振り返った、最後の鍋
「……もう一つ、話しておきたいことがある」
しばらくの沈黙のあと、リアンが再び口を開いた。話し終えたと思っていた俺は、少し驚いて顔を上げる。焚き火の炎が、リアンの横顔を静かに照らしていた。夜はすっかり更けていて、虫の声だけが遠くから聞こえてくる。
「あの日の朝も……父上は、いつもの習慣を欠かさなかった」
「習慣?」
「我らエルフには、古くからの風習がある。鍋には、必ず一杯分を残しておくのだ」
思いがけない話の方向に、俺は黙って続きを待った。夜風が焚き火の煙を揺らし、パチ、と薪の爆ぜる音が響く。
「森へ狩りに出た者、仕事で遅くなる者、旅から戻る者。誰かが腹を空かせて帰ってくることのないよう、最後の一杯だけは、いつも取っておく。……そういう習わしだ」
「……いい風習だな」
「ああ。何百年、何千年と、我らの一族に受け継がれてきたものだ」
リアンはそこで一度、遠くを見るような目をした。まるで、今もその光景がはっきりと目に焼きついているかのようだった。俺は口を挟まず、ただ静かにその横顔を見つめる。
「あの日、人間の軍が攻め込んでくる直前のことだ。父上に急かされて逃げようとしたとき、私は一度だけ、家を振り返った」
「……何が見えた?」
「台所の鍋だ。いつも通り、一杯分のスープが残されていた」
その光景を思い浮かべ、俺は思わず息を呑んだ。慌ただしく逃げ惑う中で、それでもなお欠かさなかった習慣。剣を取り、家族を失い、故郷を焼かれる、そんな混乱の渦中にあってなお守られていたささやかな習わし。
「それが、私が故郷で見た最後の景色だった。……あの一杯を、誰も飲むことはなかった」
声が、わずかに掠れていた。
「あの一杯を飲む者は、もう誰も帰らなかったんだ」
言葉の重さに、俺はしばらく何も言えなかった。ただの風習だと思っていたものが、リアンにとっては、失われた故郷そのものの象徴になっているのだと、ようやく理解する。
家族の誰かのために残しておいた、たった一杯のスープ。それを飲むはずだった者たちは、結局、誰一人として戻ってはこなかった。その事実の重さを想像し、俺は喉の奥が詰まるのを感じた。地球にいた頃、夜勤で遅くなる兄のために母が皿にラップをかけて残していたのを思い出す。けれどそれとは比べ物にならないほど、重く、痛ましい記憶なのだと、今更のように思い知らされた。
「……そっか」
短く相槌を打つことしかできなかったが、リアンは責めるでもなく、静かに頷いた。
「なぜこんな話をしたのか、自分でもわからない」
「話したかったから、じゃないのか」
「……そうかもしれないな」
リアンは小さく息を吐き、少しだけ肩の力を抜いたように見えた。焚き火の炎が爆ぜる音だけが、しばらく二人の間に響いていた。
俺はふと、自分の家族のことを思い出した。五人兄弟で囲んだ、あの賑やかな食卓。今ごろ、あの食卓はどうなっているのだろう。もう戻らないと分かっている俺のことを、兄弟たちはどんな思いで、あの食卓を囲んでいるのだろうか。想像するだけで、胸の奥が締めつけられる。リアンが抱えてきた喪失の重みが、少しだけ実感を伴って伝わってきた気がした。
軽々しく「わかる」とは言えない。立場も、失ったものの大きさも、俺とリアンとではまるで違う。それでも、隣にいることくらいはできる。俺はただそう思いながら、焚き火に新しい薪をくべ足した。
リアンは一瞬、驚いたようにこちらを見て、それから小さく、けれど確かに笑った。
「……お前は、変わったやつだな」
「よく言われる」
軽口で返すと、リアンはふっと息を漏らすように笑った。張り詰めていた空気が、少しだけ和らいだ気がする。
その夜見た、リアンの過去の重さは、俺の中に静かに、けれど確かに刻み込まれた。




