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斥力の少女 第一章

 つむぎは三階にある教室の窓から登校してくる生徒たちをぼんやり眺めていた。昨日の席替えで、それまで廊下側だった自分の机が初めて窓側になった。そのことが朝の気分をほんの少しだけ明るくしてくれている。

 いつもと変わらない登校風景。校門をくぐる生徒たちの流れを何気なく目で追っていたときだった。


 ひとりの女の子が校門を入ってきた。長い黒髪の女の子。制服はきちんと着ていて歩き方も落ち着いている。姿勢も悪くない。特別目立つ格好をしているわけでもないのに、つむぎの視線はなぜかそこから離れなかった。


 最初に感じたのは違和感だった。その女の子が小さな円の中心にいる。そう見える。そして周囲の生徒たちはほんの半歩だけ遠回りをしているような不自然さ。


「……あれ?」


 女の子が前に進む。それに合わせるように円も進む。半径せいぜい一メートルもないくらい。でも、それは確かに女の子を中心にして存在していた。誰かが避けているというより――気づかないうちに距離を取らされているような。女の子が歩くたびにその円も遅れずについていく。そして小さな円が息を吸い込むように少しずつ膨らんいく。


「ん? んんん?」


 つむぎは思わず身を乗り出した。


 円は急に大きくなるわけじゃない。でも、校門から校舎へ近づくにつれて少しずつ確実に広がっていくのが分かる。二メートル、いや三メートルくらいだろうか。その中に誰も入ろうとしない。正確には入ろうとしていないことに誰も気づいていない。


 そのまま女の子と見えない円は階下の校舎の中へ吸い込まれていった。


(今の何だったんだろう?)


 つむぎはしばらく窓の外を見つめたまま動けずにいた。あの子、みんなに避けられてるんだろうか。


(まさかイジメ……?)


 この学校でそんな話は聞いたことがない。でも、あんなに自然に距離ができるなんてあるだろうか。


(いや、違う)


 周りの子たちはあの子を見て避けている感じじゃなかった。むしろ、避けているという自覚すらなさそうだった。


「んん? んん? ……あ」


 つむぎの頭の中に唐突に好きなアニメのワンシーンが浮かんだ。自分の周囲数メートルの空間を自在に操る“結界師”と呼ばれる能力者。


「……いやいや」


 さすがにそれは飛躍しすぎだ。つむぎは小さく首を振る。現実にそんな都合のいい能力があるはずがない。でも――でももし本当に“結界師”が居るのなら――


(会いたい。話してみたい)


 もしかしたら自分と同じ学校に“結界師”が居るかもしれない。そう思うと何だかとてもわくわくしてきた。また同時に「まずは確かめないと」という冷静な自分もいた。


 そんなことを考えていたら始業のチャイムが鳴った。






「窓側の席っていいなー」


 昼休みに寿々がやってきた。


「私なんて教壇の前だからちょー集中だよ。疲れたー」


 そう言いながらつむぎの横に陣取った。つむぎは窓辺から何となく校門の方を見て今朝見た光景を思い出していた。教室の窓から差し込む陽射しの中で、つむぎは机に肘をつき少しだけ声を落とした。


「ねぇ寿々、放課後ちょっと付き合ってくれない?」


 何気ない誘いに、寿々は「ん?」と首を傾げてつむぎを見る。


「何? どこか行くの?」


「ううん、どこかに行くってわけじゃなくて……ちょっと気になる子がいてさ。その子を探したいの」


 寿々の眉がぴくりと動く。


「探すって、どうやって?」


 つむぎは窓の外を指さした。


「放課後すぐ校庭に行って帰る生徒たちを見てたいっていうか……たぶんそこ通ると思うんだよね」


 一拍置いて寿々が吹き出した。


「えー? 何それ。待ち伏せじゃん。ストーカー一歩手前じゃない?」


「ち、違うし!」


 つむぎは慌てて手を振る。


「ただ話してみたいっていうか。顔を見て確認したいだけっていうか……」


 寿々は椅子に背中を預けにやにやと笑う。


「へぇ~。気になる子ねぇ。男子? 女子?」


「え? 女子だよ女子。ってか、そういうんじゃないから」


 その日の放課後、さっそく校門近くで下校する生徒たちの中から長い黒髪の女の子を探す。そして翌日も、その翌日も。気づけば校門の前に立ってから一時間近くが経っていた、という日もあった。けれどその少女を見つけることはできなかった。


「下級生だよね、たぶん」


「一年生か二年生か……」


 名前も知らない。

 クラスも分からない。

“自分の周りに結界を張る長い黒髪の女の子”という勝手な妄想だけがつむぎに残った。






 放課後の街は夏葉にとってはただの通り道だった。駅前の商店街を抜け、イヤホンから流れる音楽に身を委ねながら歩いていると不意に「少しお時間いいですか」と声をかけられた。立ち止まると名刺を差し出す大人が微笑んでいた。モデル事務所の人だという。冗談だと思い何度も断ろうとしたが「雰囲気がいいんです」と圧され、結局連絡先を交換した。


 後日、夏葉は母と一緒に事務所を訪ねた。事務所のドアを開けると冷たい空気と柔らかな香りが同時に流れ込んできた。白を基調にした室内に、夏葉は思わず背筋を伸ばす。隣では母が少し硬い表情でハンドバッグを持ち直していた。


「今日はお越しいただいてありがとうございます」


 ソファの向かいに座った担当者佐々木玲子は穏やかな笑顔で頭を下げた。年齢は三十代半ばくらいだろうか。落ち着いた声がこの場所の緊張を少し和らげる。


「こちらこそ……突然声をかけていただいたと聞いて。正直まだ半信半疑でして」


 母がそう言うと玲子はすぐに頷いた。


「当然です。街でお声がけする形なので不安に思われる方も多いです。ただ、無理にお願いすることは一切ありません。今日はまずお話だけ聞いていただければ」


 夏葉は母の横で小さく手を握りしめていた。視線は落としたまま。心臓の音がやけに大きく聞こえる。


「……本当に……私でいいんですか?」


 思い切って口にすると、玲子は夏葉の方を見て少し真剣な表情になった。


「はい。派手さではなく自然な雰囲気がとても魅力的です。カメラの前に立ったときにそのままの表情が出せる方だと思いました」


 母は娘の顔をちらりと見てから慎重に尋ねる。


「学業との両立は可能なんでしょうか。高校生ですのでそこが一番気になっています」


「もちろんです。学校を最優先にしていただきます。撮影は放課後や休日が中心ですし無理なスケジュールは組みません」


 玲子の言葉に夏葉は少しだけ肩の力が抜けた。


「写真を撮るって聞いて……正直うまく笑えるかも分からなくて」


 そう言うと玲子はくすっと笑った。


「最初から上手な人はいませんよ。むしろ、慣れていない今の感じがいいんです」


 母はそのやり取りを静かに聞きながらゆっくり息を吐いた。


「この子が自分でやってみたいと思えるなら……私も応援したいとは思っています」


 その言葉に夏葉ははっとして母を見る。母は微笑んで小さく頷いた。


「ありがとうございます」


 玲子は深く頭を下げた。






 撮影当日の朝、夏葉はいつもより早く目が覚めた。クローゼットの前でいくつもの服を確認し、結局はシンプルなものに落ち着く。駅へ向かう道で胸の奥がそわそわと波打っていた。


