雨雲
陽光が、白いカーテン越しに差し込んでいた。
柔らかな光に満ちた室内。
磨き上げられたテーブルの上には、湯気を立てるティーカップが二つ。
「――シエル様? ルシエル様ってば!」
甲高い声に、ルシエルの視線がゆっくりと戻る。
「……え? ……何?」
「もぉ~、全然聞いてないじゃないですかぁ~」
向かいに座る紫髪の少女が、頬を膨らませる。
「だから~、勇者パーティのノアくんですよぉ。 あのままじゃ仲間との連携にも支障が出そうだったから、ちょっと突いてみたんですぅ~。 どうなるか、見てみたくて」
指先で空を突く仕草。悪びれる様子はない。
「……あの後、無事に戻ったかな~? 仲間の子が来てたみたいだし」
ルシエルは答えず、ティーカップを手に取った。
紅茶の湯気が、ゆらゆらと立ち上る。
一口、口をつける。
「……さぁ。 たしか、教会が杖で脅してるんだっけ」
「……なんで教会が聖剣を欲しがってるのかは気になるけど」
カップを揺らし、紅茶の表面を見つめる。
そして、窓の外へ視線を移した。
空は、やけに青い。
風に揺れる木々を眺めながら――思考が遠のく。
――光のような金の髪。
――剣。
――向けられる微笑み。
断片的な何かが、脳裏をかすめた。
「……ルシエル様?」
少女が首を傾げた。
「最近、元気ないですね」
「そう?」
「ぼーっとしてること、多いですしぃ」
ルシエルは少しだけ笑った。
「大丈夫だよ」
視線を外に向けたまま言う。
「今朝、変な夢を見て気になってるだけだから」
「夢?」
少女の瞳が興味に輝く。
「どんな夢なんですか~?」
しばらく沈黙が続く。
やがて、小さく口を開いた。
「……僕と同じ顔の」
一度言葉を切る。
「……多分、兄弟がいる夢」
「……僕に、家族はいないはずだけど」
(それなのに、……なんだか懐かしい感じがした……)
室内に、静かな沈黙が落ちた。
「――夢とは、時に願望を映します。ルシエル様が兄弟をお望みなのでは?」
背後から声がした。
執事のクラウスが、静かに紅茶のお替りを注いでいる。
「は!? 僕が兄弟がほしいって!? 馬鹿なこと言わないでよ!」
ルシエルが頬を染め、クラウスを睨む。
「兄弟かぁ~。 いいですね~」
少女は楽しそうにルシエルを見る。
「もう! 二人して僕をからかわないでよ」
「ふふっ」
少女が笑い、室内は穏やかな空気に包まれた。
その穏やかな空気の中で、クラウスは、
注いだ紅茶の水面に映るルシエルの姿を、静かに見下ろしていた。
*
ノアとディランが野営地に戻ったのは、昼前だった。
二人の様子を見て、ユリウスとレイは何かを察したようだったが――それでも問いかけはしなかった。
ノアは「町に着いたら話がある」とだけ告げ、パーティはそのまま出発する。
聖剣の浄化の光が瘴気を裂き、道を切り開いていった。
森は静まり返り、魔獣の気配も薄い。
やがて四人は、抵抗らしい抵抗も受けぬまま、町へとたどり着いた。
空には、重たい雨雲が立ち込めている。
「雨が降りそうだ! 急いで宿に行こうぜ!」
ディランがそう言って駆け出した。
仲間たちもそれに続く。
宿に着いた頃には、長旅の疲労もあり、それぞれが無言のまま部屋へ散っていった。
だが――
ノアの足だけが、その場に留まっていた。
胸の奥がざわつき、落ち着かない。
一人、宿の裏手へ回る。
建物の影に沈んだ細い路地。
昼間だというのに、人の気配はなかった。
壁に背を預け、深く息を吐く。
(今日、聖剣と……あの少女のことを話す――)
視線を足元へ落とした、そのときだった。
「何か憂い事でもあるのでしょうか?」
ノアは弾かれたように顔を上げる。
見知らぬ男が、路地の奥に立っていた。
いつからそこにいたのか分からない。
足音を聞いた覚えはなかった。
黒髪を撫でつけた、整った執事姿。
無駄のない姿勢。
そして――異様な長身。
