第109話 「黒の毒」
「……おや?」
ベシムは違和感を覚えた。ミミの様子が、ベシムの想像していたものと違ったからだ。この感じ……何かがおかしい。
まさか……この液体の正体は……!
ベシムが気付いた時には、ミミはもう行動に移っていた。
ミミは寝返りを打ち、右手の力だけで下半身を持ち上げた。ミミの足が素早く起き上がり、ベシムの顎を打つ。ミミは右手だけを支えに逆立ちをして、バク転を決めた。
ミミに蹴り飛ばされたベシムと、体を震わせて立つミミ。
「なっ……!」
ベシムは顎を押さえながら、ミミを凝視した。
「何故動けるのデス……? 麻酔毒の効果はまだ切れてないはずデスが」
疑問を口に出しつつ、ほとんど答えは分かっていた。
黒の毒……その正体は……。
「ドーピング」
ミミは盛んに呼吸をしながら答えた。
「この『黒の毒』は、わたしが発明したオリジナルのドーピング。身体能力を引き上げ、脳の活動を活発にさせる。でも、興奮状態になったりとか……色々な副作用があるけど」
ミミの顔は赤く染まり、口元から涎が溢れていた。
「馬鹿な。ドーピング程度で拙者の麻酔毒を無効化出来るはずが無い!」
体の動きが活発になろうと、麻酔で動けなくなった体が動けるようにはならない。
だがそれは、効果の小さいドーピングの話。
「わたしの黒の毒は……効果も副作用も大きい。多分、衛生団に見つかったら違法薬品に認定されると思う。だって、麻酔で動けない体を無理矢理動かせるんだから」
人体に悪影響が出るドーピング。故にミミは、この薬品を『毒』に分類した。
「出来れば使いたくなかった。だからこれは、絶対に勝ちたい時に使う切り札。ありがとう……わたしに飲ませてくれて。おかげであなたに勝てる」
ミミの息がどんどん激しくなる。ミミは息を吐いたタイミングで、強く地面を蹴った。瞬く間にベシムに接近するミミ。
ベシムは咄嗟に反応し、カウンターを決めようと拳を突き出した。だがミミはそれを避け、ベシムの顔面を思いっきり殴った。ベシムの口から、血と唾液が吹き出す。
ベシムの体は道路に叩き付けられた。骨にヒビが入り、内臓にもダメージが及んでいる。
「ぐぬぅ……ここは逃げるが勝ちデスな」
ベシムの痛み止めの効果はもうすぐ切れる。万策尽きる前に、ミミから離れなくては。
ベシムは一心不乱に走ったが、ミミは見逃さない。
「待って」
ミミの蹴りがベシムの足の骨を砕く。痛みは感じないものの、ベシムは逃げの一手を封じられた。
「おやおや、老人に厳しいお嬢さんデスな」
ベシムの顔から、次第に余裕の色が薄れていった。
一方ミミは、冷たい視線でベシムを見下ろしている。
「痛くなさそう。痛み止めを飲んだの? わたしはこんなにも痛いのに。痛いのに。痛いのに……」
ミミはベシムの腹を何度も蹴った。既にドーピングの影響で、精神が侵食され始めている。
冷たい雨と激しい風が、二人の体を襲っていた。露出の多くなったミミの肌。彼女の痛々しい傷痕に、雨が勢いよく当たっている。
まだ、痛い。ドーピングで強化されても、痛みは依然としてミミを襲っていた。
「わたしの痛みを、誰も理解してくれない」
ミミは再び『熊飼のロープ』を取り出し、ベシムを縛ろうとした。
その時、ベシムは目を見開いた。
「残念デスねぇ。拙者に引導を渡すのは、拙者の毒だけなのデスよ……」
ベシムの顔色が急変した。濃い青色がベシムの顔を支配し、ベシム全身が膨張し始める。何が起こったのか把握する間も無く、ベシムの体は破裂した。後に残ったのは、スーツケースと、白衣と、青色の肉片のみ。
一瞬の内に崩壊したベシムの肉体を見て、ミミは呆然としていた。
「そっか。歯の裏に自殺用の毒を……」
毒を愛した男は、毒で虐殺を行い、毒で自分を殺した。
「じゃあ、わたし勝ったんだ」
ミミはフラフラと周囲を歩き回り、虚ろな目で街を見た。
「他の敵もいるはず……探さなくちゃ」
ミミは、自分が鼻血を出していることに気付いていない。ミミの体の震えはどんどん大きくなり、顔の紅潮も進んでいた。
「雨……冷たいな」
心が高ぶって、もう訳が分からない。副作用が進行し、ミミの精神は限界に迫っていた。
「やっぱり休憩したい……。ごめん」
ミミは近くの建物に入ろうとしたが、ドアがロックされていた。仕方ないので、建物の壁に寄りかかって休む。
「痛い……疲れた……寒い……辛い……」
この最低な気分。どこかで同じ感覚を味わったような気がする。そうだ。これは。
「まるでわたしの故郷みたい」
誰も味方がいなくて、誰も自分を理解してくれなかった、あの故郷。
久し振りに、思い出してしまった。
ミミは小さくクシャミをした。体の震えは、副作用だけの影響じゃなさそうだ。
「風邪薬は持ってきてないんだけど……」
雨音がうるさい街中で、孤独を感じながら、ミミは体の力を抜いた。
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