「今日は雑誌の撮影……」


 言葉にすると軽いが、自分がその被写体になる現実はまだどこか他人事のようだった。


 近くの喫茶店で佐々木玲子と合流し一緒にスタジオへ。スタジオは都心のビルの一角にあった。白い背景紙、並んだ照明、忙しそうに動くスタッフたち。玲子が声を掛けるとカメラを調整していた男性が顔を上げた。


「はじめまして。今日撮るカメラマンの筒井です」


 穏やかな声だった。年配というほどではないが経験を重ねた落ち着きがある。


「緊張してる?」と聞かれ、夏葉は正直に頷く。


「大丈夫。最初はみんなそうだから。今日は“上手くやろう”と思わなくていいよ」


 ヘアメイクが終わり鏡の前に立つ。そこに映る自分は少しだけ違って見えたが、それでも知らない誰かではない。


「じゃあ、軽く立ってみようか。力抜いて」


 カメラの前に立つと心臓が一段と速くなる。カメラマンはシャッターを切らずに声だけで導いてくる。


「肩、少し下げて。そう、そのまま。今いい顔してる」


 シャッター音が初めて鳴った瞬間、体がびくりとした。


「今の反応悪くないよ。驚いた感じ。自然だ」


 夏葉は思わず小さく笑ってしまう。


「無理に表情を作らなくていいからね」


 そう言われて夏葉は深く息を吸った。通学路の風景や友人との何気ない会話を思い浮かべる。すると不思議と体の力が抜けた。


「うん、その感じ。目線、少しだけ外そう」


 シャッター音がリズムを持ちはじめる。緊張は完全には消えないが怖さは薄れていった。


 撮影が終わる頃、筒井はモニターを指して言った。


「初めてにしてはすごくいいよ。素直さが写ってる」


「夏葉さん、よかったです。思った通りでした」


 玲子が続く。その言葉に胸の奥がじんわりと温かくなる。


 スタジオを出たとき、夏葉はまだ実感のない未来を思いながらも確かに一歩を踏み出したのだと感じていた。カメラの前で過ごした数時間は、夏葉の日常に静かだが確かな変化を刻んでいた。






 発売日だと聞いていた朝、夏葉はいつもより少し早く家を出た。駅前のコンビニに入るだけなのに心臓が落ち着かない。雑誌棚の前に立つとカラフルな表紙が並んでいて、一瞬どれが目的のものか分からなくなった。だが、視線を少し下に移したとき不意にそれは現れた。


 見慣れたようで見慣れない自分の写真。


 思わず息を止める。写真の中の彼女は、確かに自分なのにどこか遠い存在のように見えた。撮影の日の緊張もシャッター音もすべてが紙の上に閉じ込められている。


「本当に載ってる……」


 小さく呟いてようやく現実だと理解する。


 雑誌を手に取る指先が少し震えていた。レジに向かう間、周囲の人たちがこの雑誌をどう見ているのか急に気になってしまう。誰も自分に気づくはずがないのに、胸の奥がそわそわして落ち着かない。


 家に帰り自分の部屋でページを開く。写真の配置、文字のデザイン、記事の流れ。その中に自分が自然に溶け込んでいることが不思議だった。特別扱いされているわけではない。それなのに確かにここにいる。

 鏡の前に立って雑誌と自分を見比べる。制服姿の自分と誌面の中の自分。その差に少しだけ戸惑い、少しだけ誇らしくなる。母に見せると「頑張ったね」と穏やかに笑われ、その一言で胸が熱くなった。


 学校ではまだ誰にも言っていない。いつもの教室、いつもの席、いつもの友人。何も変わらない日常が逆に安心できた。






 それから数か月かけて少しずつ名前が知られるようになった。SNSのフォロワーが増え、次の撮影、また次の仕事へと繋がっていく。学校では相変わらず友人と笑い合いテストにため息をつく日々だが、街の景色は確実に変わりはじめていた。


 ある日、事務所から渡された台本はテレビドラマのものだった。数枚の紙をホチキスで留めた台本。表紙にはドラマのタイトルと話数、そして小さく役名が印字されている。役名はあったが台詞は二行だけ。それでも夏葉は何度もページをめくっては戻し、そして文字を指でなぞった。画面の端に映る自分を想像するだけで胸が熱くなる。


「これがドラマの台本……」


 声に出すと急に現実味が増した。撮影日は来週。場所は都内のスタジオ。説明を受けながら頷いていたが頭の中は追いついていない。帰り道、台本を胸に抱えながら歩く速度がいつもより少し遅くなった。


 撮影当日。まだ空が完全に明るくなる前に家を出る。電車の窓に映る自分の顔は緊張で少し強張っていた。スタジオに着くと入口には大きな機材車が並び、スタッフが慌ただしく行き交っている。受付で名前を告げると控室へ案内された。


「おはようございます」


 初めて使う挨拶に声が少し裏返る。控室には同じような年頃の出演者もいれば、明らかに経験を積んだ俳優もいた。夏葉は端の椅子に座り台本を開く。知っている顔がいないことに少しだけほっとする。


 衣装に着替えヘアメイクを済ませるとスタッフが声をかけてきた。


「次、立ち位置確認します」


 セットに入った瞬間、空気が変わった。作り物の街並み、計算された光、無数のコード。テレビで見ていた世界が目の前に広がっている。監督がモニター越しに夏葉を見て言った。


「緊張してる? 大丈夫、自然でいいからね」


 頷きながらも足元が少しふらつく。共演者に挨拶をし立ち位置に立つ。カメラが向けられると胸の奥がきゅっと縮まった。


「じゃあ、いきます。本番」


 カチン、という音と同時に世界が静まる。


 台詞は覚えてきたはずなのに、最初のテイクでは声が思うように出なかった。監督がすぐに声をかける。


「今の悪くないけど、もう少しだけ力抜こう」


 深く息を吸い次のテイクに臨む。相手役の俳優が自然に目線を合わせてくれ、そのおかげで言葉が流れた。


「カット。OKです」


 その一言で全身の力が抜けた。自分でも気づかないうちに肩に力が入っていたらしい。


 待ち時間は思った以上に長かった。椅子に座り水を飲みながら他のシーンの撮影を眺める。プロの俳優たちが何度も同じ台詞を繰り返し、細かく調整していく姿にただ圧倒された。


 夕方、最後のカットが終わる。


「以上で本日終了です。お疲れさまでした」


 その声を聞いた瞬間、胸に溜まっていた緊張が一気にほどけた。着替えを終えてスタジオを出ると外はもう夕暮れだった。朝入ったときと同じ場所なのに景色が違って見える。


 駅へ向かう道、足取りは不思議と軽かった。端役で映る時間も短い。それでも確かにこの場所に立ちカメラの前で息をした。その事実が夏葉の中で静かに、しかし確実に積み重なっていた。






