第52話 約束を破る
スーパーの袋を提げ、玲は上機嫌でアパートへの階段を上っていた。
「こういち!」
「今日は肉が安かったぞ!」
「だからいっぱい買ってきた!」
返事はない。
「……?」
玲は首を傾げながら玄関の扉を開ける。
その瞬間だった。
血まみれで倒れる恒一。
その喉元へ、男がナイフを振り下ろそうとしていた。
「――っ!」
玲の思考が止まる。
考えるより先に、身体が動いた。
スーパーの袋が床へ落ちる。
肉や野菜が転がる。
床を蹴る。
一瞬で男との間合いを詰めた。
「なっ――」
男が振り向く。
その時には、もう遅かった。
ドッ――。
玲の右手が男の胸を貫く。
細い指先は肋骨の隙間を正確に抜け、そのまま心臓へ到達した。
男は目を見開く。
「……は?」
口から血を吐き、その場へ崩れ落ちた。
ドサッ。
静寂が部屋を包む。
玲は動けなかった。
ゆっくりと男の胸から右手を引き抜く。
赤く染まった自分の手を見る。
「……あ」
小さく声が漏れる。
「私……」
床へ倒れた男を見つめる。
「殺した……」
その瞬間だった。
脳裏へ、あの日の光景が鮮明に蘇る。
『約束できるか?』
『ああ』
『もう、人を殺さない』
『約束する』
恒一と握った右手。
その温もり。
その約束。
今、その右手は血で染まっていた。
玲の身体が小さく震え始める。
「約束……」
「守れなかった……」
買い物袋が倒れ、特売だった肉が床を転がっていく。
恒一は苦しそうに身体を起こした。
「玲……」
玲はゆっくり振り向く。
その瞳には、これまで一度も浮かんだことのない感情が宿っていた。
後悔。
罪悪感。
そして、悲しみ。
玲は震える声で呟く。
「ごめん……」
「こういち」
「約束……」
「守れなかった」
その場に立ち尽くしたまま、小さく俯く。
人を殺したことが悲しかったわけじゃない。
恒一を守れたことを後悔しているわけでもない。
ただ――。
初めて大切な人と交わした約束を、自分の手で破ってしまった。
その事実だけが、玲の胸を強く締め付けていた。




