斥力の少女 第二章
玄関のドアを閉めた瞬間、佐々木玲子は大きく息を吐いた。靴を脱ぎ、電気もつけないまま壁に背を預ける。静かだ。さっきまでの喧騒が嘘みたいに遠い。
(……長い一日だった)
昼間は事務所で立花と話していた。夏葉のストーカーの件。証拠も決定打もない。それでも「嫌な予感」だけは確かにあった。
そして連絡が来た。
――いま、ストーカーが居る。見られている。
あの短いメッセージを玲子は何度も思い出す。文字だけなのに怖さがはっきり伝わってきた。
立花が現場に向かい、自分も近くまで行って顔を出さずに様子を見た。
結果的に男は刃物を持っていた。捕まった。それだけなら「よくある一件」で終わったはずだった。
「……はずだったのに」
玲子はリビングのソファに腰を下ろしスマホをテーブルに置いた。画面には今日一日の着信履歴が並んでいる。
ストーカー逮捕。
ひと安心。
その直後――交通事故。
フロントガラスが割れ、
車の前方は大破、
人が弾き飛ばされ、
それでも、
誰も大きな怪我はない。
(たまたま……なのかしら)
玲子は額に手を当てる。警察としても事務所としても説明はついている。
暴走車による事故――
でも、あの場にいた全員が「何かおかしかった」と感じている。一体あの車は何にぶつかって大破したの?
そして夏葉といた女の子。
(美礼って言ったかしら……)
彼女の姿を玲子は思い出す。事故の直後、夏葉と美礼は現場に立ちすくんでいた。暴走車に弾き飛ばされるわけでもなく、怪我もなく。
(……どういうこと?)
誰に聞くわけでもない問いが胸の奥に沈んでいく。
今日はこれ以上考えるには疲れすぎた。玲子はスマホを裏返した。
部屋は静かだった。
美礼はローテーブルの前に座り両手で湯のみを包み込んでいる。湯気の向こうで淡い緑色の液体がゆっくり揺れていた。
よもぎ茶。
少しだけはちみつを入れる。
甘すぎるのは苦手だけど、このくらいなら体が受け入れてくれる。
ひと口、飲む。
(……落ち着け)
胸の奥がじんわりと温まっていく。力を使ったあとのざわついた感覚が少しずつ引いていくのが分かる。
――拒絶した。
考えるより先に体が動いた。
突然突っ込んできた車を、
「来ないで」と全力で思ってしまった。
(制御……できなかった)
いつもはもっと小さく。
半径数メートル。
人が近づかない程度で済ませていたのに。
あのときは違った。
夏葉の手の温度。
強く握られた感触。
(……吹っ飛ばしちゃった)
つむぎも。
寿々も。
思い出すたびに胸がきゅっと縮む。
(……あやまらないと)
でも。
(怪我、なかった)
それだけが救いだった。
湯のみを置き、美礼は深く息を吐く。
拒絶したのは車だけじゃない。
“近づくもの全部”を押し返した。
この力は、守れるけど、
同時に遠ざけてしまう。
(……私、できるのかな? 誰かを選んでの……)
来ないでと思う相手。
守りたいと思う相手。
静かに目を閉じて、何もない時間にただ身をゆだねていく……
よもぎ茶はもうぬるくなっている。
それでも、美礼は残りを飲み干した。
(大丈夫)
誰に言うでもなく、心の中でそう言う。
大きな怪我はなかった。
誰も失っていない。
今はそれでいい。
美礼は湯のみを洗い部屋の明かりを少し落とした。
明日もきっと普通の日だ。
そう思いたかった。
翌日の午前中。事務所のデスクで書類に目を通していた玲子のスマホが震えた。画面に表示された名前を見てすぐに出る。
「……立花?」
『おはよう。昨日の件、少し分かったことがあってさ』
その声は落ち着いているが、用件が軽くないことは伝わってくる。
「ストーカーの男?」
『ああ。身元、割れた』
玲子はペンを置き、椅子の背にもたれた。
「で?」
『元・カメラマンのアシスタント。雑誌の撮影現場で何度か夏葉さんと一緒になってる』
玲子は短く息を吐いた。
「……やっぱり、業界の人間」
『正確には“業界の端っこにいた人間”だな』
立花の言葉は必要以上に感情を含まない。
『本人の供述によるとさ。撮影の合間にちょっとした会話をするのが楽しみだったらしい』
「ちょっとした会話?」
『挨拶とか、天気の話とか。夏葉さんがモデルとして来てた頃、数分だけ』
玲子の眉がわずかに寄る。
「……それだけで?」
『本人にとっては“それだけ”じゃなかった』
電話の向こうで紙をめくる音。
『夏葉さんがドラマに出るようになって雑誌の撮影に来なくなっただろ』
「ええ」
『そこからだ。
“自分だけが知っている存在だったのに”
“遠くへ行った”
“奪われた”
……そんな言葉が出てくる』
玲子は目を閉じた。
「典型的ね」
『典型的だな。悪意より歪んだ執着』
「でも、刃物を持ち歩いてた」
『ああ。本人は“護身用”って言ってる』
「信じられる?」
『信じる必要はない』
立花の声が少しだけ低くなった。
『結果として危険だった。それで十分だ』
玲子は机の上のカレンダーを見つめた。夏葉の次の仕事の予定が赤で書き込まれている。
「……夏葉は?」
『事情聴取は最小限にする。直接の接触はもうない』
「そう……」
一拍、間が空く。
『なあ、玲子』
「なに?」
『昨日の事故、関係あると思うか』
玲子は即答しなかった。
「……警察的には?」
熱いコーヒーを買った女性が運転席でそれをこぼしてしまい「熱い!」と伸ばした足がアクセルを踏み込んだ、というような調査結果だった。
『今のところは単独の交通事故』
「じゃあ、それが“答え”よ」
そう言いながらも、玲子の胸には昨日の光景が蘇っていた。中心から全てが弾き飛ばされた空間。
『だよな』
立花はそれ以上踏み込まなかった。
「ありがとう立花。教えてくれて助かった」
『いや。仕事だ』
通話が切れる。
玲子はスマホを置き窓の外を見た。昨日と同じように街は平然と動いている。
(感情がこじれただけ)
そう言えばすべて説明できる。説明できてしまうことが逆に怖かった。
昼休みの校舎裏は昨日と変わらない空気に包まれていた。ベンチに腰掛けながら寿々が大きく伸びをする。
「はー……なんか、ほんとに何もなかったみたいだね」
「ね」
つむぎも頷く。
「ニュースも見たけど、交通事故のことどこにも出てなかった」
「『女優・夏葉、事故!』とか出たらどうしようって、ちょっと思ってたけどさ」
「全然だったね」
寿々が肩をすくめる。
夏葉は少し遅れて息を吐いた。
「……ストーカーの件も」
「うん」
つむぎがすぐに言葉を継ぐ。
「捕まってよかったよね。ほんとに」
「刃物持ってたって聞いたとき、正直ゾッとした」
寿々が腕をさすりながら言う。
「何もされなくてよかったし、もう追いかけてくることもないんでしょ?」
「うん。事務所の人も警察の人もそう言ってた」
夏葉はそう答えながら、自分の声が思ったより落ち着いていることに気づいた。
「……普通に生活できるってありがたいね」
「ほんとそれ」
つむぎが苦笑する。
「昨日まで帰り道が怖いとかあんまり考えたことなかったし」
「私も」
寿々が頷く。
「だからさ」
寿々は急に明るい声を出した。
「とにかく無事でよかった!
ストーカーも捕まった!
