くない人達が向かい側から歩き始める。
真ん中をあるく刑事は何か考え事をしているのか、ぶつぶつと呟いている。圭介は欠伸をする振りをして口に手をあて、顔を半分隠した。すれ違いざま、見ないつもりでいたが自然と刑事の方に視線が向いた。
と同時に目が合うと、刑事が足を止めたのが背中で感じられた。圭介は自然体を装い、歩く速度は変えずそのまま進んで行く。痛いほど背中に視線を感じた。
刑事は足を止めてこちらを見ているに違いない。圭介は横断歩道を渡り切る寸前、道路と歩道の段差に躓いた。少しバランスを崩したが、咄嗟にそれを利用した。
躓いた箇所を見る振りをしながら、横断歩道へ視線を上げた。刑事は未だ中央付近で立ち止まっていた。信号が点滅を始める。刑事は振り返る体勢のままこちらを見ていた。
気づかない振りをしながら圭介が歩き出すと刑事の身体が圭介側へと向き掛けた。瞬間。クラクションが鳴り響いた。刑事は朝居眠りから目覚めたかのように車に向かって手をあげ、駆け足で向こう側へと走って行った。
圭介は立ち止まらなかった。間違いなく奴がこちらを見ているからだ。
次の歩道の信号が青に変わるまで圭介は出来る限りこの場から遠く離れたかった。だが、マリヤの事がある。
少し遠回りになるが、刑事が後をつけてくる想定を踏まえて、圭介はビルとビルの間の道へ、飲食店が並ぶ道へと入って行った。
泡沢は1人勝手に居なくなった小川を探す振りをしながら、県警を後にした。
今まで起きた鰐男事件を思い出しながら歩いているといつしか駅の方まで来てしまっていた。何を調べるわけでもなく出て来たは良いが、頭の中は鰐男の事で一杯だった。
奴は正義の味方を気取りたいのか?それが泡沢の中で大きく膨らんでいた。殺された被害者は皆、遅かれ早かれ、警察の厄介になるような人物だった。
そこだけを見れば、そいつらの被害に遭っていた、これから遭っていたかも知れない人達からすれば殺された事はこの上ない幸せだったに違いない。
事件が起きれば警察は動かなければいけないが、今の泡沢は内心、逮捕する必要があるのか?という思いに駆られていた。
世の中から悪人が減るのは良い事だ。勿論、そういう人間が死んだくらいで悪人がいなくなる訳ではない。ウィルスのように次から次へと生み出されていく。
だが、止める人間も必要だ。それが警察だろと言われれば返す言葉もないが、少なくとも殺された奴らから被害を受けていた人達は幸せと向き合う事が出来るようになる筈だ。
どんな人間でもその命は大切なものだ。死んで言いわけがない、泡沢はそのような事を平然と言える人間ではなかった。この世界に平等なものなどありはしない。屑は屑だ。他人の命を奪ったのであれば、奪われて当然だ。そこに人権など存在しない。してはならないといつしかそのように思う自分へと変わってしまっていた。歳を取ったせいか、刑事生活がそうさせたのかはわからない。だが、鰐男の裁きとも思える殺人は、一種の正義でもあるのではないか。
泡沢はふと顔を見上げると横断歩道の信号が点滅していた。泡沢は駆け足で渡る人達を横目に足を止めた。赤信号になり車が行き交うのを眺めていると、向こう側に立っている1人の男の姿が目に入った。不自然に顔を背ける姿に泡沢は微かに首を傾げた。
自分と目が合ったからか?そう思うと同時に泡沢の股間が疼いた。直ぐさまチンポに血が通い勃起する。ポケットに手を入れチンポの位置を直す。信じられない程、硬く熱っていた。職質をかけるべきか?泡沢はポケットから手を出し横断歩道を歩き出した。すれ違う人々を避けながら男の動向を視認する。欠伸をして口に手をあてる仕草は何処となくわざとらしく見えた。すれ違いざま、男と目が合った。泡沢は立ち止まり、進んで行く男の背を睨みつけた。
チンポは直ぐにでも射精を求めるかのように疼いている。足を男の方へ向けようとした時、スマホが鳴った。多分、小川さんだろう。泡沢はそのまま電話は放置して男を尾行しようと考えた。その時だった。耳をつんざくクラクションが鳴り響いたのだ。そちらを見ると自分に向かって退け!という風に手を動かしている。
泡沢は慌てて信号を確認した。赤だった。
運転手に軽く頭を下げて泡沢は向かっていた方へと駆けていった。そして横断歩道を渡り切るとその場に止まり、男の姿を追った。男はビルとビルの間の路地に入って行く所だった。あの辺りは飲食店が多数あった筈だ。次に信号が変わったら後を追うか。そう思ったが、再びスマホが鳴り、泡沢は渋々電話に出ることにした。思った通り、小川さんからだった。
「どこほっつき歩いているんだよ」
それはこっちのセリフだと思いながらも、泡沢は
「駅前にいます」
と答えた。
「どうしてそんな所にいやがる?」
「少し考え事をしていましたら、いつの間にかここまで来てしまっていました」
泡沢は言い訳をするのが面倒になり、正直に答えた。
「久々にチンポが、疼いたのか?」
「いえ。そういう訳ではないですが」
泡沢は嘘をついた。実際はさっきの男にギンギンに反応したが、それと鰐男の事件とは別だ。さっきの男は何らかの犯罪に手を染めているのは間違いないだろう。
だがそれが鰐男関連だとは言い切れない。ひょっとすると今、小川さんと2人で関わっている事件の被疑者の可能性が無いとは言えないが、既に追うことを諦めた今、勃起した事は伏せた方が良いという泡沢の判断だった。
「そうか。なら手は空いてるな」
「勿論です」
「容疑者の自宅が判明したから今からそっちへ向かう。お前も来い」
「わかりました」
泡沢は内ポケットから手帳を取り出した。
小川さんから住所を聞き、それを手帳に記入した。
「ホシに逃げられるかも知れねーから、急げよ」
「はい」
泡沢は電話を切り、走り抜けようとしたタクシーに向かって手を上げた。急ブレーキで停車したタクシーに乗り込み、一言謝罪する。行き先を告げる。自動ドアが閉まりタクシーが動き出すと泡沢は男が消えた路地の方へと視線を向けた。当然、男の姿は見えなかった。




