9話_少女を着た悪魔
視線を交差させたまま、令嬢を乗っ取ったバケモノは、公爵の背中越しに俺へと向けてニタニタと笑っている。
逃げろ。本能が逃げろと言っている。
俺は床に這いつくばったまま、芋虫のような動きで開いた扉の裏から脱出しようとした。
だが。
「……お父様」
透き通るような可憐な声が、部屋に響いた。
「ん? どうしたんだい、リズ。まだどこか痛むのか?」
「いいえ。……ただ、あそこにいる方が、私を暗くて怖い夢から助けてくれたの」
静寂。
彼女が指をさした方向――扉の裏で這いつくばって必死に逃げようとしていた俺へと、公爵と騎士たちの視線が一斉に突き刺さった。
やられた……ッ!
「おお……! 君は、村長の家の?」
「え、あ、いや! 違います! 俺はただお使いで水差しを置きに来ただけで何もしていません!」
「……謙遜なさらないで。彼が、私の手を握って、不思議な力で助けてくれたの……」
リズではない、なにかが、儚げに目を伏せながら嘘八百を並べ立てる。
俺は心の中で絶叫した。
手は握ってねえよ! しかも、さっき背筋が凍るような冷たい圧で凄んでたのに、猫被りすぎだろ!
「おお! この小さな少年が、リズの呪いを退けてくれたというのか……!」
「違います、公爵様! リズ様ではな――」
俺が真実を叫ぼうとした瞬間。
公爵や騎士たちの視線が俺に釘付けになっているその死角で、公爵の腕に抱かれた令嬢が、そっと人差し指を自分の唇に当てた。
そして、その指先をゆっくりと滑らせ、自らの細い首筋を真横になぞる。
同時に、床の暗がりから這うように伸びてきた極寒の冷気が、俺の喉元へピタリと刃のように突きつけられたように感じた。
言葉など必要なかった。
――余計な口を叩けば、この場で全員の首を刎ねる。
その明確すぎる殺意のメッセージに、俺は息を呑み、開いた口をガチガチと震わせながら閉じるしかなかった。
今のこいつなら、確実にやる。俺一人が逃げて済む話じゃない。この場にいる全員が、こいつの機嫌一つで皆殺しにされる。
「よいよい、これ以上謙遜するでない」
告発を諦め、顔面蒼白になっている俺をよそに、公爵は完全に感極まっていた。愛娘の奇跡的な回復という強烈なバイアスがかかり、俺の怯えた様子すら「命懸けの看病による疲労」に変換されている。
「お父様。私、命の恩人であるあの方に、もっとちゃんとお礼が言いたいわ」
「もちろんだとも! 視察はすでにもう終えている。おい、この少年を丁重におもてなししろ! 共に領都へ連れて帰る準備だ。彼の家族にも、公爵家として莫大な礼金を用意するのだ!」
「はっ!」
「ちょっ、待っ――」
屈強な銀鎧の騎士たちに両脇をガッチリと抱えられ、俺は文字通り「拉致」された。
一か月の軟禁生活を言い渡していた母さんが、公爵から直々に金貨の詰まった袋を渡され、目を丸くしてフリーズしている姿が見えたのが、俺の故郷での最後の記憶となった。
◇
数時間後。
俺は、領都へ向かう公爵家の豪華な馬車の中にいた。
ふかふかの座席。向かいには、公爵令嬢リズがちょこんと座っている。
出発前、彼女が放った『お父様、私、恩人である彼と二人きりでゆっくりお話しがしたいわ』という天使のような一言で、あっさりとこの地獄の密室が完成してしまったのだ。
公爵は「おお、命の恩人と親交を深めたいのだな……!」と涙ぐみながら、別の馬車に乗っている。つまり、この空間には俺と彼女の二人きりだ。
「…………」
「…………」
馬車の揺れる音だけが響く。
やがて、令嬢はゆっくりと顔を上げた。
その顔から、先ほどまでの可憐な天使の面影がスッと抜け落ちる。
代わりに浮かび上がったのは、絶対的な強者としての冷酷で傲慢な笑みだった。
「さて。邪魔者はいなくなったな、少年」
可憐な少女の唇から紡がれる、先ほどまでと同じ可愛らしい声のはずなのに、口調と纏う空気がまるで違う。その悍ましいギャップに、俺の背筋は一瞬で凍りついた。
「……なぜ、あの場の全員を殺さなかったんですか」
俺は震える声を必死に抑え、尋ねた。
こいつの力なら、あの部屋にいた公爵も騎士も、一瞬で皆殺しにできただろう。
「千年も封印されていれば、外の情勢も変わろう。我が完全なる力を取り戻すまでの間、この便利な隠れ蓑を存分に利用させてもらうだけのこと」
なるほど。こいつはただの破壊衝動で動くバケモノじゃない。極めて狡猾で、理知的な存在だ。
「……じゃあ、俺を連れてきたのは?」
「決まっているだろう」
彼女の瞳が、三日月のように細められる。
深紅の光が、俺の心臓を直接射抜いた。
「君が何者であれ、封印を破壊したその妙な力……我が完全復活への鍵となるやもしれぬ。それに君には、我を解放した礼もある。すぐには殺さずにおいてやろう」
俺は豪華な馬車の天井を仰ぎ見ながら、限りなくゼロに近い己の生存確率に思いを馳せ、深く、重い息を吐き出した。