事故も大事にならなかった!」
「まとめると、それだね」
つむぎが笑う。
夏葉もようやく笑顔を見せた。
「……ありがとう。二人とも」
「なに言ってんの」
「当たり前でしょ」
三人の会話は、そこで自然に別の話題へ移っていった。
その夜。寿々はベッドに寝転がりなんとなくスマホを眺めていた。
指が勝手に画面を滑る。
動画、動画、動画。
「……ん?」
ふとスクロールが止まった。
画面いっぱいに映っているのは見覚えのある交差点。交通事故の現場。人だかり。
(これ……昨日の)
寿々は体を起こし音量を上げた。
どうやら近くのマンションかビルの高層階から撮られたものらしい。少し俯瞰気味の映像で現場全体が見渡せる。
次の瞬間。
「……え」
寿々の喉からかすれた声が漏れた。
画面の中央。二人の人物を中心にくっきりとした円形の“何もない空間”が映っている。
車が止まった位置も、
人が倒れた位置も、
不自然なほど円の外側だ。
「なに、これ……」
コメント欄が目に飛び込んでくる。
《マジか!?》
《フェイクだろ? こんなこと起きるわけない》
《CGにしては雑じゃね?》
《宇宙人だろこれ》
《ミステリーサークルじゃん》
《中心の二人、誰?》
寿々は思わずスマホを伏せた。
(……バレてる)
いや、正確には――
見られている。誰が何をどこまで理解しているのかは分からない。
「……つむぎ」
寿々は迷わず通話ボタンを押した。
『もしもし?』
いつもの声。それだけで少しだけ安心する。
「ねえ、つむぎ……今、SNS見てる?」
『ん? いや、全然』
「見ないでって言いたいけど、たぶんもう回ってくる」
『なにが』
寿々は息を吸った。
「昨日の事故。現場、撮られてる」
『……は?』
「上から。しかも……円、円形に私たち吹っ飛ばされてる」
電話の向こうで、沈黙。
『……冗談、だよね』
「だったらよかったんだけど」
寿々は動画をもう一度再生する。
「コメントすごいよ。フェイクだの宇宙人だのミステリーサークルだの」
『……信じてる人、いる?』
「今のところは半々くらい」
『半々って……十分じゃん……』
つむぎの声が少し低くなる。
「ねえ、これ……」
寿々は言いかけて言葉を切った。
「美礼、関係あるよね」
『……』
肯定も否定もない沈黙。
「どうする?」
寿々の問いに、つむぎはすぐには答えなかった。
『……まず、誰にも言わない』
「うん」
『夏葉にも、まだ』
「分かった」
二人は同じことを考えていた。
“知られ方”を間違えたら取り返しがつかない。
『寿々』
「なに?」
『……昨日、すごい体験をしたんだよね。私たち』
「うん」
『だから、もう戻れない』
寿々はスマホを握りしめた。
「だね」
ただの“噂”になるか、
“始まり”になるか。
それはもう自分たちだけの問題じゃなかった。
玲子のスマートフォンが机の上で短く震えた。通知ではない。メールでもない――電話だ。
「はい、佐々木です」
落ち着いた声を意識して出たが、相手の名乗りを聞いた瞬間胸の奥がわずかにざわついた。ウェブメディアの記者。昨日とは別の媒体。似たような用件だった。
――事故現場を映した動画について確認を取りたい。
――あの映像は本物なのか。
――映っている人物はもしかして。
玲子は同じ言葉を繰り返す。
「現時点では事実関係を確認できていません。コメントは差し控えさせてください」
電話を切っても今度はメールが入る。件名の並びが嫌でも現実を突きつけてくる。
【事故映像についての確認】
【SNS動画の件】
【夏葉さんの関与について】
事故現場の動画が流れている。それを「噂」ではなく「問い合わせ」という形で知った瞬間に玲子は背筋を正した。これはもう個人の好奇心じゃない。嗅ぎつけた人間が動き始めている。
「……見るしかないわね」
玲子は送られてきたリンクを開いた。再生時間は五十秒にも満たない。高層階からの映像。やや手ブレはあるが画質は悪くない。夕方の交差点。見覚えのある街灯、歩道、標識。
――間違いない。
あの日のあの場所だ。
再生が進む。
人影が映る。
数人の少女と大人の女性。
そして――
「……なに、これ」
思わず声が漏れた。
円形だった。
はっきりと。
異様なほどくっきりと。
歪みのない円。
人も、物も、まるで見えない壁に弾かれたようにその外側へと飛ばされている。
そして、その中心に――
「……」
息が止まる。
夏葉がいた。あの瞬間、確かにそこにいたはずの自分や他の人間はすべて外へ。中心には二人の女子高生。
――私たちは吹き飛ばされた?
映像を見ながらあの時の感覚が蘇る。車に撥ねられた衝撃ではなかった。何かに押し出されたような強い圧。それなのに痛みがなかった。怪我もなかった。
「……そういう、ことだったの」
玲子は知らず知らずのうちに拳を握りしめていた。不思議に思っていた。あんな暴走車が突っ込んできたのに誰一人かすり傷ひとつなかったこと。でも、考えないようにしていた。無事だった。それでいい、と。
――でも、現実は。
思考が追いつかない。理屈も、説明も、常識も、すべて置き去りにされる。
再生を止めようとしてふとコメント欄が目に入った。
《マジで何これ》
《フェイクでしょ?》
《物理法則どうなってんの》
《ミステリーサークル?》
《宇宙人案件》
――そして。
《真ん中のひとりは夏葉ちゃん?》
《なんか似てない?》
《ドラマ出てる子だよね》
「……え?」
背中に冷たいものが走る。
気づかれている。事故に遭ったことそのものだけじゃない。円の中心に夏葉がいたという事実に。
事故はバレたらバレたで仕方ない。どこかでそう腹を括っていた自分もいる。
でも――
こんな形で?
説明不能な現象の中心に?
「……ダメ」
噂が想像できてしまう。能力者だの、超常現象だの、宇宙人だの、どれも夏葉を“人間”として扱わない言葉ばかりだ。
守らなきゃ。
理由は分からない。
正体も分からない。
でも、
放っておけない。
玲子は深く息を吸いスマートフォンを伏せた。
「……何とかしないと」
それは事務所の人間としての判断であり、同時に、あの場にいた一人の大人としての切実な本音だった。
夜も遅くなり事務所の照明は必要最低限だけが点いていた。玲子はデスクに座ったままスマートフォンを握りしめている。誰に相談すればいいのか分からないという感覚が、こんなにも心細いものだとは思わなかった。
少し迷ってから玲子は立花の番号をタップした。
「……もしもし立花? 夜遅くにごめん」
『いや、大丈夫だ。どうした』
声を聞いた瞬間、張りつめていたものが少しだけ緩む。玲子はできるだけ事務的な口調を保ちながら説明した。
「今日、事故現場の動画がSNSで拡散してるって記者から連絡が入ってる。電話とメールでもう数件。あの事故後の映像は本物ですか、って」
『……来たか』
立花の声がわずかに低くなる。
「私もまだ全部確認できてないから“現時点では事実関係を把握していない”って返してる。でも、これ以上増えたら誤魔化しきれない」
『警察にも問い合わせは来てるらしい』
「え、そうなの?」
『俺が直接受けてるわけじゃないけどな。事故そのものじゃなくて“変な動画が出回ってる”ってやつだ』
玲子は思わず息を吸い込んだ。警察にまで話が行っているなら沈静化は簡単じゃない。
「……どうしたらいいと思う?」
円形のこと。人が弾き飛ばされた後のように見えるあの異様な光景。それについてはまだ口に出せなかった。
電話の向こうで立花が少し考える間があった。
『実はな』
「うん」
『警察にも、表には出ないが“SNS対応専門”みたいな連中がいる』
「そんな部署が?」
『正式な名前は色々だがな。正直、使えないことも多い』
立花は苦笑するような気配をにじませて続けた。
『ただ、そいつらが裏で使ってる民間の会社が一社だけある。炎上対策とか拡散経路の分析とか、そういうのを専門にやってるところだ』
「……削除とか、できるの?」
『万能じゃない。だが、少なくとも“どう広がるか”“どこを押さえるべきか”は読めるだろう』
玲子はゆっくりとうなずいた。今必要なのは魔法みたいな解決策じゃない。これ以上事態を悪化させないための現実的な判断材料だ。
「そこに相談できる?」
『ああ。俺から話を通す。表向きは“事故映像に関するデマ拡散対策”って形でな』
「ありがとう、立花……助かる」
『まだ何も解決しちゃいない。だが、動かないよりはマシだ』
通話が終わり、玲子はスマートフォンを机に置いた。円形のことはまだ胸の奥に沈めたまま。まずはこの状況を止める。それができなければその先を考えることすらできない。
立花に電話をしてからまだ数日も経っていないはずだった。それなのに状況は目に見えて変わり始めていた。
最初に玲子が気づいたのは例の動画の「コメント欄の空気」だった。事故現場を映したあの円形の動画。数日前までは「本物だろ」「消される前に保存した」「これヤバいやつじゃない?」と、妙に真剣な声が多かった。
ところが――。
次に流れてきた動画では、円の中心に夏葉と、明らかに別のアイドルが二人並んでピースをしている。
その次は、まったく別の芸能人。
さらにその次では、銀色の身体をした宇宙人が真ん中で手を振っていた。