 教室は昼休みのざわめきに包まれていた。寿々がつむぎの方へ身を乗り出す。


「ねぇ、つむぎ。昨日のドラマ見た?」


「え? 見てないけど。何、面白かった?」


 寿々は一瞬、言葉を選ぶように唇を噛んだあと小声で続けた。


「……出てたんだけど」


「誰が?」


「……あの子」


 寿々の視線が教室の前方を向く。そこにはいつも通りの表情で友達と話している同じクラスの山口夏葉がいた。昨日、画面の端で確かに見た顔。


「は? 出てたって……エキストラとか?」


「ううん、ちゃんと台詞あった。二言くらいだけど」


 つむぎは目を丸くする。


「え、マジで? あの子、モデルやってるって噂は聞いたことあるけど……ドラマ?」


「でしょ。私も最初似てるだけかと思ったんだけどさ」


 寿々はスマホを取り出し画面を見せる。


「ほら、このシーン。録画した」


 つむぎが覗き込むと、小さな画面の中で制服姿の彼女が一瞬映る。


「……ほんとだ」


 その瞬間、後ろの席から声が飛んできた。


「ねぇねぇ、今その話してる?」


 振り返ると、同じクラスの千明が興奮気味に椅子を引いて近づいてくる。


「やっぱり気づいた!? 私さ、CM明けで『え!?』ってなったんだけど!」


 寿々は苦笑いする。


「だよね。普通に同じクラスにいるから逆に信じられなくて」


 つむぎは画面をもう一度見てから前方の席を見る。本人はまだ気づいていないようで友達と笑っておしゃべりしている。


「本人、何も言ってないよね」


「言ってない。雑誌のときもはっきりは言わなかったし」


 すると、ちょうど夏葉が席を立ち教室後方へ歩いてきた。つむぎと寿々、千明の視線が一斉に集まる。


「……なに?」


 夏葉は不思議そうに首を傾げる。寿々が意を決したように言った。


「昨日のドラマさ……出てたよね?」


 一瞬空気が止まる。夏葉は目を瞬かせ、それから小さく息を吐いた。


「……バレた?」


 千明が身を乗り出す。


「そりゃバレるって! 普通に顔映ってたし!」


 つむぎは慌てて手を振る。


「あ、いや、別に責めてるとかじゃなくて……ただ、びっくりして」


 夏葉は少し照れたように笑う。


「うん、分かってる。言うタイミングなくて。端役だし、大したことじゃないから」


 寿々は首を横に振る。


「大したことあるよ。だってドラマだよ?」


「そうかな……撮影も一日だけだったし」


「それでもすごいって」


 千明が即答する。


 つむぎは改めて夏葉の顔を見る。昨日までと何も変わらない同じクラスメイト。でも、画面の向こう側に立っていた姿を知ってしまった今、少しだけ距離感が違って見えた。


「……なんか……不思議だね」


 つむぎの言葉に夏葉は小さく頷く。


「うん。自分でもまだ実感ない」


 チャイムが鳴り昼休みの終わりを告げる。教室に戻る流れの中で寿々がぽつりと言った。


「次、出るときは教えてよ。ちゃんと見るから」


 夏葉は少し困ったように、でも嬉しそうに笑った。


「そのときは……たぶん、言うと思う」


 いつもの教室。いつもの日常。その中にほんの少しだけ混じった非日常が、静かに、確かに広がっていた。






 最初のドラマが放送されてからしばらくの間、夏葉の日常は驚くほど変わらなかった。教室では相変わらず同じ席に座り、テスト前にはため息をつき、つむぎや寿々、他のクラスメイトと他愛のない話をする。ドラマに出たこともあの日少し話題になったきりで、誰かに特別扱いされることもなかった。そのことに夏葉自身はどこかほっとしていた。


 けれど、変化は静かに見えないところで起きていた。


 事務所に呼ばれたのはドラマ放送から一か月ほど経った頃だった。佐々木玲子が資料を広げながら淡々とした口調で言った。


「前回のドラマを見たプロデューサーさんから名前が挙がってます」


 夏葉は一瞬、言葉の意味が分からなかった。


「挙がってる……?」


「ええ。役はまだ確定じゃないですが、次の連続ドラマで準レギュラーの候補としてオーディションに呼ばれています」


 端役はたった一日の撮影だった。台詞も少なく名前がクレジットに流れるのも一瞬。それでも画面の中の自然な立ち姿や緊張を隠しきれない表情が、ある人の目に留まっていたらしい。


 オーディション当日、夏葉は前回よりもずっと緊張していた。台本は数ページあり役の背景も簡単に書かれている。自分が“物語の一部”として存在する役だと思うと胸の奥がざわついた。

 演技が上手だったかと聞かれれば、胸を張って頷けるほどではない。ただ、台詞を言うとき、夏葉は初めての撮影の日と同じように「上手くやろう」とするのをやめた。友達と話すときの呼吸、誰かを見つめるときの間、自分の中にある感覚をそのまま差し出すようにした。


 数日後、事務所に呼ばれて告げられた言葉は思ったよりもあっさりしていた。


「準レギュラーでお願いします」


 一瞬、頭が真っ白になった。嬉しさよりも先に「本当に自分でいいのか」という不安が浮かぶ。それでも玲子は言った。


「前回のドラマ、ちゃんと見られてましたよ。ああいう存在感は狙って出せるものじゃないですから」


 家に帰り、机の前に座って深く息を吐く。鞄の中には新しい台本。ページの厚みがこれからの日々の重さを物語っていた。


 翌日、つむぎと寿々にその話をすると二人は同時に声を上げた。


「準レギュラー!?」


 夏葉は照れたように笑いながら少しだけ背筋を伸ばした。






 ドラマの第一話が放送された翌朝、夏葉はいつも通り制服に袖を通して家を出た。電車の中でスマートフォンを開けばドラマの話題が溢れている。タイトル名がトレンドに上がり「今期一番」「続きが気になる」という言葉が並んでいた。自分の出番はまだ少ない。それでも、画面のどこかに確かに自分がいることを思うと胸の奥がそわそわした。


 回を重ねるごとに視聴率は右肩上がりになった。物語の展開が話題を呼び、登場人物たちの関係性が深まっていくにつれて脚本にも変化が現れた。夏葉が演じる役の名前が台本の中で繰り返し呼ばれるようになったのだ。


「次の回、出番増えてます」


 ある日の打ち合わせで佐々木玲子がそう言って台本を差し出した。ページをめくると自分の台詞が思っていたよりも多い。以前なら一話に一、二度だった登場が、気づけばほぼ毎回のように書かれている。


 撮影現場でも空気が少しずつ変わっていった。最初は端に座って様子を見ていた夏葉にスタッフが声をかける機会が増える。


「次、夏葉ちゃんからいきます」


「ここ、気持ちどう思う?」


 そんな言葉を向けられるたび背筋が自然と伸びた。緊張は消えない。それでも役としてその場に立つことへの迷いは確実に減っていた。


 放送後、SNSには自分の名前や役名が書き込まれるようになった。


「あの子誰?」

「演技が自然でいい」


 そんな言葉を見つけるたび、嬉しさと同時に責任の重さを感じる。学校では相変わらずつむぎや寿々と並んで授業を受ける。ただ、放送翌日は少しだけ視線を感じることが増えた。


「昨日の回さ、めっちゃ出てたよね」


 そんな何気ない一言に夏葉は小さく笑って頷く。


「うん、たまたま」


 だが現場では、もはや“たまたま”ではなかった。脚本家が書き足したシーン、監督の提案で増えたやり取り。準レギュラーとして呼ばれたはずの役は物語に欠かせない存在になりつつあった。

 クランクインから数か月。撮影スケジュールは完全にレギュラー陣と同じになっていた。控室も、立ち位置も、扱いも変わっている。ドラマは大ヒットした。そして夏葉は、気づかぬうちに準レギュラーという枠を越え、画面の中で確かな居場所を手にしていた。






 ドラマの人気が本格的に加速しはじめた頃から、夏葉の名前は放送時間外でも目に入るようになった。SNSで検索しなくても、おすすめ欄に切り抜き動画や感想が流れてくる。最初は「演技が自然」「存在感がある」といった好意的な言葉がほとんどだった。それを見つけるたび胸の奥が少し温かくなった。


