第90話 弱くなりましたね
剣吾は玲を静かに見つめた。
「兄・刀也から聞いています」
「昔のあなたは――抜き身の刀だったと」
玲は何も答えない。
「殺意を隠さず」
「誰も守らず」
「ただ任務だけを遂行する」
「そんな殺し屋だったそうですね」
剣吾はゆっくりと周囲を見渡す。
人気の消えた住宅街。
車の音も。
人の声も。
何一つ聞こえない。
「だから私は」
「事前に人払いをしました」
そう言って、手にした巨大な両手剣へ視線を落とす。
「さらに」
「私が最も得意とする武器まで持ち出した」
「歴代最強と呼ばれた冬埜家十八代目当主」
「相応の準備が必要だと考えたからです」
玲はわずかに目を細めた。
「随分と警戒したもんだな」
「ええ」
剣吾は迷いなく頷く。
「ですが」
「正直、拍子抜けしました」
玲の表情から、わずかに笑みが消える。
「何?」
「今のあなたからは」
「兄が語っていたような殺気を感じません」
「抜き身の刀どころか」
「すでに鞘へ収まった、普通の少女です」
その視線が、一瞬だけ恒一へ向いた。
「守るものができた」
「だから迷う」
「昔のあなたなら」
「誰かを庇うように前へ立つことなど、なかったでしょう」
恒一は、その言葉を聞いて思い出す。
以前、自宅へ押し入ってきた獄蓮会の構成員。
あの男も同じことを言っていた。
『料理』
『ゲーム』
『家族ごっこ』
『普通の生活?』
『笑わせんな』
『今のあいつは腑抜けだ』
『もう使いもんにならねえ』
あの時は、玲を道具としてしか見ていない人間の戯言だと思っていた。
だが今。
殺し屋御三家・天音家。
その序列第三位である剣吾までもが、同じ結論に至っている。
(本当に……)
(殺し屋としては、弱くなったのか)
恒一は玲の小さな背中を見つめた。
自分を庇うように立つ、その姿を。
少し前まで握っていた手の温もりを守るために、玲は今ここに立っている。
剣吾は淡々と続けた。
「ここまで腑抜けていると知っていれば」
「人払いをする必要も」
「この武器を持ち出す必要もありませんでした」
「随分な言いようだな」
「事実を述べただけです」
剣吾の視線が玲の腰元へ落ちる。
「それに」
「武器も持っていないようですね」
「ああ」
「もう必要ないと思って捨てた」
「殺し屋も廃業したからな」
剣吾は懐へ手を入れる。
取り出したのは、一振りのナイフだった。
それを玲の足元へ放る。
カラン――。
乾いた金属音が、静まり返った住宅街へ響いた。
「拾いなさい」
恒一は思わず声を上げる。
「何を……」
剣吾は玲から目を逸らさない。
「丸腰のあなたでは」
「勝負になりません」
玲は足元のナイフを見つめた。
剣吾は静かに続ける。
「正直に申し上げれば」
「そのナイフを持ったところで」
「今の私との差は埋まらないと思っています」
その口調に驕りはない。
二十八年という空白さえ織り込んだうえで、冷静に戦力差を分析しているだけだった。
「なら」
「どうして渡す?」
玲が尋ねる。
「情けか?」
剣吾は静かに首を横へ振った。
「違います」
「殺し屋らしくない考え方ですが」
「私は」
「強い者と戦うのが好きなのです」
玲がわずかに眉を上げる。
「歴代最強と呼ばれた冬埜玲」
「そんな相手を丸腰で斬っても」
「何の意味もありません」
剣吾は両手剣を静かに構えた。
「私は」
「兄と互角に渡り合った、あなたと戦いたかった」
「全力のあなたを越えてこそ」
「私がこの剣を振るう意味があります」
玲はしばらく剣吾を見つめる。
やがて小さく息を吐き、足元のナイフを拾い上げた。
逆手に握る。
「……変わった奴だな」
「よく言われます」
剣吾も、ほんのわずかに口元を緩めた。
玲はナイフを構える。
その背後には、恒一がいる。
かつての玲なら、守るものなど何もなかった。
自分が生き残り。
標的を殺せば、それでよかった。
だが、今は違う。
獄蓮会の構成員も。
剣吾も。
同じことを言った。
玲は弱くなったのだと。
けれど。
恒一には、そうは思えなかった。
誰かを守ろうとすることが。
大切なものを失うことを恐れることが。
本当に弱さなのだろうか。
玲は、確かに以前より迷うようになった。
傷つくことを恐れ。
失うことを恐れ。
それでも、大切な人の前へ立つことを選んだ。
その背中は。
恒一には、以前よりもずっと強く見えた。
最強と呼ばれた元殺し屋。
断罪を掲げる天音家序列第三位。
二人は静かに向かい合う。
張り詰めた空気の中。
戦いの幕が、静かに上がろうとしていた。