「……なに、これ」
思わず声が漏れる。
どれも構図は同じ。
上からのアングル、円形、周囲に吹き飛ばされる人影。
でも中心だけがあからさまにおかしい。
コメント欄もすっかり様変わりしていた。
《雑コラすぎて草》
《はいはい、ミステリーサークルね》
《次は恐竜で頼む》
《元ネタどれだよw》
玲子は少し遅れて理解した。
「……これが立花の言ってたやり方か」
削除はできない。なら、意味を壊す。本物かもしれないという“緊張”そのものを笑いに変えてしまう。
立花がつないだSNS戦略の会社がどうやら動いてくれたらしい。出来のいいものからわざと雑なものまで。本気で信じる気を失わせる数を短期間で一気に投下している。
結果ははっきり出ていた。
ニュースサイトも、SNSも、この話題から距離を取り始めた。
「出どころ不明のフェイク動画が拡散」と、扱いは一段下がる。
追いかけても数字にならない、と判断されたのだろう。
事務所への問い合わせも目に見えて減った。来たとしても玲子はもう迷わない。
「動画は確認しましたけどフェイクですね」
そう言うと、相手の記者も「ああ、やっぱり?」と、どこか拍子抜けした声を出す。それ以上踏み込んでくることはなかった。電話を切ったあと玲子はデスクに深く腰を下ろした。胸の奥に溜まっていたものがようやく少し抜けていく。
「……立花、ありがとう」
誰に聞かせるでもなく呟く。
完全に消えたわけじゃない。元の動画もネットのどこかには残っているはずだ。それでも――
「これは本物だ」と騒ぎ立てる空気は確実に壊れた。
玲子はスマートフォンを伏せ、目を閉じた。
今はこれでいい。
美礼の家は郊外にあった。駅から少し歩いたところに並ぶ背の高くない一戸建て。庭先には季節外れの鉢植えがいくつか置かれている。
「……ほんと、普通のおウチだね」
寿々が小さな声で言うと、美礼は少しだけ照れたように笑った。
「うん。父は会社員で母はパート。私が学校から帰る時間はだいたい誰もいない」
玄関を上がりリビングに通される。テレビ、ローテーブル、壁に掛かったカレンダー。どこにでもありそうな光景が逆に落ち着く。
四人でソファと床に分かれて座ると少しだけ沈黙が落ちた。その沈黙を破ったのは美礼だった。
「……今日は、来てくれてありがとう」
膝の上で手を握りしめたまま視線を落とす。
「どうしても、ちゃんと話したくて」
つむぎと寿々は何も言わずに頷いた。
夏葉も静かに美礼を見る。
「事故のとき……」
美礼の声がほんの少しだけ震えた。
「私、咄嗟に“来ないで”って思っちゃって……
それで、つむぎ先輩と寿々先輩も、吹き飛ばして……」
顔を上げまっすぐに二人を見る。
「本当に、ごめんなさい」
一瞬、つむぎと寿々は顔を見合わせてからほぼ同時に首を振った。
「え、いやいや」
「全然! マジでかすり傷ひとつなかったし」
「それにさ」
つむぎが少し困ったように笑う。
「あの状況であれがなかったら、たぶん……」
言葉を途中で止める。それ以上は言わなくても伝わった。
美礼はそれでもまだ納得できないような顔をしていたが、そこに寿々が少し言いづらそうに口を開いた。
「……あのさ」
スマートフォンを手に持ちながら。
「実は言えてなかったことがあって」
美礼が顔を上げる。
「あの事故のあと、現場の動画がSNSに流れてた」
「……え?」
「上から撮ったやつ。円がちゃんと映ってるやつ」
美礼の目がわずかに見開かれた。
「知ってたけど……言えなかった」
「ごめん」
つむぎも申し訳なさそうに付け足す。
「ただ、今はね」
寿々が続ける。
「似たようなフェイク動画がめちゃくちゃ出てて。芸能人が真ん中でピースしてたり宇宙人がいたり」
「完全にネタ扱い」
「たぶん、もう誰も本気で信じてないと思う」
夏葉がその話を聞きながら静かに頷いた。
「……もしかしたら、事務所が何か手を打ってくれたのかも」
美礼は少し間を置いてから言った。
「……その動画、見てもいい?」
寿々は一瞬迷ったが、頷いてスマートフォンを操作した。
「これ」
画面に映し出されたのはあの日の交差点。上空からの視点。そして――
はっきりとした、円。
美礼は息をするのを忘れたように画面を見つめた。
「……ほんとに……円だ……」
自分を中心にきれいな形で広がる空間。思っていたよりもずっと大きい。
「……私、こんなふうに……」
声が小さくなる。
「何となく広がってるとは思ってたけど……こんな風に見えるなんて……」
胸の奥がざわつく。
「これ……人を、傷つける力だよね……」
不安が言葉になってこぼれ落ちた。
すぐにつむぎが首を振る。
「でも誰も怪我してない」
「うん」
「私たちも。車の人も」
寿々がはっきりと言う。
「結果だけ見たら全員守られてた」
(車の人はエアバッグが守ったかな?)
夏葉も静かに続けた。
「少なくともあのときは」
美礼はもう一度動画を見たあと、そっとスマートフォンから視線を外した。
まだ怖さは消えていない。でも――
独りで抱え込んでいたときよりも胸の中は少しだけ落ち着いていた。
この力が何なのか。
どう向き合えばいいのか。
答えはまだ分からない。
それでも、今はここにいる四人で同じものを見た。それだけで少しだけ前に進めた気がしていた。
時計を見るともう夕方になっていた。窓の外の光が少しずつオレンジ色に傾きリビングに長い影を落としている。
「そろそろ、帰ろっか」
寿々が言い、みんなも頷いた。靴を履こうと玄関に向かったそのときだった。ガチャ、という音と一緒に玄関のドアが開く。
「ただいまー」
聞き慣れた声に美礼がはっと顔を上げた。
「……お母さん」
パートから帰った母親が玄関に立っていた。そして、そこに並ぶ見慣れない靴を見て目を丸くする。
「あら?」
リビングから出てきたつむぎたちと目が合った瞬間、さらに驚いた表情になる。
「……美礼?」
「う、うん。先輩……」
美礼の声は少しだけ小さかった。一瞬の沈黙のあと、美礼の母の顔がふっと緩んだ。
「まあ……!」
驚きよりも先に喜びがあふれたような声だった。
「お友達が来てくれてたの? よかった……本当によかった」
つむぎたちは思わず背筋を伸ばした。
「いつも学校から帰ると一人でね……お友達を連れてくることなんてほとんどなかったから……」
母は少しだけ言葉を詰まらせ、それから深く頭を下げた。
「この子、ずっと一人ぼっちで……どうか、これからも仲良くしてあげてください」
美礼が慌てて首を振る。
「お母さん……!」
つむぎはにっこりと笑った。
「大丈夫です。もう大切な友達なので」
「ね」と寿々が続ける。
「それにさ」
つむぎが美礼の方を見る。
「これからは、先輩とかいらないよ」
「名前で呼び合おう」
夏葉も静かに頷いた。
「うん。夏葉でいいよ」
一瞬、時間が止まったように感じた。
「……友達……」
その言葉を心の中でそっとなぞる。胸の奥がじんわりと温かくなる。くすぐったくて少し照れくさくて。
でも――とても嬉しい。
今まで人を避けてきた。近づかれないように無意識に距離を作ってきた。
でも、今は。
「……ありがとう」
小さく言うとつむぎと寿々が笑った。美礼の母は、そんな様子を見て目を細めていた。
大分県宇佐市。山に囲まれた一角に宇佐大学・自然科学研究センターはあった。観光パンフレットに載ることもない地味な研究施設。その中でも、長峰博士の研究室は少しだけ異質だった。
超自然現象。
未解明エネルギー。
数式にできない現象をできるだけ科学の言葉で拾い上げようとする場所。
――そして今、その入口に思いがけない形で“資料”が届こうとしていた。
◇
「……だからさ、もういいんだって」
研究センターから少し離れた喫茶店で村田はコーヒーを前に座っていた。向かいにいるのは大学時代からの友人・坂上だった。
「すごい動画が撮れたと思ったんだけどさ。結局全部フェイク扱いだよ」
坂上はどこか投げやりに笑った。
「宇宙人だのミステリーサークルだのってさ。もう誰も本気で見ちゃいない」
村田は黙って聞いていた。
「でもな」
坂上は少しだけ声を落とした。
「……あれ、本物だから。オレほんとに撮ったから」
冗談でも強がりでもない声だった。
「偶然だよ。マンションの上から撮ってたらたまたま事故があって……そのあと変なことが起きた」
一瞬、言葉を選ぶように間を置いてから坂上は続ける。
「村田さ、お前こういうの研究してるだろ? エネルギーとか変な現象とか」
村田はゆっくりと顔を上げた。
「……まあ、そうだけど」
「だったらさ……研究材料でも取材でも、何でもいいから使ってくれ」
坂上は苦く笑う。
「オレはもう関わりたくない。ウソつき扱いされるの正直キツいんだ」
そう言ってスマートフォンをテーブルに置いた。
「元データ、全部入ってる。編集も加工も一切してない」
村田はそれを見つめたまましばらく動けなかった。
「……いいのか?」
「ああ。この真実はお前に任せる」
◇
研究センターに戻った村田はさっそく自室の端末にデータを移した。
再生ボタンを押す。
画面に映るのはどこにでもあるような交差点。
少し揺れる高所からの映像。
そして――
「……なんだ、これ……」
思わず声が漏れた。
事故現場? 円?