 けれど、いつの間にか違う種類の言葉が混じりはじめた。


 過剰な称賛。執拗な書き込み。同じ文面を何度も繰り返すアカウント。時間帯や場所を推測するような投稿も増え「今日は制服回だったね」「あの駅、使ってそう」といった言葉に、夏葉は画面を閉じる回数が多くなった。


 直接的に何かをされたわけではない。それでも、見られている感覚がじわじわと日常に染み込んでくる。学校へ向かう電車の中、改札を抜けるとき、校門をくぐる瞬間。誰かがスマホを向けていないか、無意識に周囲を確認する自分に気づき夏葉は小さく息を吐いた。


 事務所もその変化を見逃してはいなかった。


「最近、変な書き込み増えてきてるから」


 打ち合わせのあと、佐々木玲子はいつもより慎重な口調で言った。


「撮影の行き帰り、できるだけ一人にならないで。送迎も調整するし、学校の行き帰りも何かあったらすぐ連絡して」


 夏葉は頷いたが「大丈夫です」と言う声には以前のような軽さはなかった。


 学校では、つむぎと寿々が自然と一緒にいる時間を増やしてくれた。放課後、何気なく隣を歩く距離が近くなる。いつの頃からか三人で一緒に居ることが多くなった。


「最近さ、変なのいない?」


 寿々が小声で聞く。


「……ちょっとだけ」


 夏葉がそう答えると、つむぎは眉をひそめた。


「やっぱり。無理しないでね。何かあったら先生にも言お」


 その言葉に夏葉は救われる思いがした。自分の世界が画面の向こう側だけにあるわけじゃないと、思い出させてくれる。


 事務所ではSNSの使い方について改めて説明を受けた。コメントは基本的に見ないこと。位置情報につながる投稿は避けること。学校の話題は控えること。どれも頭では分かっているが、制限が増えるほど自分の生活が少しずつ囲われていく感覚があった。

 撮影現場でもスタッフがさりげなく周囲に気を配るようになった。出入り口の動線が変わり、休憩中も一人にならないよう声がかかる。守られている安心と同時に、もう以前のようには戻れないのだという現実が静かに胸に沈んだ。






 それは、特別な出来事のないただの平日の帰り道だった。撮影のない日で、学校が終わると夏葉はつむぎや寿々と途中まで一緒に帰った。駅前で別れ、ひとりになるのはいつも通りのことだった。夕方の空はまだ明るく、通学路には同じ制服の生徒や買い物帰りの人が行き交っている。少し前までなら何も気に留めずに歩いていた景色だ。

 最初に違和感を覚えたのは改札を出て少し歩いたところだった。


 背後に、足音があった。


 気のせいかもしれない。そう思って歩調を変えてみる。早めると足音も早くなる。立ち止まるふりをしてスマホを見ると、数歩遅れて止まる気配がした。胸の奥がひやりと冷える。


 振り返る勇気は出なかった。


 道を曲がる。住宅街に入ると人通りが一気に減った。夕方のはずなのに周囲が急に静かになる。電柱の影が長く伸び、足元が妙に心細い。


(たまたま同じ方向なだけ)


 何度もそう言い聞かせる。でも、角をもう一つ曲がったとき、その足音は確実に距離を保ったままついてきていた。息が浅くなる。手のひらがじっとりと汗ばむ。頭の中で佐々木玲子の言葉がよみがえった。


 「何かあったらすぐ人の多いところへ」


 夏葉は意識して大通りの方へ進路を変えた。コンビニの明かりが見えた瞬間、少しだけ安心する。ガラス越しに人影が見える。それでも足音は消えない。店に入ろうか一瞬迷う。そのとき後ろで靴が小さく擦れる音がした。距離が近い。


 怖い。


 心臓がうるさく鳴って耳の奥で血の音がする。何もされていない。声をかけられたわけでも、触られたわけでもない。ただ、後をつけられている。それだけなのに全身が危険信号を鳴らしていた。


 夏葉は思い切って立ち止まり――振り返った。


 数メートル後ろにフードを深くかぶった人影が立っていた。顔ははっきり見えない。ただ、こちらを見ているのは分かった。視線が確実に合った。次の瞬間、その人影は何事もなかったかのように視線を逸らしスマホを見るふりをした。


 ――!


 その言い訳をするような態度が逆に恐怖を煽った。夏葉は何も言わずすぐに歩き出した。今度は足早に。

 大通りに出ると車の音と人の気配が戻ってきた。足音は――そこで途切れた。


 家に着くまで振り返ることはできなかった。玄関の鍵を閉めた瞬間足の力が抜け壁にもたれかかる。手がまだ震えていた。


 怖かった。


 リビングで母の顔を見たとたん、張り詰めていたものが切れそうになる。何もされていない。無事に帰ってきた。それなのに喉の奥が詰まり声がうまく出なかった。


 その夜、事務所に連絡を入れると玲子はすぐに対応を約束してくれた。帰宅経路の見直し、送迎の調整、学校への共有。大人たちが動き出す音を電話越しに聞きながら、夏葉はようやく深く息を吐いた。






 放課後の教室は部活へ向かう生徒の足音が遠ざかり少しずつ静かになっていた。つむぎと寿々は机を寄せ、夏葉の様子をいつもより注意深く見ていた。どこか落ち着かない。笑ってはいるけれどどこか沈んでいるようにも見える。


