帰る人のための一杯
リアンから故郷の話を聞いた翌日も、変わらない日々が続いていた。畑仕事をして、鶏の世話をして、夕食の支度をする。表面上はいつも通りのはずなのに、鍋を火にかけるたび、昨夜の話がふと頭をよぎるようになっていた。
「なあ、あの鍋の話だけどさ」
夕食の支度をしながら、俺は思い切って切り出した。リアンが手を止め、こちらを見る。
「あれって、お前の家族だけの習慣だったのか? それとも……」
「いや。我らエルフ全体に伝わる風習だ。ヴェルディアに限った話ではない」
「そうなのか」
「森で暮らす一族は、どこも似たような形で受け継いでいるはずだ。……もっとも、今となっては、それを守る一族がどれだけ残っているのかもわからないが」
リアンの声には、自嘲めいた響きが混じっていた。散り散りになった同胞たちのことを思っているのだろう。
「森の恵みは、いつも人数分ぴったりとは限らない。だからこそ、誰かのために一杯残すという行為には、意味があった。……足りない中で、なお分け合おうとする。それが、我らの誇りだったのかもしれない」
「誇り、か」
「大げさに聞こえるか?」
「いや」
俺は鍋の中身をかき混ぜながら、少し考えた。足りないからこそ分け合う。それは、貧しさの中で育まれた優しさなのだろう。人間の世界にも、似たような話がないわけではない。母が夜勤明けの兄のために皿を取り分けていたのも、根っこの部分ではきっと同じことだ。
「……いい話だと思うよ、普通に」
素直にそう言うと、リアンは意外そうな顔をした。皮肉や茶化しを予想していたのかもしれない。
「素直だな、今日は」
「たまにはな」
軽口を叩き合いながら、俺はふと、自分の中で何かが決まっていくのを感じていた。うまく言葉にはできないけれど、このまま聞くだけで終わらせたくない、という気持ちだった。
「よし」
「……何がだ」
「今日から、うちでもやろう。その風習」
リアンが目を見開いて、こちらを振り返った。
「お前が、か?」
「別にエルフじゃなくてもいいだろ。二人分作って、ちょっとだけ多めに。もし誰かが遅くなっても、腹を空かせて帰ってくることがないように」
言ってから、少し照れくさくなって、俺は鍋に視線を戻した。
「まあ、うちは二人しかいないから、誰かが遅くなるってこともそうそうないだろうけどさ。……それでも、な」
「……」
リアンは何も言わず、ただじっとこちらを見ていた。その視線の意味がわからず、俺は落ち着かない気分で鍋によそう手を早める。からかわれるだろうか、それとも呆れられるだろうか。そんなことを考えながら、椀を手に取った。
「じゃあ誰か帰ってくるまで残しとくか」
椀に半分だけスープをよそい、鍋にはあえて一杯分を残す。たったそれだけの行為だったが、なぜか妙に誇らしい気分になった。
「……お前は、本当に変わったやつだな」
リアンがぽつりと呟いた。その声は、呆れているようでいて、どこか柔らかかった。
「二度目だな、それ」
「そうだったか」
とぼけるリアンに、俺は思わず笑ってしまった。
「べつに、大したことしてるつもりはないけどな。ただ、誰かのために残しておくっていうの、悪くないなって思っただけだ」
「……そうか」
リアンは短くそう答えただけだったが、その横顔には、どこか安堵したような色が浮かんでいるように見えた。
二人分の椀を並べ、湯気の立つスープをすする。いつもと同じはずの夕食なのに、鍋の中にもう一杯分残っているというだけで、なんだか少し違って見えた。埋まらない席のための一杯ではなく、これから誰かが増えるかもしれない席のための一杯――そう思うと、不思議と温かい気持ちになる。
鍋の中に残された一杯分のスープが、湯気を静かに立ち上らせている。それは、誰かの不在を悲しむためのものではなく、これから先も続いていく、二人の――あるいはもっと先の、誰かのための――ささやかな習わしの始まりだった。