あまりにも明確な円形の空間。
ノイズでも圧縮の歪みでもない。風の流れともレンズの錯覚とも説明がつかない。
フレームを止める。
拡大する。
時間軸を前後させる。
「……エネルギーの……拡散……?」
村田は背中に冷たいものが走るのを感じた。
これは――
ネットで少し見たあの“フェイク動画”とはまったく別物だ。
「……長峰先生にすぐ伝えるべきか……」
椅子にもたれ天井を見上げる。
あるいは、ひとまず自分でもう少し調べてからか。中途半端な解析で持ち込めば「面白いが偶然だろう」で終わるかもしれない。
だが、直感が告げていた。これは偶然ではない。
玲子の事務所の応接スペースには少しだけ緊張した空気が流れていた。ソファに並んで座るのは、夏葉、つむぎ、寿々、そして美礼。
「……改めて、今日はありがとう」
向かいに座る玲子が静かに切り出した。仕事用のきりっとした表情だけれど、その目にはどこか迷いが混じっている。
動画騒ぎが落ち着いた、まさにそのタイミングで入った一本の連絡。宇佐大学・自然科学研究センター。記者でも週刊誌でもない学術機関からの問い合わせ。
――それだけで十分に異常だった。
玲子は電話口でいつものように言った。
「あの動画はフェイクです」
けれど、相手の研究員・村田は引かなかった。
「あの中心にいたのは御社の女優・夏葉さんですよね?」
その一言が玲子の中に引っかかっている。原因は夏葉じゃない。あの場にいたもう一人――美礼。
その確信めいた感覚がずっと消えなかった。
「……まずは、自己紹介からお願いしようか」
そう言われて三人は顔を見合わせる。
「えっと……つむぎです。夏葉の……友達です」
「寿々です。私も友達」
「……美礼です。ひとつ下です……友達……です」
言い方はぎこちないけれど“友達です”という言葉だけははっきりしていた。玲子はそれを聞いて少しだけ表情を緩める。
「そう。ありがとう」
そこからしばらく沈黙が続いた。誰が何から話せばいいのか分からない。
その沈黙を破ったのはつむぎだった。
「あの……私、最初に変だなって思ったのは事故の時じゃなくて……」
玲子が顔を上げる。
「学校で。教室の窓から見てたんです。美礼が校門を入ってきた時……」
つむぎは言葉を探しながら話した。
女の子の周囲に見えない円があるみたいだったこと。
小さな円がゆっくり広がっていくように感じたこと。
「避けてる、って感じじゃなくて……自然に距離ができてて」
寿々も頷きながら続ける。
「ストーカーの人の時も……もしかしたらたぶん同じ。近づけなかったんじゃないかなって」
「それって……」
玲子は思わず身を乗り出す。
「意図的にやってる、ってこと?」
全員の視線が美礼に集まった。
「……わからないです」
「ストーカーの人は……遠かったから届かなかった……」
美礼は小さく首を振った。
「守りたいとか、怖いとか、そういう気持ちが強くなると……近づいてほしくなくて……」
事故の瞬間のこと。
制御できなかったこと。
気づいたらみんなが弾き飛んでいたこと。
美礼はぽつりぽつりゆっくりと話した。玲子はそれを黙って聞いていた。
――だから車が突っ込んだのに怪我人がいなかった。
――だから違和感しか残らなかった。
頭の中で点と点が次々とつながっていく。
「……なるほど」
玲子は深く息を吐いた。
「驚いたけど……正直、納得もした」
四人の顔をひとりずつ見回す。
「大学の研究センターから連絡が来た理由も、たぶんそれ」
そして、少しだけ苦笑する。
「ねえ。これ、相当とんでもない話よ?」
そう言いながらも声はどこか落ち着いていた。
「でも……今ここで聞けてよかった。私がまずちゃんと知っておきたかったから」
応接室の空気がほんの少しだけ和らぐ。
玲子はしばらく黙って四人の顔を見渡してから美礼に視線を向けた。
「ねえ、美礼。ひとつ聞いていい?」
美礼は少し緊張したように背筋を伸ばす。
「あなたのご両親は……その力のこと、知ってる?」
一瞬の間。美礼は小さく首を振った。
「……知りません。たぶん、ずっと。私が人に近づかれないようにしてるってことも、はっきりとは」
玲子はふう、と短く息を吐いた。
「そう……親が知らないとなるとね、正直に言って……あなたを“守れる大人”がかなり少ないわ」
その言葉に、つむぎと寿々が思わず美礼の方を見る。美礼は何も言わず膝の上で手をぎゅっと握っていた。
「でも」
玲子は声の調子を変えた。
「わかった。じゃあ、私が守る」
え、と小さな声がいくつも重なる。
「まずはね、あなたに直接、変な大人とか、研究だ取材だっていう連中が近づかないようにする。窓口は全部、私。玲子。佐々木玲子にする」
玲子は机に肘をつき、少しだけ柔らかく笑った。
「だから、美礼。便宜上でいいから……うちの事務所に入りなさい」
「えっ……?」
美礼だけでなく夏葉も目を丸くする。
「所属って言ってもね、がっつり仕事させる気はないわよ。正直顔はかわいいし、モデルとかやってほしい気もするけど……」
一瞬美礼をじっと見て、
「あなた、そういうタイプじゃないでしょ?」
美礼は困ったように、でもどこか納得したように小さく笑った。
「……はい」
「でしょ」
玲子は頷く。
「だから席だけ置くの。書類上うちの事務所の人間ってことにしておく。何かあったら『事務所に相談します』『事務所を通してください』って言えるようにするの」
それは盾だった。
「それだけで無茶をしてくる人間はぐっと減るわ」
しばらく沈黙が落ちる。
「……いいんですか?」
美礼の声は少し震えていた。
「こんな……よくわからない力を持ってる私を」
玲子は即答だった。
「よくわからないからよ。わからないものを無防備に放り出すわけにはいかないでしょ」
つむぎが思わず口を挟む。
「……玲子さん、かっこよすぎません?」
「今さら気づいた?」
寿々がくすっと笑う。
夏葉は何も言わずに美礼の方を見てそっと頷いた。美礼はその視線を受けて、胸の奥がじんわり温かくなるのを感じた。
守られるという感覚。今までほとんど知らなかった感情。
「……お願いします」
美礼は深く頭を下げた。
玲子は少し照れたように視線を逸らしながら、
「はいはい。じゃあ今日からあなたも“うちの子”ね」
そう言って、事務所の明るい空気の中で確かな一歩が刻まれた。
日曜日の午後、人通りの少ない川沿いの遊歩道につむぎと寿々、美礼の三人が並んで立っていた。夏の名残の風がまだ少しぬるい。
「……で、本当にやるの?」
寿々が半信半疑で言う。
「うん。ちゃんと確かめたい」
美礼はいつになく真剣だった。
「事故のとき、手をつないでた夏葉さんは大丈夫だった。ってことは……触れてれば平気なのか、それとも“守る”って思った人だけなのか、わからなくて」
つむぎは少し考えてから頷いた。
「じゃあ、順番にやろ。まずは一番安全そうなやつから」
◇
最初は距離を取る実験だった。数メートル先につむぎと寿々が並んで立つ。
「美礼、無理しないでね」
つむぎが言うと、美礼は小さく笑った。
「うん……じゃあ、つむぎさんだけ“来ないで”って思ってみる」
空気がわずかに張りつめる。
――けれど、何も起きない。
「……あれ?」
寿々が首をかしげる。
「たぶん……離れてほしいって気持ちが弱い」
そう言いながら美礼はひたいをこする。
「嫌だとか怖いとかじゃないと……」
「なるほどね」
つむぎは苦笑する。
「じゃあ次」
◇
今度は三人で並んで歩きながら美礼が力を発動させる。次の瞬間、つむぎと寿々の体がふわりと後ろへ押し戻された。
「うわっ!」
「ちょ、ちょっと!」
二人は数歩よろけただけで止まったが、確かに“押された”感覚があった。
「ごめん!」
美礼が慌てて駆け寄る。
「今のはわかった」
寿々が服を払いながら言う。
「誰も触れてない状態だと、まとめて弾かれる」
◇
最後に確認のために。
美礼はつむぎの袖を指先で軽くつまんだ。寿々は反対側で美礼の手首に触れる。
「……発動するよ」
何も起きない。
風だけが三人の間を抜けていく。
「……平気だね」
つむぎが言う。
「うん」
美礼はほっと息を吐いた。
「手をつなぐほどじゃなくても触れていれば大丈夫みたい」
寿々はにやっと笑った。
「つまりさ、美礼にベタベタしてれば安全圏?」
「ち、違う!」
美礼の顔が赤くなる。つむぎはその様子を見て静かに言った。