「ねえ……二人に聞いてほしいことがあるんだけど」


 夏葉がそう切り出した瞬間、つむぎは背筋を伸ばした。


「なに? 急に改まって」


 夏葉は一度、息を吸ってから言った。


「この前、帰り道で……たぶん後をつけられた」


 寿々の表情が一気に変わる。


「え?」


「声かけられたとか何かされたわけじゃない。でも、ずっと後ろにいて……途中まで確実に」


 つむぎは言葉を失い、机の端をぎゅっと握った。


「それって……ストーカーだよね?」


「うん。たぶん」


 寿々は身を乗り出す。


「ちょっと待って、それいつの話? 怪我は? 無事だった?」


「大丈夫。ちゃんと家には帰れたし何もされてない」


 そう言いながらも夏葉の声は少し震えていた。つむぎはそれに気づき思わず言った。


「……怖かったでしょ」


 夏葉は小さく頷く。


「正直、かなり」


 寿々は舌打ちしそうになるのをこらえ「最悪……」と呟いた。


「なんで一人で帰ってたの。言ってくれれば……」


「ごめん。でも、その日は普通の日だと思ってたから」


 少しの沈黙のあと夏葉は続けた。


「でもね、ちゃんと事務所には連絡した。もう動いてくれてる」


「え、ほんと?」とつむぎ。


「送迎も増えるし、帰り道も見直すって。学校にも共有してくれるって言ってた」


 寿々はほっとしたように息を吐いたが、すぐに眉をひそめる。


「それでもさ……怖いよ。何もされてなくても」


「うん。でも……一人じゃないって分かったから」


 夏葉は二人を見て少しだけ笑った。


「事務所もそうだし、家族もいるし……それに、二人にも言えたし」


 つむぎは黙って立ち上がり夏葉の隣に寄り添う。


「これから、なるべく一緒に帰ろ。時間合う日は」


 寿々も頷く。


「当たり前。何かあったらすぐ言って。絶対」


 夏葉は胸の奥で固まっていたものが少しずつほどけていくのを感じた。


「ありがとう」






 学校からの帰り道、つむぎと寿々は並んで歩きながらいつもより口数が少なかった。夏葉と別れてから二人とも同じことを考えているのが言葉にしなくても分かる。


「……夏葉、大丈夫って言ってたけどさ」


 寿々が先に口を開いた。


「絶対、無理してるよね」


 つむぎは小さく頷く。


「うん。何もされてないって言い方が、逆に怖かった」


 二人とも特別に強いわけじゃない。護身術を知っているわけでも何かあったときに立ち向かえる自信があるわけでもない。ただの高校生だ。


「私たち、何ができるんだろ」


 寿々の声は少し悔しそうだった。


「一緒に帰るとか、連絡取り合うとか……それくらいしか」


「それでも、やらないよりはいいよ」


 つむぎはそう言いながらも胸の奥に引っかかる感覚を抱えていた。それだけで本当に足りるのか。


 しばらく無言で歩いていると、ふと、つむぎの頭にひとつの光景が浮かんだ。一人の女の子を中心に周りの子たちが一定の距離を空ける感じになった、その子の周りだけ丸い円のような空間ができていたあの光景。


「あ……」


 つむぎは足を止めた。


「なに?」


 寿々が振り返る。


「前にさ……一緒に校門で、ちょっと気になる子を探してって」


 寿々は少し考えてから、思い出したように目を見開く。


「あー……あのときの? 結局会えなかったよね」


「うん。でも……今、急に思い出した」


 つむぎは言葉を選びながら続ける。


「あの子、たぶん……なにか力があると思うんだ」


 冗談みたいに考えていたあの光景が、今になって現実味を帯びてよみがえってくる。


 寿々は眉をひそめる。


「え、どういうこと?」


「まだわからない。でも、あの雰囲気……うーん、うまく説明できない。でも絶対何か力を持ってるの」


 つむぎは、教室の窓から見下ろしたあの光景を鮮明に思い出す。

 寿々は少し黙り込み、それから慎重に言った。


「何かの力って……よくわからないけど、つまり……その子なら夏葉のこと何か助けられるかもってこと?」


「うん。実は私もよくわからない。だから……もう一度探そう!」


 つむぎは拳をぎゅっと握った。


「私たち、非力だよ。でも、友達として何もしないのは嫌」


 寿々はその横顔を見てゆっくり頷く。


「……探してみる?」


「うん。今度こそちゃんと」






 校門前は放課後特有のざわめきに包まれていた。部活に向かう生徒、友人同士で寄り道の相談をする声、自転車のブレーキが鳴る乾いた音。それらが混じり合い春先の少し冷たい風に乗って流れていく。

 つむぎは人の流れを避けるように門から少し離れた場所に立っていた。視線は自然と生徒たちの髪の色や背丈を追ってしまう。


 ――黒髪で、長い。


 それだけが今のところ唯一の手がかりだった。


「……あの子……じゃない?」


 隣にいた寿々が控えめに声を落とす。指差す先には人の輪からわずかに距離を取るように歩く少女がいた。制服はきちんと着ているのに、なぜか周囲と溶け合っていない。誰かが近づこうとすると無意識なのか歩調がずれて空間が空く。


 つむぎの胸がわずかに跳ねた。理由は分からない。ただ視線が離れなかった。


「……行こう」


 そう言った声は自分でも驚くほど静かだった。二人が近づくにつれて周囲の空気が変わったような気がした。はっきりとした違和感。足取りがほんの一瞬だけ重くなる。寿々もそれを感じたのか無意識につむぎの袖を引いた。


