7話_完全犯罪の綻び
「ただいまー!」
乱れた呼吸を強引に整え、俺はいつもの無邪気な五歳児という仮面を貼り付けて家の扉を開けた。
「おかえりなさい、エイル。……あら、今日はなんだか少し顔が赤いじゃない。どこまで走ってたの?」
母ミーナが、怪訝そうに俺の顔を覗き込んでくる。
鋭い。流石は我が家の生殺与奪の権を握る存在である。
「う、うん! 村の柵の周りをいっぱい走ってきたから、疲れちゃった!」
実際には、数十キロ先にある『大崖』からハーフマラソンをキメてきたばかりである。
帰路の間、あの巨大な竜の返り血、瘴気の残り香、そして見苦しい汗といった証拠を、走りながら片っ端から『濾過』して完璧に隠滅してきた。
立つ鳥跡を濁さず。
もしかしたら、これは神ギフトなのかもしれない。
仮に俺が事件を起こしても、名探偵ですら推理の糸口を掴めず、俺は犯人役の黒いシルエットにすらならずに逃げ切れるだろう。まさに完全犯罪だ。
すべては、この平穏な日常を守るため。
ここで帰りが遅れ、あろうことか「村の外まで行っていた」なんてことがバレてみろ。
禁錮一か月はくだらない。そして毎日、笑顔の奥から放たれる絶対零度の説教が待っている。
そんなの、竜の尻尾で薙ぎ払われるよりも確実に俺の精神を破壊するのだ。
「……そう」
「泥だらけじゃないから偉いわね。さあ、手を洗ってきなさい」
……危なかった。
俺は心の中で大きく安堵の息を吐き出し、洗面台で手を洗って食卓の席についた。
やがて、帰ってきた父ガルドも交えて、平和な夕食が始まった。
「ミーナ、今日のシチューも美味いな。おかわりをくれるか」
「はいはい。今温め直すから、ちょっと待っててね」
母さんが立ち上がり、大きな鍋を再び火にかける。
やがて、キッチンからは鍋がコトコトと鳴る心地よい音が響き始めた。
「……そういえばお父さん。今日、村の外で何かあったの?」
「ああ。村からかなり離れたところだが、大崖の方で恐ろしい地鳴りがしたらしい。村長の話じゃ、明日にも領主様が調査の視察にいらっしゃるそうだ。それに、ご病気の令嬢様も療養のために連れてこられるとかで、村は大騒ぎだよ」
ピタッと、俺の手が止まる。
地鳴り。間違いなく、あの腐毒竜とアルミナさんの戦闘の余波だ。
俺は、「そうなんだ」とただコクリと純真無垢に頷いてみせた。
だが、内心では滝のような冷や汗を流していた。
あの竜がどうしてあそこにいたのかは知らないが、もし調査隊が入って、俺が大崖に不法投棄した大量の赤色スライムの残骸でも見つかった日には、とんでもない騒ぎになる。
これからは、ゴミの投棄場所には細心の注意を払おう。俺はシチューを啜りながら、深く反省した。
――コンコン。
その時、家の扉が軽く叩かれた。
こんな夕飯時に誰だろうか。父はここにいるし、近所の人なら勝手に声をかけるはずだ。
母さんが立ち上がり、扉を開ける。
「はーい、こんな時間にどなたかしら」
「ミーナさん、夕食時に失礼。いやね、うちのミアがどうしてもと言うもんで……」
そこに立っていたのは、村長だった。
そしてその傍らには、俺の一つ年下の幼馴染であるミアが、バツが悪そうに俯いている。
村長が困ったように笑いながら、ミアの背中を軽く押す。
ミアの小さな手には、白く可憐な花で作られた『花冠』が握りしめられていた。それは今日の昼間、彼女が広場で俺の頭に乗せてくれた迷子防止の目印だ。
あ、いつの間に落としたんだ。すっかり忘れていた。
「……エイルにあげたもの、おちてた」
「あら、わざわざ届けてくれてありがとうね、ミアちゃん。エイル、ほら、お礼を言いなさい」
母さんの言葉に、俺は引きつった愛想笑いを浮かべて近づいた。
「あ、ありがとう、ミア! きっと、村の広場に落としちゃったのかな」
さりげなく自分の嘘を補強しようとした俺に、ミアは不思議そうに小首を傾げた。
そして、その無邪気な瞳が真っ直ぐに俺を射抜く。
「ううん。……エイルが村の門をでていくときに落としてた」
――ん、ミア……? いったい何を言い出すんだい?
「エイルが、すごい速さで森の方に走っていっちゃったからすぐ渡せなかった。ミア、おーいって呼んだのに……」
――ミア……!! ミアァァァァァァァ!!!!
完全犯罪。
証拠隠滅。
神ギフト。
先ほどまで俺の脳内でドヤ顔を並べていた単語たちが、音を立てて崩れ去っていく。
意味がない。どれだけ完璧に証拠隠滅を図ったところで、こうして目撃者が無邪気に真実を語ってしまっては、もはや盤面は完全にチェックメイトである。
「行きの時点で村を出る姿を見られ、さらに不意に落とした小物という物理的な証拠を残す」という、あまりにもアナログで単純な事実に敗北したのだ。
俺の平穏な生活は、ここで終わった。
……まだだ、まだ終わらんよ!
まだ誤魔化せる余地はあるのではないか? 名探偵ミアが見たのはあくまで「村を出た」ところまでであり、行き先が『大崖』だという証拠はない。
ならば、ギリギリでしらばっくれることは可能……。
「……あら? エイル」
俺はゆっくりと、錆びたブリキのおもちゃのように首を回す。不可能だ。
そこには、シチューのお玉を握りしめたまま、般若のような笑みを浮かべる母ミーナの姿があった。
部屋の温度が急激に下がった気がする。いや、実際に母の背後から氷点下のオーラが立ち上っているのではないか。静まり返った室内で、温め直されている鍋がコトコトと鳴る音だけが、やけに大きく響いている。
背後で父ガルドが視線を逸らしているのが見える。
頼むよ父さん、助けてくれ。……って、なんで目を逸らしながらこっそり後ずさりしてんだよ! 見捨てないでくれ!
「村の柵の周りを走っていただけ……だったわね? でも、ミアちゃんは村の門の外、それも森へ向かうエイルを見かけたと言っているわ」
「あ、あはは……。ちょっと、珍しい蝶々を追いかけてたら……」
ピタリ、と母の笑顔の奥の目が、一切の光を失った。
「どこまで行ってたの?」
逃げ場はない。
俺の神ギフト『濾過』は、どれだけ汚れや毒素を消し去ることはできても、無邪気な子供の純粋な記憶と、激怒した母ミーナの怒りを消し去ることだけはできなかった。
うーん、やっぱりハズレギフトだ。