「でも大事なことだね。美礼の力は“拒絶”だけど……ちゃんと選べる」
美礼はぎゅっと自分の手を握った。初めて自分の力を「怖いもの」じゃなく「理解できるもの」として見られた気がしていた。
数日後の放課後。夏葉に収録のない日は四人で下校するのがもう当たり前になっていた。校門を出てまだ人の多い通学路に差しかかった、そのときだった。
「……手、繋いで。私に触って」
前を歩いていた美礼が振り返らずに小さな声で言った。
「え?」
「どうしたの?」
つむぎと寿々が同時に反応する。美礼の声は落ち着いているのにどこか切迫していた。
「いいから。早く」
その一言で三人は察した。これは――来る。
夏葉は自然に美礼の手を取った。つむぎは袖をつかみ、寿々は背中に軽く指を触れる。
次の瞬間、空気が変わった。
四人を中心に目に見えない境界が静かに、しかし確実に広がり始める。先日の実験のときよりもはっきりとした感覚だった。半径数メートル。人の流れがそこだけ不自然に避けていく。
「……やっぱり」
美礼が小さく呟いた。その少し離れた場所にひとりの男が立っていた。宇佐大学・自然科学研究センターの研究員、村田。その後も玲子に何度も連絡を入れたが折り返しはなかった。だから直接来た。偶然を装ってでも、夏葉か、あの動画の中心にいた少女に会いたかった。
「……いた」
校門を出てくる四人組。その中に間違いなく夏葉がいる。隣の黒髪の少女――きっと、あの子だ。
村田は歩き出した。
だが――
「……?」
一歩、二歩。なぜか距離が縮まらない。足は前に出ているのに感覚としては見えない壁に押し返されているようだった。無理に踏み込もうとすると胸の奥がざわつく。理由のない違和感。近づくなと、体そのものが警告してくる。
「どういう……ことだ?」
村田は立ち止まった。目の前では四人が何事もなかったかのように歩いていく。
その中心にいる黒髪の少女――美礼は一度もこちらを見なかった。けれど確かにわかっている。誰かが近づこうとしていることを。
円は保たれたまま、四人は人混みの向こうへと溶けていった。
村田はその場に取り残される。
理由はわからない。
だが、はっきりしていることがひとつあった。
――あの動画はフェイクなんかじゃない。
研究者としての直感が静かに、しかし強くそう告げていた。
校門での出来事からしばらくその場に立ち尽くしていた村田だったが、結局できることは何もなかった。近づけない。近づこうとすると身体が拒む。理由もわからない。
――直接、行くしかない。
迷った末に向かったのは佐々木玲子の事務所だった。アポはない。玲子が不在の可能性も高い。それでも、ここまで来て引き下がるわけにはいかなかった。
◇
事務所の扉を開けた瞬間、村田は少しだけ身構えた。受付越しに名乗ると、ほどなくして奥から玲子が出てくる。
「……宇佐大学の、村田さん?」
玲子の声には警戒がはっきりと滲んでいた。当然だ、と村田は思う。
「アポなしですみません。お時間を取れないならすぐ帰ります」
そう言って深く頭を下げた村田の様子を見て、玲子は一瞬だけ迷った。大分からわざわざ――
「……少しだけなら。どうぞ」
◇
向かい合って話し始めて、玲子はすぐに安心感を覚えた。村田は想像していた“怪しい研究者”とはまるで違った。言葉を選び、こちらの反応を気にしながら話す。目は真っ直ぐで変な熱もない。
「いきなり私を信じてください、とは言いません」
村田は机の上に両手を置いたまま、落ち着いた声で言った。
「ただ……あの動画は私たちの研究分野にとってどうしても無視できないものでした」
「でも、あの動画はフェイクです」
玲子は仕事用の口調に戻る。
「はい。そう言われるのは承知しています」
村田はすぐに頷いた。
「それでも、です。いきなり研究だとか測定だとか、そういう話をしたいわけじゃありません」
玲子は黙って続きを促した。
「まずは、人として信用してもらいたい」
「変なことはしません。嫌がることは絶対にしません」
「ゆっくりお話しをしたい。一度研究所にも来ていただきたいのですが……ただ遊びに来る、くらいの気持ちでいいんです」
その言葉には焦りよりも誠実さが勝っていた。
玲子は村田の顔をじっと見つめる。この青年は何かを“奪いに来ている”わけではない。むしろ理解しようとしている側だ。
「……正直に言うわね」
玲子はため息をついた。
「今は、本人たちをこれ以上不安にさせたくない」
「はい」
村田は即座に答えた。
「それが最優先だと思っています」
その返答に、玲子の中で何かが少しだけ緩んだ。
「今日は、ここまで」
玲子はそう言って立ち上がる。
「約束はしない。でも……あなたの話は覚えておく」
村田は深く頭を下げた。
「ありがとうございます。それだけで十分です」
事務所を出ていくその背中を見送りながら、玲子は思う。
――厄介なのは悪意じゃない。
――善意と好奇心の方がずっと扱いづらい。
それでも、この青年は少なくとも“敵”ではないかもしれない。
ひと月も経たないうちに佐々木玲子は大分にいた。その後ろに四人の女子高生を連れて。
新幹線を降りたとき、美礼は少しだけ肩をすくめた。
――遠い。
それが正直な感想だった。でも、不安より先に「ここまで来た」という実感があった。
事の発端は玲子が率直に話したことだった。
村田という研究員のこと。
実際に会ってみて、思っていたような危うさは感じなかったこと。
研究の話をする前に「信用してほしい」と言ったこと。
そして――
「直接会えば美礼自身が何か感じるかもしれない、って思ったの」
そう言われたとき、美礼はすぐには答えなかった。
自分の力。避けてきたもの。でも、ずっとわからないままでいるのもどこか苦しかった。
「……ちょっとだけなら」
最初はそう言った。でもすぐに言葉を足した。
「私ひとりじゃ、行かない」
「四人で行きたい」
「イヤな感じがしたら、すぐ帰る」
「何かあったら……玲子さんに、守ってほしい」
つむぎと寿々は何も言わずに頷いた。夏葉も当たり前のように「一緒に行くよ」と言った。
それで決まった。
研究所側からは旅費はすべて出すと連絡があった。
「まずは見学だけでいい。観光のついでな感じでもいい」と、村田は何度も念を押してきた。
――誰かに“調べられる”のは、やっぱり怖い。
でも同時に、
――誰かが“知ろうとしてくれる”ことに、少しだけ救われる気もしていた。
◇
そこは、街から少し離れた古い旅館だった。年季の入った木の看板に落ち着いた佇まい。派手さはないがどこか安心できる場所だった。
「……ここ?」
寿々が小声で言う。
「うん。村田さんが用意してくれた」
玲子はそう答えた。
「今日は研究の話はしないって約束だから」
フロントに入ると、すでに一人の男性が待っていた。背は高すぎず、白いシャツにジャケット。こちらに気づくと少し緊張したように背筋を伸ばす。
「佐々木さん、今日はありがとうございます」
宇佐大学・自然科学研究センター、村田。落ち着いていて、どこか控えめな雰囲気の好青年。
「こちらこそ。こうして旅館まで用意してくれて」
玲子が応じる。
村田は四人の女子高生に視線を向け、少し迷ってから言った。
「……初めまして。今日は無理なお願いをしてしまってすみません」
「いえ」
夏葉が軽く会釈する。
チェックインを済ませたあと、ロビーの一角で簡単に向かい合うことになった。場の空気が落ち着いたところで玲子がふっと表情を引き締めた。
「村田さん。ひとつだけ最初に伝えておきたいことがある」
「はい」
「……動画の中心にいたのは、夏葉じゃない」
村田の眉がわずかに動く。
「能力があるのは……この子」
玲子はそう言って美礼の方を見る。
一瞬、空気が止まった。村田はゆっくりと視線を移し、黒髪の少女と目が合うとはっとしたように息をのんだ。
「……」
美礼は何も言わなかった。ただ静かに見返す。
「あの日、あなたが近づけなかったのは」
玲子が続ける。
「この子が無意識に力を使っていたから」
村田はすぐに何かを言おうとして言葉を飲み込んだ。そして深く頭を下げた。
「……教えてくださって、ありがとうございます」
その声には興奮も疑念もなかった。ただ事実を受け止めようとする誠実さだけがあった。
美礼はその様子を見てほんの少しだけ肩の力を抜いた。
――この人なら。
――少なくともいきなり踏み込んでくることはない。