 少女は二人の存在に気づくと足を止めた。長い黒髪が風に揺れる。その顔は思っていたよりも幼く、けれど表情はどこか硬かった。


「……何か用ですか」


 距離はまだ二メートルほどある。それ以上近づくのを体が拒んでいるような感覚。

 つむぎは一度深く息を吸った。


「あの、突然ごめんなさい。ちょっと……相談、したいことがあって」


 少女の眉がわずかに動く。警戒と戸惑いが混じった視線がつむぎと寿々を交互に行き来した。


「人違いじゃ……」


「名前も、まだ知らないんです」


 つむぎは正直に言った。それがかえって意外だったのか、少女は言葉を失ったように黙り込む。


 校門から少し離れた場所なのになぜかここだけ音が遠い。少女は一歩無意識に後ずさった。その瞬間つむぎの足先に見えない壁のようなものが触れた気がした。


 ――やっぱり。


 確信めいたものが胸の奥で形になる。


「ここだと落ち着いて話せないですよね」


 寿々が柔らかく割って入った。声の調子はいつも通りなのに距離を詰めようとはしない。あくまで相手の選択を待つ姿勢。


「近くに公園があるんです。もし嫌じゃなければそこで少しだけ」


 少女はしばらく黙っていた。逃げることもできたはずなのに足は動かなかった。


「……短時間なら」


 小さく、そう答える。


 三人は並んで歩き始めた。自然と少女は端を歩く。二人との間には微妙な隙間が空いている。

 公園は校門から五分ほどの場所にあった。遊具は少なく、古いベンチが二つ並んでいるだけの静かな場所。夕方の光が砂地に長い影を落としている。


「ここで大丈夫ですか?」


 寿々がそう尋ねると少女は小さく頷いた。

 三人でベンチに腰を下ろす。やはり間には少し距離がある。それでも先ほどよりは近い。


 つむぎは横顔を盗み見る。伏せられた視線、組まれた指先。その姿は何かを守るようで、同時に誰かを遠ざけるようでもあった。


「……改めて。私、つむぎです。岡田つむぎ」


「中川寿々です」


 名乗られた少女は一瞬迷ってから口を開いた。


「……堤、美礼」


 その名前を聞いた瞬間、胸の奥で何かが静かに音を立てた。探していた相手だ、と。理屈ではなく感覚がそう告げていた。






 公園は放課後の時間帯にしては静かだった。遊具のそばでは小さな子どもが走り回っているが、奥まった場所にあるベンチまでは声も届かない。


 最初に口を開いたのはつむぎだった。


「急に声かけてごめんね。驚いたよね」


 美礼は小さく首を振る。


「……いい」


 それだけ言ってまた黙り込む。その沈黙を壊すように寿々が少し軽い調子で続けた。


「怪しい者じゃないよー、ほんとに。ただの先輩」


「寿々」


 つむぎが小さくたしなめる。それから、改めて美礼の方を向いた。


「実は、相談があって」


 美礼の視線がほんの少しだけ動いた。


「友達がね、ストーカーみたいな被害に遭ってて」


 言葉を選びながらつむぎは続ける。


「尾行されたり、待ち伏せされたり……警察に行くほどじゃないって言われたけど、でも、怖くて」


 寿々も、さっきまでの軽さを消して頷いた。


「最近、ずっと怯えてるの。放っておけなくて」


 美礼は膝の上で指先を絡める。その仕草が少しだけ強ばったように見えた。


「それで……」


 つむぎは一度息を吸った。そして、美礼をまっすぐに見つめる。


「あなた、結界がはれるんでしょ?」


 一瞬、時間が止まったような空気になった。


「……は?」


 声を上げたのは寿々だった。


「ちょ、ちょっとつむぎ!? なに言ってんの?」


 寿々は慌てて美礼の方を見る。


「ごめんね、この子、たまに変なこと言うの。アニメの見すぎっていうか……」


「寿々」


「だって! 結界って!」


 寿々は半ば本気で困惑している様子だった。


「そんなの、現実にあるわけないでしょ。ね?」


 同意を求めるように美礼を見る。けれど、美礼はすぐには答えなかった。

 しばらく黙ったまま前を見つめている。つむぎも、寿々も、何も言わずに待った。


 やがて美礼がぽつりと口を開く。


「……結界は、張ってない」


 その声は小さく、けれどはっきりしていた。


「私は、そんな大したこと、できない」


 寿々が眉をひそめる。


「……え?」


「周りを守ったり、閉じ込めたりするようなものじゃない」


 美礼が視線を落とす。


「ただ……人が、近づかないだけ」


 その言葉につむぎの胸が静かに鳴った。


「近づかない……」


「嫌われてるとか、そういうのじゃない」


 しばらく三人の間に沈黙が落ちた。遠くでブランコが軋む音だけが規則的に響いている。


「……嫌なの」


 美礼がぽつりと言った。二人は同時に顔を上げる。


「人が、近づくのが」


 それは、告白というより事実の確認のような口調だった。


「理由とか、ない。昔から……気づいたら、そうなってた」


 寿々は息を呑む。つむぎは何も言わずに続きを待った。


「近づかれると、落ち着かなくなる。息が詰まる感じがして……」


 美礼は自分の胸元を軽く押さえた。


「だから、無意識に……遠ざけてるんだと思う」


「遠ざけてる?」


 寿々が思わず聞き返す。


「……うん」


 美礼は小さく頷いた。


「“来ないで”って思うと、ほんとに来なくなる。触れられない距離で、止まる」


 寿々の中で常識がきしむ音がした。


「それって……いや、でも……」


「結界、じゃないよ」


 美礼はつむぎの方を見ずに言った。


「囲ってるわけでも、守ってるわけでもない」


 つむぎは静かに問いかける。


「じゃあ……近づかせない、だけ?」


「うん」


 短い肯定。


「ただ、人を、遠ざけてるだけ」


 寿々は頭を抱えたくなった。


「ちょっと待って。それってさ……すごくない?」


「すごくない」


 即答だった。


「……それでも、使ってるのは」


「使ってるっていうか……」


 美礼は少し考えてから言った。


「守ってるだけ。自分を」


 その言葉はとても静かで、でも揺るぎがなかった。


 寿々はもう否定できなかった。アニメとか妄想とか、そういう言葉で片づけられない“現実”が目の前に座っている。


「じゃあさ……」


 寿々が慎重に口を開く。


「その力で誰かを守ることは……」


 美礼の肩がほんのわずかに強張った。


「やったこと、ない」


 それだけで十分だった。


 つむぎは深く息を吸う。

 お願いはしない。

 無理強いもしない。


「……私たちの友達ね」


 ゆっくりと言葉を選ぶ。


「怖くて、誰にも近づかれたくないって言ってた」


 美礼の指先がきゅっと握られる。


「もし……もし、でいい」


 つむぎは真っ直ぐに美礼を見た。


「その“近づかせない力”を、少しだけ貸してもらえないかな」


 答えはまだ分からない。でも、美礼は初めて逃げずにこちらを見返していた。






 夏葉の家は住宅街の中にあった。夕方の空気がまだ少し明るさを残していて、玄関先の植木に長い影を落としている。


「ここだよ」


 つむぎがそう言って足を止めると、美礼は一歩遅れて立ち止まった。


 家、という言葉にほんの一瞬だけ表情がこわばる。けれど何も言わずに頷いた。


「無理そうだったら、すぐ帰ろ」


 寿々が小声で言うと、美礼は「大丈夫」と短く答えた。


 インターホンを押す。数秒後、扉が開いて夏葉が顔を出した。


「……来てくれたんだ」


 つむぎと寿々に向けた笑顔が途中で止まる。視線が美礼に移った。夏葉の身体がわずかに後ずさる。その反応を美礼は見逃さなかった。


(……強すぎる)


 心の中でそう思う。無意識に広がりかけた“来ないで”という感覚をぐっと押しとどめた。


 ――大丈夫。

 ――今は必要ない。


「初めまして」


 美礼はゆっくりと頭を下げた。


「……堤、美礼です」


 距離は保たれている。けれど拒まれてはいない。夏葉は戸惑いながらも玄関を開けたまま立っていた。


「……どうぞ」


 その一言につむぎはほっと息を吐いた。


 リビングに通され、四人は向かい合って座った。空気が少しだけ重い。夏葉は美礼を見て、また目を逸らす。近づきたいのに身体がそれをためらっている。


「……変な感じ、するよね」


 夏葉が正直に言った。


「嫌じゃないんだけど……近づこうとすると、止まる」


 美礼は膝の上で手を重ねた。


「……ごめん」


「え?」


「今、ちょっと……出てる」


 つむぎと寿々が息を呑む。


「でも、弱められる」


 美礼はそう言って目を閉じた。


 ――来ないで、じゃない。

 ――少しだけ、離れて。


 思いを細く、慎重に整える。すると夏葉の肩の力がふっと抜けた。


「あ……」


 夏葉は驚いたように自分の手を見る。


「……さっきより、楽」


 寿々が思わず身を乗り出す。


「それ……自分で調整してるの?」


「……うん」


 美礼は小さく頷いた。


「ずっと、一人のときに練習してた。強くしすぎると……誰も、近くにいなくなるから」


 部屋に静かな沈黙が落ちる。


 つむぎはゆっくりと立ち上がった。


「……じゃあさ」


 美礼の前に立ち手を差し出す。


「試してみてもいい?」


 美礼はその手を見る。少し迷ってからそっと自分の手を重ねた。


 拒絶は起きなかった。


 夏葉がその様子を見つめる。


「……私も」


 そう言って恐る恐る近づく。美礼はつむぎの手を握ったまま意識を集中させた。


 ――来ないで、じゃない。

 ――この人は、守る。


 夏葉の手が美礼のもう一方の手に触れる。その瞬間、夏葉ははっきりと感じた。


 怖さが遠のく。

 背後の気配が想像の中から消えていく。


「……これ」


 夏葉の声が震えた。


「守られてる……気がする」


 美礼は目を伏せたまま静かに答えた。


「……たぶん」


 確信はない。でも、逃げていない。


「手、つないでる間だけなら……できるかもしれない」


 その言葉につむぎと寿々は顔を見合わせた。小さくて、不確かで、それでも確かな希望だった。


 撮影現場までの送迎はほとんど事務所が手配してくれていた。車で迎えに来て、仕事が終わればそのまま家まで送ってくれる。少なくともその間は安心だった。問題は学校だった。


「……正直言うとね」


 夏葉がぽつりと言った。


「行きはまだいいんだけど。帰りがちょっと怖い」


 つむぎと寿々は黙って頷く。そういう何気ない言葉の方がとても深刻に感じた。


「校門出たあととか……人は多いのに逆に逃げ場がなくて」


 美礼は黙って話を聞いている。


「……じゃあ」


 つむぎが言った。


「いつも一緒に帰ろ」


 寿々がすぐに続く。


「どうせ方向一緒だし。ね?」


 夏葉は少し驚いたように二人を見る。


「でも……」


 その視線が美礼に向く。


「……いいの?」


 美礼は一瞬言葉に詰まった。人と一緒に歩くということ自体が彼女にとっては簡単じゃない。それでも小さく頷いた。


「……強くしなければ、大丈夫」


“来ないで”じゃなくて、

“離れすぎないで”


