♯3ー1 読書感想文を提出してください 人事部より
私は、田村 誠一 63歳 契約社員だ。
朝の通勤電車は、いつもと変わらぬ混雑だった。
オフィスに着き、パソコンを起動して、メールソフトを開く。これもルーティンだ。
スパムフォルダに振り分けられかけていたメールが、一通、受信トレイに残っていた。送信元は、本社人事部。担当者の名前は、聞き覚えがなかった。田村が本社勤務だったのは、もう十五年以上前のことだ。
件名に「重要」とあった。
田村は、少し身構えた。人事からの「重要」メールというのは、だいたい碌なことがない。長年の経験則だった。早期退職の案内、資格取得の強制、あるいはもっと直接的な、契約条件の変更通知。どれも、送り主が「重要」と書きたがる類のものだ。
意を決して開いた。
読んで、田村は思わず目を細めた。
読書感想文、と書いてある。
テーマは自由。文字数は四百字詰め原稿用紙で最低二枚。来週中に本社人事部宛に送付すること。
田村は画面から目を離し、隣の席を見た。課長の木下が、自分のパソコンに向かって何かを入力している。三十八歳の若手エリートだ。
「木下課長、ちょっといいですか」
田村は声をかけ、メールを見せた。
「読書感想文……ですか」木下は首を傾けた。「こんな取り組み、周知来てませんね。ちょっと人事に確認してみます」
しばらくして、木下が戻ってきた。
「どうも、選ばれた人だけに送られているみたいです。目的は……わからないそうです」
目的はわからない。
田村は小さく息を吐いた。それがまた、人事らしいと思った。
「田村さん、本ぐらい読んでいるでしょう。適当に書けばいいんじゃないですか」
木下は、そう言って自分の席に戻っていった。
適当に、か。
田村は心の中で「おいおい」と呟いた。
帰宅してから、田村は書斎の古い本棚の前に立った。
棚には、現役時代によく読んだビジネス書が並んでいる。ランチェスター理論、孫子の兵法、坂本竜馬の伝記。かつての上司、安田取締役によく勧められたものだ。「坂の上の雲、読んだか」という口癖が、今でも耳に残っている。
飲み屋でロシアとどう戦うかを問われた夜のことも、思い出した。
酔った顔で田村を見据えながら、安田取締役は言った。「君ならどうする」と。あの頃の田村には、まだ答える気力があった。ランチェスターの弱者の戦略、孫子の「戦わずして勝つ」、それらを組み合わせて、自分なりの持論を述べた。安田取締役は「そうか」とだけ言って、次の話題に移った。翌朝、上司の部長が「昨夜の話、部長みたいでよかったぞ」と言ってくれた。
あの頃、職場では本の話がよくされていた。
「この本読んだ?」「面白かったよ」。そういう会話が、ごく自然に昼休みに起きた。今は違う。「このSNS見た?」「あのYouTube面白かったよ」。それが悪いわけではないが、何かが変わったことは確かだった。街から本屋が消えていく。市町村によっては、一軒も本屋がないところもあるという。
田村はタブレットを手に取った。
最近、市の図書館の電子書籍サービスで読んだものが、いくつかあった。
まず浮かんだのは『変な家』だった。宅建士の資格を取ったとき、建築基準法で散々勉強した「居室の採光要件」を思い出し、表紙を見ただけで引っかかりを覚えていた。窓のない部屋が居室として図面に描かれている。それが気になって、結局電子書籍で読んだ。家の「変さ」の理由が、まさかそういうことだったとは。なかなか読ませる一冊だった。
次は吉川英治の『新太閤記』。大河ドラマで秀吉が取り上げられていたこともあって、電子書籍で全巻読み始めた。ところが十一巻まで読んだところで、小牧・長久手の戦いの後、突然物語が途絶えた。絶筆だったらしい。「え、朝鮮出兵は?」と思わず画面に突っ込んでしまった。それ以来、感想を書く気が失せていた。
しかし、ただの感想文では面白くない。
田村はそう思った。せっかくなら、少し捻ったものを書きたい。ありきたりなビジネス書の感想を人事に送っても、何も残らない。どうせ読まれないかもしれないが、それでも。
棚の端に、文庫本が一冊あった。
背表紙には『ガリバー旅行記』とある。大学時代に買ったものだ。小学校の頃に読んだ児童向けの版とは別に、完訳版を読んだとき、田村は驚いた。あれは子ども向けの冒険物語ではなかった。ラピュタの話も、馬の国の話も、人間という生き物への、スウィフトの深い絶望と皮肉が込められていた。
田村は文庫本を手に取り、久しぶりにパラパラとめくった。