村田は美礼のことが気にならないわけがなかった。だが、それを表に出すことはしなかった。
――今日は信頼関係をつくる日。
――研究はそのあとでいい。
それが、村田自身の中で決めていた順番だった。
「もしよければ……今日は研究所には行かずに」
旅館を出るとき村田は少し照れたように言った。
「大分、案内させてください。観光です」
玲子は一瞬考えてから四人の顔を見る。誰も嫌そうな顔はしていなかった。
「……いいわね。せっかくだし」
こうして五人の小さな観光が始まった。
◇
最初に向かったのは街を一望できる高台だった。眼下に広がる町並みと遠くの山々。
「わ、きれい……」
寿々がスマホを取り出す。
「仕事で来るとこういうの見る余裕ないのよね」
夏葉が笑う。
「ここ、学生の頃によく来たんです」
村田が少し懐かしそうに言った。
「研究に行き詰まると、ここで頭を冷やしてました」
「研究者も煮詰まるんですね」
つむぎが言うと、
「むしろ、しょっちゅうです」
村田は苦笑した。
そのやりとりを聞きながら美礼は少しだけ安心していた。
――この人も、普通の人だ。
◇
次は城下町の名残が残る通り。古い建物と土産物屋が並ぶ。
「これ、かわいい!」
寿々が小さなキーホルダーを手に取る。
「寿々、また荷物増えるよ」
つむぎが呆れたように言う。
「旅の思い出は形に残す派なの!」
村田はその様子を少し距離を取って見ていた。踏み込みすぎない。観察しすぎない。ただ一緒に歩く。
玲子はその態度を横目で確認し、心の中で小さく頷いた。
◇
昼食は地元の定食屋だった。名物だという『とり天』がテーブルいっぱいに並ぶ。
「おいしい!」
寿々が素直に声を上げる。
「現場弁当と全然違う……」
夏葉が感動している。
「こういう普通のごはん、久しぶり」
つむぎも笑った。
村田は嬉しそうにそれを見ていた。
“成功”だと思った。
少なくとも警戒は解けてきている。
◇
午後、いくつか名所を回ったあと車中で村田がハンドルを握りながら言った。
「このあと……青の洞門に行こうと思っています。今日の最後に」
その言葉に玲子が少しだけ反応した。
「洞門……?」
「はい。静かな場所です」
村田はバックミラー越しに後部座席の四人を見た。
「歩く距離もありますし、無理そうならやめますけど」
美礼は窓の外を見ながらふと胸がざわつくのを感じた。理由はわからない。
「……大丈夫」
そう呟いたのは自分でも意外だった。
「じゃあ、そこを最後にしましょう」
玲子が言う。
車はゆっくりと山あいの道へ入っていく。道は思ったより細くカーブも多かった。村田の運転は慎重でスピードも控えめだ。窓の外には濃い緑と岩肌が交互に流れていく。
「大分って山が近いんだね」
「空気が違う気がする」
後部座席でつむぎと寿々がそんなことを話している。美礼はシートに背中を預け外をぼんやり眺めていた。夏葉はその隣で仕事モードではない素の表情をしている。
次のカーブに差しかかったときだった。
「あれ……?」
フロントガラスの先、道路の真ん中に何かが見えた。
丸い……石?
サッカーボールくらいの大きさの石と、その周りに散らばる小石。
「落石?」と誰かが言いかけたその瞬間――
――パァン! パァァァン!!
後ろから大きなクラクションが鳴り響いた。
「みんな、つかまって!!」
美礼が反射的に叫ぶ。
次の瞬間だった。
ドスン!!
鈍く重たい音。目の前の道路に、さっき見えたものとは比べものにならない大きな岩が叩きつけられた。衝撃で無数の小石が弾け、雨のように散る。
「きゃっ!」
「うそ……!」
車体がわずかに揺れ、全員が息を呑む。
だが――
岩は道路を塞ぐことなく、そのまま勢いを保ったままガードレールを越え、下の谷へと消えていった。ガラガラと遠ざかっていく音だけが残る。
村田はブレーキを踏み車を止めた。エンジン音がやけに大きく聞こえる。
「……当たって、ない?」
「うん……大丈夫……」
一瞬の沈黙。
美礼はぎゅっと自分の手を握りしめていた。胸の奥がざわついている。さっき――確かに、来る、と感じた。
だから叫んだ。
だから……間に合った。
「今の……」
つむぎが小さく言う。
「……落石、だよね」
寿々の声は震えていた。
村田は前方の道路と谷の下を交互に見つめながら、ゆっくり息を吐いた。
「……普通なら、あの位置だと直撃してもおかしくなかった」
その言葉に車内の空気がひりつく。
美礼は何も言わなかった。ただ、さっき感じた“押し返すような感覚”がまだ体の内側に残っていた。
車はそのまま走り、ほどなくして山道の脇にぽつんと現れた少し開けた場所に滑り込んだ。簡易的な駐車スペースに自販機が二台。木々の隙間から風が抜け、さっきまでの緊張が嘘のように静かだった。
「……ここで一回降りよう」
玲子の声で全員が車を降りる。つむぎは無意識に肩や腕をさすり、寿々は足踏みをしてみる。夏葉は髪をかき上げながら深呼吸し、美礼は自分の両手をじっと見つめた。
「……痛いとこ、ないよね?」
「うん、全然」
「車も……大丈夫そう」
ボンネットもフロントガラスも無傷だった。誰かが小さく「よかった……」と呟いて、全員がほっと息を吐く。
そのときだった。
少し遅れて、さっき後ろにいたタクシーが駐車スペースに入ってきた。ドアが勢いよく開き、運転手がほとんど飛び出すように降りてくる。
「いやぁぁぁ、びっくりしましたよ!!」
年配の運転手は興奮を抑えきれない様子で、身振り手振りも大きい。
「落石ですよ、落石! もう直撃だと思いました! 前の車に当たる、いやもう絶対当たるって!」
一気に息を吸い込んで、さらに続ける。
「だから必死でクラクション鳴らしたんです。逃げてくれ、逃げてくれ! って思いながら!」
全員が顔を見合わせる。運転手は空中に見えない線を描くように手を振った。
「そしたらですよ。あのデカい石が……変な落ち方したんです」
「変な……?」
「ええ。まっすぐ落ちるはずが、こう……」
手を斜めに振る。
「急に軌道がズレたみたいに。見えない何かにぶつかったみたいに見えて……」
運転手は首をかしげる。
「風で飛ばされるわけないでしょう? なのに明らかに“避けた”んですよ。いやぁ……説明できませんけど……」
最後は笑い混じりに、
「とにかく、当たらなくてよかった! ほんと、それだけです!」
と言って、ようやく落ち着いた様子で胸を撫で下ろした。
その場に短い沈黙が落ちる。つむぎは美礼の横顔を盗み見る。寿々は唇を噛み、夏葉は何も言わず空を仰いだ。
美礼だけが、ぎゅっと拳を握りしめていた。
タクシーの後部座席のドアが静かに開いた。運転手とは対照的に、ゆっくりと降りてきたのは初老の男性だった。白を基調とした装いにきちんと整えられた所作。一目で「神職」とわかる佇まいだった。
その男性は周囲を一瞥すると――
次の瞬間、視線が美礼のところでぴたりと止まった。
「……ほう。これはこれは……」
穏やかな声だった。宮司はそのまま美礼に向かって静かに両手を合わせる。
突然のことに、つむぎたちは一瞬きょとんとする。でも、神職の挨拶なのだろうと思いそれぞれが慌てて頭を下げた。
宮司はまっすぐ美礼の前まで歩み寄る。距離は近いのに不思議と圧迫感はない。むしろ、山の空気そのものみたいな静けさだった。
「あなたは……守ってますね」
美礼の肩がぴくりと震える。
「みんなを守っている、というよりも……」
一拍、間を置いて、
「あなた自身を、守っているんですね」
それだけを言って宮司はふっと微笑んだ。
「本日は、あなたにお会いできたことを感謝します」
深く一礼するとそれ以上何も説明することなく、くるりと踵を返す。そのままタクシーに乗り込みドアが閉まった。
運転手が窓から顔を出す。
「じゃ、まだ先がありますんで! お互い安全運転で行きましょう!」
軽く手を振ってタクシーは山道の先へと走り去っていった。
――残されたのは、静寂と、戸惑い。
美礼はその場に立ち尽くしたまま、宮司の言葉が頭の中で何度も反響していた。
(……守ってる……。私が……自分を……)
つむぎも寿々も、夏葉も、さっきのやり取りはちゃんと聞いていた。でも、誰一人として意味が掴めない。
「……どういうこと?」
寿々がぽつりと呟く。
誰も答えられなかった。ただひとつ確かなのは――全員が無事だったということ。