 そう思えばいい。






 それから四人での登下校が始まった。朝は校門で待ち合わせて並んで歩く。美礼は夏葉の隣に立ち、ほんの少しだけ距離を保つ。


 誰もぶつからない。

 誰も近づきすぎない。


 でも、不自然なほど離れているわけでもなかった。


「……ねえ」


 ある朝、夏葉が小さな声で言った。


「今日、平気」


 美礼はそれを聞いて少しだけ気持ちを緩める。周囲の気配が柔らかくなる。

 寿々が後ろから小声で囁く。


「今の、分かる?」


「……うん」


「すごいね」


「……すごくない」


 いつも通りのやり取りだった。


 帰り道は少しだけ慎重になる。人通りの多い通りでは美礼は夏葉の手首にそっと触れる。つなぐほどじゃない。ただ、そこにいると分かる程度。その瞬間、夏葉の背後にあった張りつめた感覚が薄れる。


「……今日も、来なかった」


 家の前まで来て夏葉が言う。


「うん」


 美礼は短く答える。無理はしていない。ちゃんとコントロールできている。それでも、毎日少しずつ疲れは溜まっていく。美礼は軽くひたいをこすっていた。

 つむぎはそれを見逃さなかった。


「……今日はここまででいいよ」


「え?」


「美礼、顔に出てる」


 寿々も頷く。


「無理して守る役、続けなくていいからね」


 美礼は少し考えてから言った。


「……でも」


「“でも”じゃない」


 つむぎが優しく言う。


「一人でやらないって、決めたでしょ」


 美礼は視線を落として、それから小さく「うん」と答えた。それは特別な作戦でも完璧な解決でもなかった。


 ただ、

 誰かと並んで歩くこと。

 誰かの隣に立つこと。


 それだけで夏葉の世界は少しずつ安全になっていった。

 そして美礼もまた“人を遠ざける力”を初めて「誰かを守るため」に使っていた。






 その日はいつもと変わらない下校のはずだった。校門を出て人の流れに乗る。夕方の光がアスファルトに長い影を落としている。


 美礼はいつも通り夏葉の隣を歩いていた。

 距離はほんの少し。

“来ないで”を薄く一定に保つ。


 ――平気。


 そう思った瞬間だった。ぞくり、と背中に何かが触れた気がした。


(……見られてる)


 はっきりした根拠はない。けれど、間違いなく“強い視線”がある。

 美礼は視線を上げずに意識だけを巡らせた。


 ――右、斜め後ろ。

 ――距離は……遠い。


 感覚的に十メートル以上。

 自分の“届く範囲”の外側。


 夏葉も異変に気づいていた。


「……いる」


 小さな声。

 足取りがわずかに硬くなる。

 寿々が気づいたように周囲を見渡す。


「どこ?」


 美礼は短く答えた。


「……電柱の向こう」


 人混みに紛れてはっきりとは見えない。けれど、そこから視線が伸びてくるのが分かる。

 つむぎが歯を食いしばった。


「……近づいてこないね」


「うん」


 美礼の声は低い。

 視線はある。でも、距離を詰めようとしない。美礼は無意識に“来ないで”を強めかけてすぐに止めた。


(……意味ない)


 十メートル。

 それが今の限界だった。


 寿々が焦ったように言う。


「じゃあ、どうするの? いるって分かってるのに……」


 何もできない。

 それが一番怖い。


 夏葉は唇を噛みしめていた。


「見られてるだけで……こんなに嫌なんだ」


 声が震える。


 つむぎは周囲を見回しながら必死に考える。


「……逃げる?」


「下手に走ると目立つ」


 美礼が言う。


「それに……ずっと、見られる」


 視線は途切れない。一定の距離を保ったままこちらの動きに合わせてついてくる。


「警察……」


 寿々が呟くがすぐに首を振る。


「でも、今この瞬間じゃない、って言われるよね」


 四人の間に重い沈黙が落ちた。


“いる”と分かっているのに“何も起きていない”から動けない。


 美礼はぎゅっと拳を握った。


「……見えるのに」


 届かない。

 追い払えない。


 自分の力は万能じゃない。


「……私が、悪い」


 思わず漏れた言葉につむぎが即座に反応した。


「違う」


「でも……」


「違うよ、美礼」


 つむぎは強く言った。


「これは“どうするか”を考える場面であって“誰のせいか”を決める場面じゃない」


 寿々も頷く。

 夏葉は深く息を吸った。


「……まだ、見てる?」


 美礼は静かに答える。


「……見てる」


 四人は立ち止まらずに歩き続ける。


 見えない糸で繋がれたような張りつめた距離のまま。

“退治できない敵”がいるという現実を、全員が同時に理解していた。






 事務所の会議室は夕方の光がブラインド越しに斜めに差し込んでいた。テーブルの上には広げられた数枚の資料と、まだ半分も減っていない紙コップのコーヒー。


「……正直、まだ“事件”ってほどじゃないのよね」


 佐々木玲子はそう前置きしてから、ため息混じりに続けた。


「後をつけられた気がする、視線を感じる、SNSが気持ち悪い……。どれも決定的じゃない。でも、本人は確実に怯えてる」


 向かいに座る立花は、腕を組んだまま静かに頷いた。三十代後半、私服姿でも警察の人間だと分かる独特の落ち着きがある。玲子の大学時代の同期であり友人だ。


「よくあるパターンだな。証拠が出揃う前のいちばん厄介な時期」


 玲子は眉を寄せる。


「だから今のうちにできることがあればって思って」


 立花は少し考えてから言った。


「俺、今は刑事だけど所轄じゃないから動きやすい。張り込みとか露骨なのはできないけど“それっぽい”人間を探すくらいならできる」


「それだけでも助かるわ」


 玲子はほっとしたように肩の力を抜いた。


「学校の行き帰りが一番心配で。撮影現場は送迎があるからいいけど……」


 そのときだった。


 玲子のスマートフォンが短く震えた。


「……あ」


 画面を見た瞬間、彼女の表情が変わる。


「どうした?」と立花。


 玲子は一瞬迷い、それからスマホをテーブルに置いて画面を見せた。


  │ いま、ストーカーがいる

  │ 近くには来てないけど

  │ 見られてる感じがする

  │ 何とかできないかな?


 送信者は夏葉。室内の空気がぴんと張りつめた。


「……リアルタイムか」


 立花は低く呟き、すぐに姿勢を正す。


「場所は?」


「まだ来てない……聞くわ」


 玲子は素早く返信を打つ。


  │ 今どこ?

  │ 誰か一緒?


