雨
宿の廊下を歩いていたノアを、低い声が呼び止めた。
「……ノア」
振り向くと、ディランが立っていた。
その手に――封書。
教会の紋章が刻まれている。
「……これ、お前宛てだよな」
差し出された手紙を見た瞬間、
胸の奥が冷えた。
(……あの男が言っていた“細工”か……)
逃げ場は、もう用意されていない。
「……中、見た」
ディランの声は低かった。
「説明してくれ」
沈黙が落ちる。
ノアは目を伏せたまま――口を開いた。
「……書いてある通りです」
「聖剣を奪えと、教会から命令を受けています」
「従わなければ――家族の形見の杖を消すと」
ディランの眉が寄る。
「……それだけか?」
ノアは小さく息を吐いた。
「……ええ」
そして、続ける。
「だから――魔族側につくことにしました」
「……は?」
空気が止まった。
「杖を取り戻すには、魔族の力が必要です」
「……もう、話はついています」
ディランの顔から血の気が引いた。
「お前……何言ってんだ……」
「魔族に協力すれば、人が死ぬかもしれねぇんだぞ」
「それが一番嫌なのは――お前だろうが!」
ノアは視線を逸らしたまま答える。
「……それでも、です」
「私にとっては――あの杖の方が大事だと……選んだのです」
ディランの拳が震えた。
「……嘘だろ」
ノアは答えない。
その沈黙が、肯定だった。
「……ふざけんなよ」
一歩、踏み出す。
「お前が、そんな選択するわけねぇだろ!」
「何があった!? 言えよ!!」
ノアは静かに言った。
「……何かあったとしても、あなたには関係ない」
その言葉は刃だった。
ディランの頭に――焼き付いた光景がよぎる。
血に濡れた瓦礫。
伸ばした手。
届かなかった背中。
――アル。
(……また、救えねぇのかよ)
「……行かせねぇ」
ディランが腕を掴もうとした瞬間――
ノアの魔力が弾けた。
衝撃が走り、ディランの体が弾き飛ぶ。
「ッ……!」
床を滑り、叩きつけられる。
それでも、立ち上がる。
「……行くな……!」
もう一度、掴みに行こうとして――
腕を止められた。
「……ディラン」
ユリウスだった。
「離してくれ!!」
「だめだ」
静かな声。
「これは――ノアが決めることだ」
「なんでだ!!」
ディランが叫ぶ。
「分かるだろ!!」
「ノアが! 一人で! 自分を犠牲にしようとしてるのが!!」
ユリウスは、ノアを見た。
「……話し合う余地はない?」
短い沈黙。
ノアは、目を逸らしたまま答える。
「……ありません」
そこへ、レイが口を挟んだ。
「勝手だな」
全員の視線が向く。
「俺の訓練はどうなる?」
ノアはわずかに視線を揺らす。
「……申し訳ありません」
「もう、あの訓練はやめた方がいい」
「そうか」
レイは肩をすくめた。
「まぁ、俺もあれ怖かったしな」
軽く笑う。
だが次の瞬間――
懐から護符を取り出し、ノアへ差し出した。
「餞別だ」
「……これは」
「瘴気耐性強化。通常より効く」
「……世話になったからな」
レイはノアの肩を軽く叩いた。
「この行き方は気にくわねぇけど――」
「死ぬなよ」
ノアの喉が詰まる。
(……やめてほしい)
だが、表情は変えない。
無言で護符を受け取る。
そして背を向けた。
「……今まで、……ありがとうございました」
歩き出す。
「おい!! 待て!!」
ディランの声が追う。
「ノア!!」
扉に手をかけたその時――
「離れても、俺たちは仲間だ!!」
足が、ほんの一瞬だけ止まった。
だが――振り返らない。
そのまま外へ出た。
外は雨だった。
冷たい雨が、容赦なく体を打つ。
顔を伝う雫が、涙のように流れる。
後ろは見れなかった。
見れば――戻れなくなる。
(……すみません)
心の中だけで呟いた。
どれほど歩いただろうか。
人気のない通り。
雨音だけが響く。
その前に――
影が現れた。
「お待ちしておりました」
クラウスだった。
傘も差さず、濡れてもいない。
「無事、お別れできたようですね」
ノアは何も答えない。
クラウスは穏やかに微笑んだ。
一歩距離を詰め、そして、静かに告げた。
「では、参りましょう。 ――勇者殿?」
雨音が、やけに大きく響いた。
クラウスの口元に、意味深な笑みが浮かんでいた。