ノアより頭一つ、いや、それ以上高い。
「……誰、ですか?」
男は静かに一礼した。
「私、クラウスと申します」
柔らかな声。
老齢の執事が若者に語りかけるような、穏やかな響きだった。
「突然お声掛けした非礼、どうかお許しください。
お顔色が優れませんでしたので、つい……」
ノアの肩がわずかに揺れる。
「旅は過酷ですから。若い方ほど、無理をなさる」
クラウスは顎に手を当て、少し考えるように視線を巡らせた。
「……少し、体が冷えておいででは?」
「……え?」
思わず聞き返す。
クラウスは穏やかに続けた。
「体が冷えますと、思考は鈍り――判断も、心の働きも鈍くなるものです。
こういう時は、体を温めるのがよろしいかと」
何かを思い出すように、上を見上げる。
「温かい飲み物。特にハーブティーなどは、精神を落ち着かせる効果がございます」
「カモミールやレモンバームなどは、緊張を和らげます」
「それに、夜であれば、蜂蜜を少し加えると安眠にもいい」
淡く微笑む。
まるで孫を気遣う老人のような穏やかさだった。
「……」
ノアは返事を返せない。
体調を気遣う言葉とは裏腹に、背筋を走る違和感が拭えなかった。
クラウスは一歩、距離を詰める。
「守るものが多い方ほど、冷えやすいものです」
心臓が跳ねた。
「……何の話ですか」
「いえ、寂しい執事の独り言でございます」
微笑む。
「ただ――」
ほんの僅かに、声の温度が下がった。
「本日は一つ、用件がございまして」
沈黙。
「交渉に参りました」
空気が変わる。
「あなたの、勇者パーティの離脱について」
「……!」
「単刀直入に申し上げます」
一歩、間を置く。
「勇者パーティを離れ、私の指示に従っていただきます」
さらに一拍。
「拒否なさる場合――順番に、お命を頂戴いたします」
クラウスの指先が、空間をなぞる。
黒い紋様が浮かび上がった。
水面のように揺れる空間に、映像が映る。
「――っ!」
そこに映っていたのは、宿の一室。
ベッドに腰掛けるディラン。
窓際で剣を磨くユリウス。
「行動監視用の刻印です」
映像が拡大する。
鎧の裏。
荷物の留め具。
――黒い紋様。
「あなたがパーティを離れても、お仲間の様子はいつでも監視可能でございます」
「遠隔起動型ですので、私が今外すことはできません」
一拍置き、続ける。
「ご覧ください」
映像が切り替わる。
見知らぬ村。
昼下がりの広場。
談笑する村人たち。
黒い靄が立ち上り――
一人の男の首に絡みついた。
「っ……やめてください」
「まだ何もしておりません」
クラウスは淡々と言う。
靄が締まる。
男の顔が歪む。
喉を掻きむしり、足が浮く。
「従っていただけますか?」
距離も、術もない。
助けられない。
仲間の顔が脳裏をよぎる。
――守れない。
――また、失う……
「……やめてください。従います」
声が震えた。
クラウスが、ゆっくりと笑う。
「交渉成立ですね」
靄が消え、男の身体が崩れ落ちる。
ノアの胸が、わずかに緩む。
その安堵を、見届けたように――
パシュッ
湿った破裂音。
男の首から、大量の血が噴き出した。
首から上は――消えていた。
「ッッ…………!」
声が出ない。
心臓が暴れ、息がうまく吸えない。
血の匂いが、錯覚のように鼻を刺した。
「実演は必要ですので」
クラウスは穏やかに続けた。
映像が宿へと切り替わる。
再び、仲間の姿。
「あなたが従う限り――」
刻印が脈動する。
「彼らの命は保証しましょう」
沈黙。
選択肢は、なかった。
「……分かり、ました」
クラウスが一礼する。
「ありがとうございます」
顔を上げ、微笑んだ。
「では準備が整い次第――お迎えに上がります」
「あぁ、それと」
ほんの僅か、微笑みを深める。
「滞りなくお別れできるよう、手は打っておりますのでご安心を」
その言葉を最後に、クラウスの姿は陰へ沈むように消えた。