玲子が深く息を吐いて言った。
「今日は……もう十分よね。このまま旅館に戻りましょう」
異論はなかった。
車に乗り込むと、エンジン音が現実に引き戻してくれる。さっきまでの出来事が夢だったみたいに遠のいていく。
山道を戻りながら誰も多くを語らなかった。美礼の胸の奥ではあの宮司の言葉が、静かに、確かに、響き続けていた。
旅館に戻る頃には外はすっかり夕暮れに近づいていた。山の稜線が薄紫に沈み、ロビーには早めにチェックインした客の話し声と静かな和楽器のBGMが流れている。本来なら村田はここで失礼して研究所へ戻るつもりだった。
――けれど。
「……すみません」
振り返った村田の表情は、研究者というよりひとりの人間としての迷いがそのまま出ていた。
「このまま帰るの、どうしても無理で。さっきのこと、ちゃんと整理しないと……」
長距離移動で疲れているはずの四人を気遣うように、言葉を選びながら頭を下げる。
「もうお部屋で休みたいですよね。なので、少しだけ……ロビーで。十分でもいいので」
玲子が一瞬みんなの顔を見回し、うなずいた。
「……いいわ。私も整理したい」
そうして一行は、ロビーの隅にある低いテーブルを囲んだ。畳敷きの小上がりで、湯のみが静かに運ばれてくる。
しばらくは誰も口を開かなかった。落石の瞬間がそれぞれの頭の中でまだ生々しく再生されていたからだ。
最初に切り出したのは村田だった。
「……あの落石は」
一度、言葉を切る。
「車に当たらないように……美礼ちゃんが弾き飛ばした……ってことですよね?」
空気がわずかに張りつめた。
美礼はすぐには答えなかった。湯のみを両手で包み込み湯気を見つめる。
長い沈黙。
やがて、ぽつりと。
「……『来ないで』って、思った」
それだけだった。説明でも言い訳でもない。ただ、自分の中で起きたことをそのまま言葉にしたような声。
「車に……落ちてほしくなかったから……危ないって思って」
それを聞いた瞬間、つむぎと寿々は顔を見合わせた。夏葉も小さく息をのむ。
――やっぱり。
誰もが心のどこかでそう思っていた。けれど、いざ本人の口から語られると重みがまるで違う。
村田はしばらく言葉を失っていた。
「……信じられない……」
そして、すぐに続けて、
「……いや、すごい……」
自分でもどちらを言いたいのかわからないまま、額に手を当てて笑ってしまう。
「はは……。いや、笑い事じゃないんですけどね。冷静に考えたら命の危機だったわけで……」
そう言いながらも口元は抑えきれない。
「でも……なんだろう……奇跡を、自分自身が体験したみたいで……」
一瞬、はっとして背筋を正す。
「あ、失敬失敬。怖かったですよね。ほんとに、すみません」
玲子が静かに首を振った。
「……怖かったけど……でも、誰も怪我しなかった。それがすべてよ」
寿々が続ける。
「タクシーの人も言ってたよね。軌道が変わったって」
つむぎは美礼を見てやさしく笑った。
「……守ってくれたんだよ。意識してたかどうかは別として」
美礼は、少し俯いたまま小さくうなずいた。
「……うん」
湯のみの中身がわずかに揺れる。
結論はひとつだった。あの瞬間、確かに美礼の力が全員を救った。それを確認できただけで、胸の奥にあったざらつきが少しだけ溶けた気がした。
村田は深く息をつき立ち上がる。
「……今日は、本当にお疲れさまでした」
一人一人の顔をきちんと見てから言う。
「また、明日。朝、迎えに来ます。今日は……ゆっくり休んでください」
そう言って、丁寧に頭を下げロビーを後にした。
残された五人はしばらくその場に座ったままだった。言葉は少なかったけれど、全員の胸に共通してあったのはひとつ。
――無事でよかった。
夕食と温泉を終え四人は同じ部屋に戻ってきた。畳の匂いがほんのり残る和室。低いテーブルの上には旅館でもらったお茶菓子の袋がきれいに並んで置かれている。
布団はすでに敷かれていて照明も少し落とされていた。窓の外では虫の声が静かに響いている。
「……はぁ」
最初に声を漏らしたのは寿々だった。
「今日、濃すぎない? 一日」
「わかる」
つむぎがそのまま畳にごろんと転がる。
「観光して、落石あって、宮司さん出てきて、研究者さんと語り合って……これ、修学旅行の全日程でもこんなに濃くないよ」
夏葉は座布団に腰を下ろし、髪をタオルで拭きながら笑った。
「でも、温泉よかったね。さすが老舗。お肌つるつる」
「現実逃避してるでしょ」
寿々が突っ込み、三人でくすっと笑う。
その輪の少し外で、美礼は正座したままあたたかい湯のみを両手で持っていた。一日の出来事がまだ頭の中でぐるぐる回っている。
「ねえ、美礼」
つむぎが天井を見上げたまま言う。
「さっきさ、気づいたんだけど」
「……なに?」
「車の中だとさ。美礼に触ってなくても吹っ飛ばされなかったよね」
一瞬、空気が静まる。
寿々が「あっ」と声を上げた。
「確かに。前の下校のときは袖つかんだり手つないだりしたのに」
夏葉も思い出すようにうなずく。
「車の中では……普通にみんな無事だった」
美礼は少し考えてから答えた。
「……たぶん」
言葉を探すように視線を落とす。
「車の中って同じ箱だからかな……。外とちゃんと分かれてるっていうか……」
「境界がはっきりしてる、って感じ?」
つむぎが言うと、美礼は小さくうなずいた。
「……うん。そんな感じ」
寿々がほっとしたように息をつく。
「よかったー。もし車の中でも吹っ飛ばされてたら、さすがに怖すぎる」
「ほんとそれ」
つむぎも笑う。
「バスとか新幹線とか、もう乗れないじゃん」
その軽口に、ようやく美礼の表情も少し緩んだ。
「……ごめんね。今日はいっぱい……」
「いいの」
夏葉が即座に言った。
「美礼のおかげで無事だった。それだけで十分」
寿々も続く。
「守ってもらってる側が謝らせるの、変だよ」
つむぎは起き上がって布団の上に座る。
「それにさ」
少し照れたように。
「こうやって一緒に泊まってだらだら話してるの、なんか……普通でいいじゃん」
美礼は、その「普通」という言葉を胸の中でそっと転がした。
普通。
誰かと一緒にいて、
怖いことがあって、
でも、笑って、
眠る前に他愛もない話をする。
「……うん」
小さく答えると、布団に入る。
灯りがさらに落とされる。
「明日、研究所だよね」
「緊張する……」
「でも、今日よりはマシじゃない?」
そんな声が、だんだんと小さくなっていく。
虫の声と誰かの寝返りの音。
やがて、寿々の規則正しい寝息が聞こえ始め、つむぎも、夏葉も、次第に静かになる。
最後まで起きていた美礼も、天井を見つめながらゆっくり目を閉じた。
宇佐大学・自然科学研究センターは、外から見ると拍子抜けするほど普通の建物だった。地方の大学によくある少し新しめの研究棟。ここで「超自然現象」を扱っているとはとても思えない。
「……思ってたのと違う」
寿々が小声で言うと、つむぎも同意するようにうなずいた。
けれど中に入った瞬間、その印象は一変した。自動ドアの先には広いエントランス。白を基調にした壁、天井に走る配線、ガラス越しに見える実験室。静かながら、どこか緊張感のある空気が漂っている。
「ここがセンターの共用フロアです」
村田は歩きながら簡単に説明していく。
「奥が計測室、右が解析室。今日は……検査とか数値取りなど……というか、その前に」
「まずは……体験したいんです」
村田は立ち止まり、振り返る。
「以前学校で……近づこうとしてもどうしても近づけなかった」
玲子の方をちらりと見てから、正直に続けた。
「あの感覚をもう一度、できれば……押されるところまで」
研究者としては異例の頼みだった。けれど、その目には好奇心だけでなく覚悟があった。
美礼は少し黙り込み、それから周囲を見回した。
つむぎ、寿々、夏葉。
玲子も、静かにうなずいている。
「……じゃあ」
美礼は一歩、床の中央に立った。
「近づいてください」
村田はゆっくりと歩き出す。
最初は何も起きない。
三メートル、二メートル。
「……あ」
村田の足がぴたりと止まった。
「……これだ」
見えない壁に触れたように、そこから前に進めない。
床は平らなのに身体だけが拒まれている。
「もう少し……来ないでって、しますね」
美礼がそう言った瞬間、村田の体がぐっと後ろへ押された。
「おっ……!」
踏ん張る間もなく、二歩、三歩と後退し尻もちをつく。