 数秒後、返事が返ってきた。


  │ 友達と一緒

  │ 学校からの帰り道

  │ 遠くにいる感じ


 立花はその文面を見てゆっくり息を吐いた。


「遠く、ね……。近づいてこないってのが逆に厄介だな」


「でも、見てるって確信があるのよね」


「たぶん様子見だ。相手も警戒してる」


 立花は立ち上がりジャケットを手に取った。


「場所、もう少し詳しく聞ける?」


「え、今から行く気?」


「行ける距離ならな。顔を見せるだけでも抑止にはなる」


 玲子は一瞬だけ逡巡したが、すぐに頷いた。


「お願い。無理はしないで」


「無理はしない。仕事だから」


 そう言って立花はスマホを取り出しながら続ける。


「それに……今日、何も起きなくても“何かが起きかけた”って事実は残る。そこからだ」


 玲子はスマホを握りしめ、画面の向こうにいる夏葉を思った。






 立花が現場に着いたのは日が完全に落ちきる直前だった。駅前の喧騒から少し外れた商店と住宅が混じる通り。人通りはあるが足を止めて誰かをじっと見る者はいない。

 通りの向こう側、カフェの軒先の影には同じく現場に着いた佐々木玲子の姿があった。スマホを耳に当て、通話しているふりをしながら周囲を観察している。夏葉に直接近づくつもりはない。ここで自分の顔を見せることが、逆に相手を刺激する可能性を玲子は理解していた。


(立花、お願いね)


 一方その頃、夏葉たちは本来の帰宅ルートを外れてあてもなく街中を歩いていた。ショーウィンドウを眺めたり、自販機の前で立ち止まったり。目的が無いように見せかけて全員が神経を張り詰めている。


「……まだ、いる」


 ぽつりと美礼が言った。声は低く確信に近い。


「どこ?」と寿々。


 美礼は視線を動かさないまま答える。


「右斜め後ろ。距離は……二、三十メートルくらい。来ない。でも、ずっと見てる」


 つむぎは思わず拳を握った。


「ほんとに近づいてこないんだね……」


「うん。でも、視線が切れない」


 夏葉は何も言わず背中にまとわりつく感覚を必死にやり過ごしていた。誰かと一緒にいるのにひとりでいるみたいな嫌な感覚。


 そのときだった。


 通りの反対側からゆっくりと歩いてくる男がいた。私服姿。周囲と溶け込むような歩き方だが目線だけは確実に四人を捉えている。


 立花だった。


 美礼が小さく息を吸う。


「……あの人。こっち見てる」


「大丈夫」とつむぎが囁く。

「たぶん来てくれた人」


 立花は四人の横を通り過ぎる瞬間、ごく自然に目を合わせ小さく頷いた。それだけで十分だった。

 そして次の瞬間。立花は歩く方向を変え一本裏の細い路地へと入っていく。


 そこに――いた。


 電柱の影。ビルの壁に寄りかかるように立つ一人の男。スマホを手に持ちながら画面は見ていない。視線だけが通りの先を追っている。

 立花は数歩の距離まで近づき足を止めた。


「すみません」


 男の肩がわずかに跳ねる。


「ちょっとお話いいですか」


 男は一瞬だけ逃げ道を探すように視線を泳がせたが、すぐに取り繕うようにスマホを掲げた。


「あ、いや……人、待ってるだけですけど」


 立花は穏やかな口調のまま一歩踏み込む。


「ここ、さっきからずっと同じ場所ですよね。通行の邪魔になるわけじゃないけど……気になりまして」


 男の喉がごくりと鳴る。


「別に、見てただけで……」


「誰を?」


 その一言で空気が凍りついた。


 男は答えない。だが、その沈黙が十分すぎるほどの答えだった。


 少し離れた場所で、玲子はその光景を見つめていた。まだ踏み込みすぎない。だが確実に線は引かれた。

 そして通りの向こうでは、夏葉たち四人はそんな状況を知らないまま歩き続けている。

 守る側、見つめる側、見られる側。それぞれの距離が初めて「動いた」瞬間だった。






 男が一歩後ずさった。そして次の瞬間、踵を返して走り出そうとした。


「……待て!」


 立花の声が飛ぶ。同時に男の腕を掴み体重をかけて地面に引き倒した。鈍い音とともに男の体が舗道に叩きつけられる。


「離せ! 違う、俺は……!」


「暴れないで。抵抗すると余計まずいですよ」


 低く、しかし迷いのない声。立花は男の背中に膝を当て素早く腕を後ろに回させる。通行人がざわめき数人が足を止める。遠くから見ている玲子が息を呑む。


「ちょっと、何するんだ……」


 男はまだ何か言おうとしていたが、立花は構わずリュックを外した。


「任意で確認させてもらいます」


 ファスナーを開けた瞬間、立花の表情が変わる。中から出てきたのはタオルに包まれた細長い影。それをほどくと街灯の光を反射して刃が鈍く光った。


「……果物ナイフか」


 周囲の空気が一気に冷えた。


 男は黙り込む。言い訳も、抵抗も、そこで止まった。


「正当な理由は説明できますか?」


 答えはない。立花は短く息を吐き無線に手を伸ばした。


「応援要請。現行犯で身柄確保。刃物所持あり」


 数分後、パトカーが到着し男はそのまま警察署へ連行されていった。通りは何事もなかったかのように少しずつ日常が戻っていく。

 その様子を、少し離れた場所から見届けていた玲子がようやく歩き出した。夏葉たち四人の前に立つと、玲子はできるだけ落ち着いた声で言った。


「……もう大丈夫よ」


 夏葉が顔を上げる。


「え……?」


「ストーカー。今、刑事が捕まえた」


 一拍遅れて、その言葉の意味が染み込んでくる。


「捕まえ……た?」


 寿々が声を震わせる。


「うん。刃物も持ってた。だから、ちゃんと警察で対応してもらえる」


 その瞬間、夏葉の足から力が抜けた。

 つむぎが慌てて支える。


「夏葉……」


「……よかった……」


 声は小さく、ほとんど息だった。

 玲子は四人を見渡し、ゆっくりと言った。


「今日はもう帰りましょう。誰も一人にはしない」






 ――その時だった。


 エンジンを無理やり吹かすような異様な音がした。


「……?」


 つむぎが振り返るより早く寿々が叫んだ。


「危ない!!」


 視界の端から車が突っ込んでくる。

 歩道も人も関係ない、一直線の軌道。


 ――まずい。


 そう思った瞬間、世界が急に遅くなった。


 ドンッ――!!


 耳を裂くような衝撃音。


 つむぎの体はふわりと宙に浮いた。

 痛みはない。

 重さもない。

 ただ、投げ出された感覚だけがやけに静かだった。


(……飛ばされた?)


 回転しながら、つむぎは現場を見下ろしていた。まるでスローモーション映像のように。


 そこに――あった。円形の何もない空間。


 中心に立っていたのは美礼だった。そして、その手を強く握られている夏葉。

 美礼の表情は驚いていなかった。目を伏せ、歯を食いしばり、ただ――必死だった。


 「来ないで」


 声は聞こえない。でも、確かにそう“思っている”のが伝わってくる。

 二人を中心に、見えない何かが外へと押し出されていた。


 つむぎも、寿々も、玲子も。

 全員が同じ距離でバラバラに弾き飛ばされている。


 円の“端”。


 そこには、無残にひしゃげた車があった。フロントガラスは粉々に砕け、ボンネットは歪み、まるで見えない壁に正面から衝突したかのように止まっている。


(……守った?)


 つむぎの胸に遅れて感情が流れ込んでくる。

 妄想でも錯覚でもない。

 美礼は“来ないで”という意思だけで世界に円を描いた。


 次の瞬間、時間が元の速さに戻った。体が地面に叩きつけられ息が詰まる。悲鳴、ブレーキ音、ガラスが砕ける余韻。


「……っ、つむぎ!!」


「だ、大丈夫……!」


 混乱の中で、つむぎは真っ先に二人を見る。

 美礼はまだ夏葉の手を離していなかった。震える指で、ぎゅっと、ぎゅっと。


 夏葉は呆然と立ち尽くしている。


「……今の……?」


 美礼は答えなかった。ただ小さく息を吐いて、力が抜けたように膝を折りそうになる。

 円はゆっくりと消えていった。でも、その余韻だけが確かにそこに残っていた。


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