第5話 裏路地
路地の奥に、一人の少女が立っていた。
年齢は、十四歳くらいだろうか。
短く切られた黒髪。
細い身体。
街灯の乏しい路地に立つその姿は、どこにでもいる少女のように見えた。
――ただ一つ。
右手に握られたナイフを除けば。
「……え?」
恒一の足が止まる。
少女の前には、一人の男がいた。
高級そうなコート。
腕には高価そうな時計。
酒に酔っているのか、足元は覚束ない。
「お前……誰だ?」
男は苛立ったように少女を睨む。
「こんな所で何してやがる」
少女は答えない。
ただ、氷のように冷たい目で男を見つめていた。
「聞いてんのか!」
男が少女の肩へ手を伸ばす。
次の瞬間。
少女の身体が消えた。
恒一には、そう見えた。
いや。
実際には動いている。
ただ、あまりにも速すぎて目が追いつかなかった。
少女は男の懐へ入り込む。
銀色の刃が、街灯の光を一瞬だけ反射した。
「……がっ」
男の口から、短い声が漏れる。
少女のナイフは、男の身体へ深く突き刺さっていた。
何が起きたのか理解できないまま、男の膝が崩れる。
少女が静かに刃を引き抜く。
赤い血が路地へ飛び散った。
男はその場へ倒れ込む。
動かない。
恒一は息をすることすら忘れていた。
血に濡れたナイフ。
地面へ倒れた男。
返り血を浴びても、まるで何も感じていない少女。
その冷たい目。
その瞬間。
二十八年前の記憶が蘇った。
玄関へ倒れた父。
恒一を庇うように倒れた母。
血に濡れた床。
見知らぬ男の手に握られたナイフ。
「……おい」
掠れた声が、恒一の喉から漏れる。
「なんだよ、これ……」
少女が、ゆっくりと顔を上げた。
目が合う。
背中を冷たいものが走った。
「嘘だろ……」
これは現実ではない。
そう思いたかった。
「映画の撮影……だよな?」
カメラはどこだ。
スタッフは。
照明は。
誰かが「カット」と叫ぶはずだ。
しかし、周囲には誰もいない。
倒れた男も起き上がらない。
路地に広がる血からは、生々しい鉄の臭いが漂っていた。
「幻覚だ……」
恒一は一歩後ずさる。
「疲れてるだけだ」
「そうだ。気のせいだ」
今日も一日中、営業先を回っていた。
疲れている。
酒も飲んでいないのに、妙なものを見ているだけだ。
きっとそうだ。
そうでなければならない。
少女は何も言わない。
血の付いたナイフを握ったまま、恒一を見ている。
その視線には、驚きも焦りもなかった。
ただ。
次にどうするべきかを、冷静に考えているように見えた。
恒一の身体が震え始める。
逃げろ。
頭の中で声が響く。
今すぐ逃げろ。
ここにいたら殺される。
「……っ!」
恒一は踵を返した。
全力で走る。
背後を振り返る余裕などない。
細い路地を抜ける。
角を曲がる。
人通りのある表通りへ飛び出す。
肩が誰かへぶつかった。
「す、すみません!」
謝りながらも足を止めない。
息が苦しい。
胸が痛い。
それでも走り続ける。
何度も同じ言葉を繰り返す。
「見間違いだ」
「何も見てない」
「気のせいだ」
そう言い聞かせなければ、二十八年前の夜へ引き戻されてしまいそうだった。
恒一は、逃げるように自宅を目指した。
背後から、少女が追ってきていることにも気付かずに。