「……っ、はは……!」
一瞬の沈黙のあと村田は笑っていた。
「すごい……本当に、押された……」
床に座ったまま両手を見つめる。
「力でも、風でもない。なのに……確かに作用した」
立ち上がり深く息を吐く。
「……感動しますね。こんな現象、論文で読んだこともない」
近くで見ていた玲子は腕を組んだまま呟いた。
「……改めて見ると、異常ね」
「異常だけど……」
つむぎが言葉をつなぐ。
「美礼はちゃんとそこに立ってるだけなんだよね」
寿々もうなずく。
「何かしてる感じ、全然しない」
夏葉は美礼の横顔を見ていた。驚きよりも不安よりも「これを背負って生きてきた」という事実が胸に残る。
美礼は少しだけ照れたように視線を逸らした。
「……ごめんなさい。ちょっと強くしちゃいました」
「いえ」
村田は真剣な顔で首を振る。
「ありがとうございます。これは……大事に扱わないといけない」
その言葉に、玲子は小さく息をついた。
村田はまだまだ興奮が冷めきらない様子だった。メモも端末も手に取らず、ただ美礼の方をまっすぐ見ている。
「……美礼ちゃん」
少しだけ言いにくそうに、でも抑えきれない好奇心が声に滲む。
「その……具体的に、どうやってるんですか?」
「どうやって、って?」
「さっきの……押す感じ。思っているだけにしてはあまりにも再現性がある」
村田は自分の額に指を当てた。
「例えばですけど……この辺り。眉間とか。いわゆる“第三の目”って言われる場所に意識を集中させるとか……」
そう言いながら、実際に眉間にぎゅっと力を入れる。思いきりしわを寄せて何かを出そうとするような顔。
「……こう?」
その様子を見て美礼は思わず首を横に振った。
「逆です」
「……逆?」
村田が目を瞬かせる。
「集中、じゃないです」
美礼は自分の額にそっと手を当てる。
「……開く感じ」
「開く?」
「ひたいの、しわを伸ばす感じ。ぎゅってするんじゃなくて……」
言葉を探しながらゆっくり額をなぞる。
「ひたいを、広げる感じ……息を吸って、ふわって」
村田は目を見開いた。
「眉間に集めるんじゃなくて……開く?」
「はい」
「……なんだそれ」
つむぎが思わず笑う。
「でも……なんかわかる気がする」
寿々も頷く。
「力入れるときって、普通はぎゅーってなるもんね」
村田は半信半疑のまま言われた通りにやってみる。眉間の力を抜き、額全体をふわっと緩める。
「……こう?」
「もうちょっと」
美礼は、まるで空気の広がりを示すように両手を少し外に開いた。
「広がる感じ、です」
村田はしばらくその姿勢を保ち――やがて、ふっと息を吐いた。
「……」
何も起きない。
当たり前だ。
「……すごい」
それでも、村田は呟いた。
「発想が真逆だ……」
そのとき、つむぎがぽんと手を打った。
「あ」
「どうしたの?」
「前にさ、川沿いの遊歩道でちょっと実験したとき」
つむぎは美礼を見る。
「美礼、ちょくちょくおでこ擦ってたよね」
「あー!」
寿々も思い出したように声を上げる。
「やってたやってた。なんでかなって思ってた」
「そういうことだったんだ」
つむぎは納得したようにうなずく。
「閉じるんじゃなくて……ひらく」
「意識を広げる、押し広げるって感じなのかなぁ……」
少し間を置いて村田がぽつりと聞いた。
「……美礼ちゃんはさ。正直、この力の正体、何だと思う?」
美礼はすぐには答えなかった。自分の手のひらを見つめて、指をきゅっと握ってまた開く。
「わからないけど……」
言葉を探すように、ゆっくりと続ける。
「なんていうか……引力の逆みたいな感じはする。引き寄せるんじゃなくて……来ないで、って」
少し考えてから、首をかしげて付け足す。
「逆引力……みたいな」
「引力の逆……」
村田は思わずその言葉を反芻する。
「斥力、か」
顎に手を当て、少し眉を寄せる。
「うーん……でも、物理で言う斥力ってのとも、なんか違う気がするんだよなぁ……」
「違うの?」
寿々が首を傾げる。
「うん。斥力って基本、距離が近いと強く働くものだから。でも美礼ちゃんのは……距離とか質量とか、そういう制限があまり感じられない」
村田はちらっと美礼を見る。
「しかも『飛ばそう』としてる感じでもない。ただ近づいてほしくない、っていう意思そのものが空間に出てるみたいで……」
「……意思が、出てる」
美礼はその言葉を小さく繰り返した。
「だからかな」
ぽつり、と。
「怖いときほど、強くなる気がする」
その場がすっと静かになる。つむぎも寿々も、そして玲子も、何も言わずに美礼を見ていた。
村田ははっとして柔らかく笑う。
「あ、いや、怖がらせたいわけじゃなくてね。むしろ……こんなふうに話してくれるのが、すごく大事なんだ」
「ありがとう、美礼ちゃん」
美礼は少し照れたように、でも小さくうなずいた。
研究所の一角、白くて静かな測定室。村田はさきほどの興奮を抑え、丁寧な調子で説明した。
「じゃあ、まずは本当に簡単な身体測定からです。身長、体重、脈拍。それから検査と数値取り、最後に脳波を少しだけ。通常の状態と、力を出したとき。無理は一切しません。少しでもイヤだな、ストレスだなと思ったら遠慮なく止めてください」
美礼は小さくうなずく。
「はい。大丈夫です」
玲子とつむぎたちは別室へ案内される前「終わったらすぐ戻ってくるからね」「無理しないでね」と、いつもの調子で声をかけてくれた。
測定は拍子抜けするほど淡々と進んだ。機械音も控えめで、村田も研究者というよりずっと“付き添い”のようだった。
脳波計をつけられ横になる。
「まずは何も意識しないで。普通に呼吸して」
画面に流れる波形を村田は食い入るように見つめているが、その表情は興奮よりもどこか慎重で畏れに近かった。
「では次、さっき話してくれた“ひらく感じ”をほんの少しだけ」
美礼は目を閉じ、眉間ではなく額全体、もっと言えば頭の前側がふわっと広がるイメージをする。力を出そうとはしない。ただ「そこにある」感じ。
数秒後。
「……あ」
村田が思わず声を漏らした。
「今、何か変えました?」
「いえ……ちょっと、ひらいただけです」
「……なるほど」
それ以上、村田は深追いしなかった。
「もう十分です。ありがとうございます。本当に」
検査はそれで終わった。時計を見ると、始めてからちょうど一時間ほど。
器具を外しながら村田は言った。
「データはこれから解析します。正直、すぐに答えが出るものじゃありません。でも、何かわかったら必ず連絡します」
◇
タクシーが研究所の前に到着する。
「今回は……本当に、本当にありがとうございました」
村田は深く頭を下げた。研究者として、というより一人の人間としての礼だった。
美礼は少し照れながら「こちらこそ……調べてもらいたかったので」と答える。
「何かわかっらたいつでも連絡ください」と玲子。
数値がどうだったのか、専門的なことは何一つわからない。それでも不思議と胸の奥が軽かった。わからないままだった自分の中の何かを誰かがちゃんと見ようとしてくれた。それだけで十分だったのかもしれない。
タクシーが静かに走り出す。一拍おいてつむぎがふうっと息を吐いた。
「……なんか、終わったって感じだね」
「うん。頭使ったわけじゃないのにどっと疲れたかも」
寿々が肩を回す。夏葉は美礼の横顔をちらっと見て少し笑った。
「でもさ、なんかスッキリしてない? 怖いとか不安とかより」
美礼は少し考えてから、こくりとうなずく。
「……うん。怖いのはまだあるけど、ちゃんと見てもらえたっていうか……」
「わかる」
つむぎがすぐに返す。
「隠してる感じじゃなくなったよね」
「それにさ」
寿々がにやっとする。
「村田さん、完全に感動してたよね。研究者なのに目キラキラして」
「失敬失敬、って言ってたのウケた」
夏葉がくすっと笑う。
その笑いにつられて美礼も小さく笑った。自分の力の話をして笑える日が来るとは思っていなかった。
「……みんな、ありがと」
ぽつりと、美礼が言う。
「なに今さら」
つむぎは即答だった。
「一緒に来たんでしょ」
「そうそう」
寿々も軽く手を振る。
「もう戻れないよ? 普通の友達枠から」
美礼は少し照れたように視線を落とし、それから前を向いた。
数値がどうだったのか、
この先どうなるのか、
まだわからないことだらけだ。
それでも――
少なくとも今はひとりじゃない。




