10話_純情な感情
俺が馬車の天井を仰ぎ、重い息を吐き出すと、向かいの席で『令嬢だったモノ』が喉の奥でクスクスと笑った。
「そう絶望した顔をするな、少年。命は取らぬと、今しがた約束したばかりだろう?」
……『今すぐには』、だろ。
心の中でそう毒づくが、言い返す気力すらない。
彼女は背もたれに深く体を預け、透き通るような藤色の髪を気怠げに掻き上げた。その仕草には、大人の女性のような艶っぽい空気がまとわりついていた。
「千年の間、我はただ暗闇の底で凍えていた。だから……こうして血が巡り、息をするだけで心地よいのだ」
彼女の白い指先が自身の鎖骨をなぞり、華奢な胸元へとゆっくり滑り落ちる。
大切に守られてきたはずの清らかな身体が、内側の意志によって、見る者を当惑させるような色気を放っている。
その背徳的な光景に俺がたまらず視線を逸らすと、彼女は深紅の瞳を細め、唇を吊り上げた。
「……ふふ。分かりやすい顔をする。君がそれほど動揺してくれるのなら……この身体、いくらでも自由に使っていい」
借り物の身体すら誘惑の道具として扱うその所作に、俺の理性が揺さぶられる。
彼女はすっと身を乗り出し、俺の座席のすぐ脇に手をついた。四つん這いのような体勢で、俺の顔の真横まで近づけてくる。
石鹸の清潔な香りに、脳の髄を痺れさせるような甘い圧が混ざり合い、視界が揺れた。
逃げ場はない。リズに使った『濾過』の反動が、泥のような倦怠感となって全身にのしかかっている。俺はただシートに背を押し付けることしかできなかった。
「君が我の封印に干渉したあの瞬間……千年の虚無に、初めて他者の生きた脈動が伝わってきた。あれがどれほどの歓喜だったか、君には分かるまい」
冷たい指先が俺の頬を滑り、そのまま顎のラインをなぞって、震える俺の唇にそっと触れた。
黙らせるように、あるいは誘うように、指の腹でゆっくりと形をなぞられる。逃げられない距離で、彼女は吐息を漏らした。
「ふふ、実にかわいいやつめ。殺すなど、あまりにも惜しくなった」
彼女の顔がさらに近づく。瞬きをすればまつ毛が触れ合うほどの距離。
可憐な少女の唇が、俺の耳元を掠めるように微かに触れた。
「誰にも知られぬこの世界で、君だけが我の秘密だ」
甘い吐息が、耳の奥を直接くすぐる。
「……朽ち果てるまで、我が手の中でたっぷりと愛でてやろう、どうかな?」
命を奪われることはないと思っていいのだろうか。ただ、代わりに、得体の知れない存在から永遠に逃げられそうにない。
あまりの状況に耐えきれず、俺は絞り出すように口を開いた。
「あ、あの……」
「聞こう」
彼女は俺の限界を察したのか、面白そうにゆっくりと顔を離し、座席に座り直した。
「あなたは……何者なんですか。悪魔、とか……?」
俺の問いに、目の前の少女はふ、と短く鼻で笑った。
「悪魔、か。人間は己の理解が及ばぬものを安易にそう呼びたがる。……我が真名を教える義理はない。君が知る必要もないことだ」
「じゃ、じゃあ、なんて呼べば……」
「『わたしは、リズよ?』」
甘く舌足らずな声色が響いた。
天使のような無邪気な笑みの奥で、深紅の瞳だけが冷たく俺を観察している。
「……というわけだ。我のことは器の名で呼ぶように。くれぐれも外でボロを出さぬことだ、少年」
リズは面白がるように口角を上げ、自らの小さな手を確かめるように握り込んだ。
「……この体の本来の持ち主は、どうなったんですか」
「ほう。器の安否を気遣うか。……案ずるな。我が表層にいる間、この娘は奥底で眠っている」
「……そうですか」
「そもそも、人間どもが『不治の呪い』と呼んで恐れていたものは、我自身ではない」
「……え?」
「この娘の周囲に潜む何者かが、長年かけて少しずつ『遅効性の毒』を盛り、それが徐々に器の生命力を削っていてな」
「毒……?」
「そうだ。器が死ねば、内側に封じられている我もどうなるか分からぬ。ゆえに我は、娘を死なせぬよう、体内に溜まる毒を無理やり皮膚の表面へと押し出していただけだ」
日常的に毒を?
公爵家の内部に、あの子を暗殺しようとする者がいるということか。
いや、こいつが俺に同情させ、協力させるためについた嘘という可能性も十分にある。だが、もし真実なら、これから向かう屋敷の人間すら信用できないことになる。
本物の暗殺者と、得体のしれない偽リズとの板挟み。
俺はただ、平穏な人生を生きたいだけなのに。どうしてこんな最悪な四面楚歌に陥っているのだろうか。
「そこへ君が現れた。君は滲み出していた毒をすべて抜き去ってくれた……そして、その際、毒と絡み合っていた我の『鎖』まで一緒に引き剥がしてくれた」
「……」
誰のせいでもない。これは俺自身が始めてしまった物語だ。
「おかげで我が目覚めた。……今すぐ残りの鎖も壊させたいところだが、君の現状の能力と、この未成熟な器では、これ以上の強引な干渉に耐えきれず砕け散るだろうからな」
相手は値踏みするように俺の全身を見据えた。
「ゆえに、君には我のそばにいてもらう。そして機を見計らい、我を縛る残りの『檻』を破壊してもらう。無論、拒否権はない」
俺は重い息を吐き出した。
檻をすべて壊し、こいつが完全な力を取り戻した暁にはどうなるのだろうか。結局は、用済みとして、あっさりとこの命を捨てられる……そんな暗い未来しか想像できなかった。
やがて、馬車の速度がゆっくりと落ちた。領都の公爵邸に到着したのだ。
リズが「着いたようだな」と呟いた瞬間、馬車の中に充満していた冷気と異様な圧が霧散した。
馬車が止まると同時に、前方を行っていた馬車から降りた公爵が、弾かれたようにこちらへ駆け寄ってくるのが窓から見えた。
「おお、リズ! 長旅で疲れてはいないか?……この屋敷を出た時はあんなに苦しんでいたお前が、こうして元気な姿で帰ってこられる日が来るとはな!」
公爵が涙ぐみながら、馬車の扉を開けた。
立派な豪邸の前に整列する使用人たち。
「さあ、君も降りてくれ。我が家の恩人を、最高の礼を尽くして歓迎させてもらおう!」
公爵の熱烈な歓迎とともに、俺はメイドたちに囲まれ、屋敷の奥へと案内されていった。
公爵からは「明日、正式な晩餐会を開いてもてなそう。だが今夜は長旅で疲れただろうから、ゆっくり休んでくれ」という手厚い気遣いを受けた。
……こんな時、どんな顔をすればいいのか分からない。いっそ狂ったように笑えばいいのだろうか。
ふかふかのベッドが用意された豪華な客室で一人きりになった俺は、天井を見上げて静かに目を閉じた。




