第54話 製鉄所
部屋には重苦しい空気が流れていた。
恒一は血の付いた口元を押さえ、大きく息を吐く。
「とにかく……」
「病院へ行く前に、これを何とかしないとな」
玲は静かに頷く。
「まず遺体を包む」
「近所の人に見られたら終わりだ」
恒一は窓の外を見た。
「……バレてないよな」
「このアパート、お年寄りばっかりだから、気付かれてないと信じたいけど」
頭を抱える。
「捕まるよな……」
「仕事、どうしよう」
玲は少し呆れたように言う。
「こういう時も仕事のことか」
恒一は苦笑した。
「そういう意味じゃない」
「ちゃんと全部話すつもりだ」
「でも、その前に落ち着かないとな」
玲は首を横へ振る。
「こういちに責任はない」
「全部、私がやった」
少し沈黙が流れる。
やがて玲が口を開く。
「一つ、行く場所がある」
「場所?」
「ああ」
「獄蓮会のフロント企業だ」
「黒鋼製鉄所」
恒一は目を丸くした。
「製鉄所?」
「そこへ行く」
恒一は思わず顔をしかめる。
「……怖い言い方するな」
玲は首を傾げる。
「昔からそうだった」
恒一は少し考えてから言った。
「なんか、こういうのって映画だと、海に沈めたり、コンクリートに埋めたりするんじゃないのか?」
玲は即座に首を横へ振る。
「だから」
「こういちは映画の見過ぎだ」
「ああいうのは映画の世界」
「じゃあ、どうするんだ?」
玲はあっさり答える。
「黒鋼製鉄所へ持っていく」
「それで終わりだ」
恒一は眉をひそめる。
「終わりって……」
「何するんだ?」
玲は少しだけ考えてから、小さく答えた。
「……じゅっ、だ」
「じゅっ?」
「ああ」
「それ以上は言わない」
恒一は数秒固まる。
「……いや」
「何かは考えるのをやめよう」
玲は小さく頷いた。
「それがいい」
恒一は時計を見る。
「でも、今から行くのか?」
「こういうのって、夜じゃないのか?」
玲はあっさり答えた。
「当たり前だろ」
「夜の方が、かえって不審に見える」
「製鉄所は昼も夜も動いている」
「昼間なら、大型トラックが出入りしていても誰も気にしない」
「夜中に不審な車が来る方が目立つ」
恒一は思わず感心した。
「……なるほど」
「現実は映画みたいにはいかないんだな」
「映画は演出だ」
玲は短く言い切った。
◇
二人は黒鋼製鉄所へ向かった。
昼間にもかかわらず、大型トラックが何台も出入りし、工場内では作業員たちが忙しそうに働いている。
裏口へ車を止めると、一人の年配の職員が歩み寄ってきた。
玲の姿を見るなり、目を丸くする。
「嬢ちゃんか」
「……やっぱり抜けたんだな」
玲は静かに頷いた。
「ああ」
職員は苦笑した。
「嬢ちゃんが抜けたって聞いた時は、会の中が大騒ぎだったぞ」
「歴代最高傑作がいなくなったってな」
「上の連中なんか、血相変えて探し回ってた」
玲は興味なさそうに答える。
「そうか」
職員は懐かしそうに笑った。
「昔から上の連中を嫌ってたもんな」
「命令されるのが大嫌いだった」
「その性格じゃ、いつか抜けると思ってたよ」
玲は黙って頭を下げる。
職員は包まれた遺体へ目を向け、小さく息を吐いた。
「嬢ちゃんには昔、命を助けられたことがある」
「今日は、その借りを返す」
「何も見なかったことにする」
玲は深く頭を下げた。
「……ありがとう」
職員は静かに頷く。
「これで貸し借りなしだ」
そう言って部下へ目配せをする。
数人の作業員が静かに近づき、包まれた遺体を運んでいった。
恒一は、その光景を黙って見つめていた。
表向きは、ごく普通の製鉄所。
しかし、その裏には玲が生きてきた世界が、今も確かに息づいていた。
玲は小さく目を伏せる。
普通の世界へ踏み出したつもりでも――。
過去はまだ、自分を離してはくれなかった。




