第55話 怖かった
翌日。
恒一は歯医者へ来ていた。
「前歯が折れてますね」
「どうされたんですか?」
恒一は困ったように笑う。
「酔っ払いに絡まれまして」
「急に殴られちゃって」
歯科医は苦笑した。
「それは災難でしたね」
「差し歯ができるまで少し時間が掛かります」
「しばらくはマスク生活になりますね」
「分かりました」
◇
その夜。
部屋は静まり返っていた。
恒一はふと目を覚ます。
隣の部屋を見る。
玲はいない。
リビングへ向かうと、ソファへ座った玲が窓の外をぼんやり眺めていた。
「眠れないのか?」
玲は振り向かない。
「……違う」
静かな沈黙が流れる。
時計の針だけが時を刻んでいた。
しばらくして、玲がぽつりと呟く。
「怖かった」
恒一は何も言わず耳を傾ける。
「こういちが……」
「死ぬかと思った」
玲は膝の上で手をぎゅっと握り締めた。
「目の前で」
「いなくなるかと思った」
その声は小さく震えていた。
初めて、自分の恐怖を言葉にした。
恒一は少し照れくさそうに笑う。
「すまん」
「やっぱり俺は弱いな」
玲は勢いよく首を横へ振る。
「違う!」
思わず大きな声が出た。
玲は少し俯き、小さく続ける。
「弱いとか」
「そういう話じゃない」
少し間を置いて、静かに言った。
「私は……」
「こういちがいなくなるのが嫌だった」
恒一は優しく笑う。
「そうか」
それ以上、何も聞かなかった。
玲も、それ以上は何も言わなかった。
二人は静かに並んで座り、夜の静けさに身を委ねていた。




