第6話 殺すぞ
息を切らしながら、朝霧恒一はアパートへ駆け込んだ。
築四十年は経つ古びた木造アパート。
二階の角部屋。
家賃だけが取り柄の狭い部屋だった。
「はぁ……はぁ……」
震える手で鍵を開け、玄関へ入る。
扉を閉めると、その場へしゃがみ込み、大きく息を吐いた。
鼓動がうるさいほど速い。
頭の中では、二十八年前の光景が何度も蘇っていた。
玄関。
父。
母。
血。
ナイフ。
そして、さっき裏路地で見た少女。
恒一は何度も首を横へ振る。
「気のせいだ……」
「幻覚だ」
「仕事で疲れてるだけだ……」
今日は営業先を何件も回った。
疲れている。
酒でも飲んで寝れば忘れられる。
そう自分へ言い聞かせながら、玄関の鍵を閉めようと振り返る。
――そこにいた。
さっき裏路地で見た少女が、音もなく立っている。
「……っ!」
驚く暇さえなかった。
少女の右足が一瞬で振り抜かれる。
ドッ――!!
「がっ……!」
蹴りは寸分違わず、恒一の右脇腹――肝臓へ突き刺さった。
まるで大型トラックに撥ねられたような衝撃。
だが、身体は吹き飛ばされない。
衝撃は逃げ場を失い、そのまま全て恒一の身体へ叩き込まれた。
肺から空気が一気に押し出される。
「……っ!」
息ができない。
視界が白く弾ける。
身体から一瞬で力が抜け、膝が崩れ落ちた。
そのまま糸の切れた人形のように、床へ落ちる。
激痛が遅れて全身を駆け巡る。
胃がひっくり返るような吐き気。
肝臓を直接握り潰されたような鈍い痛み。
起き上がれない。
指一本動かせない。
床へ倒れ伏したまま、苦しそうに身体を震わせることしかできなかった。
少女は無表情のまま歩み寄る。
恒一の胸へ跨がり、首筋へナイフを添えた。
ひやりとした刃が皮膚へ触れる。
「殺すぞ」
感情のない声。
怒りも、憎しみもない。
目撃者を始末する。
それだけだった。
少女はナイフを握る手へ力を込める。
しかし、その身体が不意によろめいた。
「……?」
ナイフがわずかに揺れる。
ぐぅぅぅ……
静かな部屋へ、間の抜けた音が響いた。
少女の腹が鳴っていた。
「……腹、減った」
ぽつりと呟く。
次の瞬間。
少女は糸が切れたように前へ倒れ、そのまま恒一の胸へ突っ伏した。
完全に意識を失っている。
「…………」
激痛で動けない恒一は、胸の上で眠る少女を呆然と見つめることしかできなかった。
「……なんなんだ、お前は」
その問いに答える者はいなかった。




