第97話 家族
しかし。
恒一がナイフを握る手は、動かなかった。
脳裏へ浮かんだのは。
父でも。
母でもない。
一人の少女との日々だった。
『飯作れ』
『服洗え』
『殺すぞ』
最初は命令ばかりだった。
何を考えているのか分からない。
感情の見えない少女。
それが、冬埜玲だった。
けれど。
少しずつ変わっていった。
一緒にゲームをした。
一緒に料理をした。
一緒に買い物へ行った。
ラーメンを食べて目を輝かせ。
水族館では子どものようにはしゃぎ。
美容院では鏡を見つめながら、
『悪くない』
『気に入った』
そう言って、小さく笑った。
腕相撲では力加減を間違え、
『悪い』
初めて素直に謝った。
曲がった指を隠し。
嫌われることを怖がった。
自分が刺された時には、
『こういちが死ぬかと思った』
そう言って、子どものように泣いた。
そして、いつからだろう。
『肩叩け』
『隣へ座れ』
『抱っこしろ』
『手を繋げ』
命令だと思っていた言葉が。
今なら分かる。
あれは命令なんかじゃない。
甘え方を知らなかった少女が。
必死に甘えようとしていた、不器用な精一杯だった。
呼び方も変わった。
『お前』
そう呼んでいた少女は。
いつの間にか。
『こういち』
そう呼ぶようになっていた。
恒一は静かに目を閉じる。
父も。
母も。
もう帰ってこない。
失った家族は、二度と戻らない。
それは、どれだけ願っても変えられない。
でも。
気付けば、自分の部屋には笑い声があった。
一緒にご飯を食べる相手がいた。
帰る場所があった。
他愛ないことで喧嘩をして。
また笑い合える日常があった。
そして。
「こういち」
そう呼んでくれる少女がいた。
玲は、失った家族の代わりではない。
それでも。
知らないうちに、自分へもう一度家族のぬくもりを教えてくれた。
もう、自分は一人じゃない。
その温もりを。
復讐で壊したくはなかった。
恒一の震えていた手から、少しずつ力が抜けていった。




