4話_初めての成功体験
最弱の魔物であるスライムにすら敗北したという事実は、俺に『絶対的な死の恐怖』を叩き込むには十分だった。
それから数日間、俺は自室に引きこもり、出口のない暗い思考の渦に沈んでいた。
どうすればいい? このまま地道な筋トレを続けるか?
いや、駄目だ。骨格も筋肉も未成熟なこの体が、十分育つまであと何年かかる?十年か? 十五年か?
もしその間に、森の凶悪な魔物やタガの外れた狂人が村を襲撃してきたら?
抗う術を持たない俺は、ただ無力に蹂躙されるのを待つしかないのか。
……冗談じゃない。
暗い部屋の中でギリッと歯を噛み締めたその時、俺の脳裏に『仮説』が浮かんだ。
待てよ。屈辱の敗戦時に感じた、あの奇妙な感触。
スライムという魔物は、強固な皮膚も骨格も持たず、その表面は、むき出しの『液体』そのものだったはずだ。
ならば――表皮を持たない、純粋な水分の塊であるスライムに直接触れれば、あいつの体そのものを、『濾過』の対象として干渉することができるのではないか?
翌日。俺は決死の覚悟を胸に、再び薄暗い森へと足を踏み入れた。
やがて茂みを揺らし、因縁の魔物――スライムが這い出てくる。
恐怖で震えそうになる自分の細い腕を必死に押さえつけ、俺はそのぷよぷよとした体へと、自ら素手を突き入れた。粘性の冷たい感触が肌に絡みつく。
こいつを構成するすべての『水分』を、跡形もなく消し去るイメージで……ッ!
「……『濾過』!!」
全開にして放つ。
直後、スライムの体は一瞬にして消失したのだ。
静まり返った森の中で、俺は自らの震える手を見つめる。
……勝てた。
と思ったと同時に、胸の奥に激痛が走る。スライムってただの水の固まりじゃないのか……?
桶の水を浄化した時とは明らかに違う、脳が焼き切れるようなこの負荷。
きっとスライムの体は単なる水ではなく、『魔力によって変質した水』なのだ。
それを無理やり処理した代償が、この耐え難い苦痛というわけだ。
俺は地面をのたうち回り、歯を食いしばって痛みが過ぎ去るのを待った。
痛みが引き、地面にピンポン玉ほどの硬い魔石が残されていることに気づいたのは、すでに夕日が沈みゆく頃だった。俺は震える足で立ち上がり、なんとか帰路についた。
家に着くや否や、母ミーナがすごい剣幕で迫ってきた。
「エイル、お昼ご飯も食べず、どこまで行っていたの!!」
「虫捕りしてたら、夢中になっちゃった」
俺は、翌日も森へでかけた。
自身の成長のため、この痛みの先に進むしかない。
そう決意し、スライムに『濾過』を行う。激痛に耐える覚悟を決めて、鋼の意志で飲み込む。
……昨日ほど痛みがない。次だ。
『濾過』を発動するたびに走る鋭い痛みは、数をこなすうちに少しずつ鈍いものへと変わっていくのを感じた。
「なら、ここは量で勝負だ」
俺は、渋谷駅で大量の改造人間を祓うがごとく、森中のスライムを片っ端から仕留めて回った。
今日最後と決めたスライムを発見し、仕留めようと近づく。
すると、そいつは地面に放置されていた別のスライムたちの魔石の核を自らの体内に取り込み、ブクブクと不気味な泡を立て始めた。
そして、元の青色から毒々しい緑色へと、その姿を変異させたのだ。
俺を見つけると緑色の粘液をビュッととばしてきた。
間一髪で避けると、後ろにあった木の幹にあたり、ジュゥゥゥッと溶ける音がした。
……おいおい、あんなの食らったら一巻の終わりだ。服を溶かされるどころか、自分の体も持っていかれる。
倒すには、直接触れて無力化するしかない。
だが、相手は触れた端から木の幹を溶かすほどの強酸だ。
俺の柔いお肌など、普通に触れれば一瞬で骨まで溶かされてしまうだろう。
俺は決死の覚悟で手を伸ばし、迫り来る緑色へと自らの手のひらを押し当てた。
手が溶かされるよりも早く……触れたそばから『濾過』してけ……!!
直後。
「ガ、アアアァァァッ!?」
全身の血管に直接熱湯を流し込まれたような激痛。
これは、ただの魔力を含んだ水だけではなく、自分を溶かそうとする『強烈な酸』をも処理したことによる桁違いの代償だった。
足元で緑色の水分が完全に弾け飛び、カランと硬い魔石が落ちる音だけを確認すると俺は視界が明滅する中、なんとかその場を生き延び、這うようにして森を抜けた。
そして、村の入り口が見えたところで必死に深呼吸をし、震える足に無理やり力を込めて、何事もなかったかのように平静な足取りを偽装した。
「エイル、今日はどこに行っていたの? 泥だらけじゃない」
パン生地の香りをさせた母ミーナが、怪訝そうな、それでいて慈愛に満ちた表情で迎えてくれる。
「ちょっと、村の柵の周りを走ってきただけだよ。丈夫な体になりたいから」
俺はそう言って、薪のような父ガルドの腕に抱き上げられながら、平然とした顔で笑ってみせる。
内臓が焼けるような痛みを、微かな表情の崩れすら見せずに。
その日を境に、俺の狂気的な修行が始まった。
見つけたスライムに乱獲しておいた同族の核を無理やり大量に喰わせるのだ。
同族の核を強制的に摂取させられたスライムは、ブクブクと変異して緑色のスライムへ姿を変えていく。
そして、緑色のスライムになった瞬間にその強酸の体に『濾過』を発動し、干からびた本体の核を踏み砕いて息の根を止める。
激痛にのたうち回りながらも、この一連の作業をひたすら繰り返すのだ。我ながら極悪非道すぎる。
もしスライム界にネットワークがあったなら、間違いなく『全スライムの怨敵』として世界中から命を狙われることになるだろう。
許せ、スライム……また明日な。などと心の中で呟きつつ、俺は翌日も無慈悲に緑色のスライムを「養殖」し続けた。
これを処理する反動を耐え抜いてこそ、この異世界で安息を手に入れることができる。そう信じて。
控えめに言ってクレイジーだと思うが、俺にはこれしかない。
――結局、俺がこの緑色のスライムの毒に慣れるまでに半年。
さらに、その緑スライムに同族(緑)の核を無理やり喰わせて変異させた、より凶悪な『赤色』のスライムが放つ猛毒の激痛が完全に落ち着くまで、実に一年半。
合計二年もの月日を、俺はこの狂気的な自作自演に費やすことになるのだった。
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