第18話 フリーランス
人気のない雑居ビル。
一人の男が、スマートフォンを見ながら非常階段を上っていた。
次の瞬間。
背後に気配。
男が振り返るより早く、その意識は闇へ落ちた。
――数分後。
玲は静かに非常階段を降りる。
息一つ乱れていない。
服に乱れもなく、返り血もない。
まるで散歩でもしてきたかのような足取りだった。
路地を抜け、人混みに紛れる。
監視カメラの位置も、人の視線も、すべて計算済み。
誰にも気付かれることなく、その場を後にした。
スマートフォンへ一件の通知が届く。
【依頼完了】
【報酬を振り込みました】
玲は画面を確認すると、小さく頷いた。
「終わり」
「振り込みも早い」
「この依頼者は、いい奴だ」
冬埜家にいた頃は、依頼を選ぶ権利などなかった。
上から渡された標的を始末するだけ。
それが仕事だった。
だが今は違う。
組織を抜けた今、受ける依頼は自分で決められる。
「どうせなら」
「悪そうな奴」
「金のいい奴」
「その方が効率いい」
玲は少しだけ考える。
「前の依頼者は遅かった」
「おかげで腹減った」
「馬鹿に見つかった」
恒一の顔が頭に浮かぶ。
「……もし会ったら殺す」
玲は何でもないことのように呟き、スマートフォンをポケットへしまった。
そのまま家へ戻る。
◇
玄関を開ける。
「ただいま」
返事はない。
恒一はまだ仕事中だ。
玲は何事もなかったかのように靴を脱ぎ、冷蔵庫を開ける。
昼に作ってもらった弁当を電子レンジで温め、一人で食べる。
「ごちそうさま」
食べ終えるとソファへ寝転び、そのまま昼寝を始めた。
数時間後。
玄関の扉が開く。
「ただいま……」
夜九時過ぎ。
仕事を終えた恒一が、疲れ切った顔で帰ってきた。
スーツ姿のままリビングへ入ると、ソファの玲が顔だけ向ける。
「遅い」
「腹減った」
恒一は鞄を床へ置きながら呆れた。
「昼飯食っただろ」
「もう腹減った」
「知るか」
恒一はネクタイを緩め、大きく息を吐く。
「疲れた……」
玲は不思議そうに首を傾げた。
「お前、何もしてないだろ」
「仕事してきたんだよ!」
「営業は歩いて喋るだけ」
「その喋るのが仕事なんだ」
玲は興味なさそうに頷く。
「ふーん」
そして当然のように言った。
「マッサージしろ」
「嫌だ」
「飯作れ」
「帰ってきたばっかりだぞ!」
「風呂沸かせ」
「ボタン押せば済むだろ!」
玲はソファへ寝転んだまま、不満そうに口を尖らせる。
「使えないな」
「誰のせいだと思ってる!」
恒一は頭を抱えた。
「お前、自分で何かやろうって気はないのか?」
「ない」
即答だった。
「何で」
「やってくれる」
「誰が」
「お前」
「やらねぇよ!」
玲はじっと恒一を見つめる。
「……」
「……」
「腹減った」
「その無言の圧やめろ」
結局。
三十分後。
キッチンには、エプロン姿の恒一が立っていた。
「何で俺が……」
リビングでは玲が満足そうに待っている。
「まだ?」
「あと五分!」
昼はフリーランスの殺し屋。
夜は何もしない居候。
この頃の玲にとって恒一は、保護者でも恩人でもなく――
ただ便利な世話係だった。




