斥力の少女 第三章
美礼たちはいつもの日常に戻っていた。校舎の廊下、放課後のざわめき、窓から差し込む午後の光、あの旅が嘘だったみたいに世界は何事もなかったかのように回っている。
夏葉は相変わらず忙しかった。ありがたいことに仕事は途切れず、また新しいドラマへの出演も決まったらしい。それでも「学業優先」というスタンスは変わらず、撮影で休むことはあっても学校にはできるだけ顔を出していた。
「ほんと、よく両立できるよね」
昼休み、つむぎが感心したように言うと夏葉は少し照れたように笑う。
「まあね。でも、学校来ると落ち着くの。普通でいられるから」
つむぎ、寿々、夏葉はもう高校三年生だった。受験勉強を本気で考えなきゃいけない時期――のはずなのに、三人ともどこかのんびりしている。
「紫陽花女子大でいいよね、って話はしてるけどさ」
寿々がそう言ってから、ちらりとつむぎを見る。
「でもさ、大分行ってからちょっと考え変わった」
「……宇佐大学?」とつむぎ。
「うん。研究室とか見て、なんかさ、ちゃんと“学ぶ場所”って感じして」
つむぎも頷く。
「わかる。今まで女子大って漠然と思ってただけだったけど研究してる人たち見たら、ああいう世界もありだなって思った」
「理系とか考えたことなかったけど、専門的なことをちゃんと学ぶの悪くないなって」
二人の会話を聞きながら夏葉は腕を組んで少し考え込む。
「私は……まだ決めきれないなぁ。仕事との兼ね合いもあるし、進学するかどうか自体……正直迷ってる」
「夏葉は選択肢多すぎるんだよ」
寿々が笑うと夏葉も苦笑した。
そんな三人のやりとりを、少し後ろで聞きながら美礼は黙っていた。
大学、進路、将来。今までどこか他人事だった言葉が少しだけ自分に近づいてきた気がする。
(私……この先、どうなるんだろう)
まだ具体的な形は何も見えない。この力のこと、研究所のこと。ただ「守ってるんですね」と言われたあの言葉だけは心の奥に残っている。
いつもと変わらない日常の中で、美礼は自分の未来をぼんやりと思い描いていた。
研究所の一室。薄暗い室内にモニターの青白い光だけが浮かんでいた。村田は椅子に深く腰掛け、何枚ものグラフと数値を行き来しながら頭を抱えていた。
「……意味がわからない」
思わず声が漏れる。
脳波、微弱電場、周囲のセンサー反応。どれも“異常”と断じるには決定打に欠けるのに“何も起きていない”と切り捨てるには揃いすぎている。
「この数値、どうなってるんだ???」
独り言のように吐き出したその瞬間、背後で控えめにドアが開いた。
「ほう……それは、どれの話かね?」
落ち着いた低くよく通る声。
振り返ると白衣姿の長峰博士が立っていた。研究センターでも一目置かれる存在。超自然現象とエネルギー研究の第一人者。
「あ、長峰先生……!」
村田は慌てて立ち上がり、少し間を置いてから頭を下げた。
「例の……女子高生の件かね」
「はい。報告は簡単に上げましたけど……
実際に会って、話して、測ってみて……
正直、想像してたのと全然違いました」
長峰は興味深そうにモニターを覗き込む。
「ふむ。派手なピークがあるわけでもない。だが、基線が……妙だな」
「そうなんです!」
村田は堰を切ったように語り出した。
「近づけないんです。いや“押し返される”と言った方が近い。力を出してもらうと空間そのものが……こう、柔らかい壁になる感じで……」
自分でもうまく説明できず、両手で空間を押す仕草をする。
「しかも本人はほとんど力んでいない。集中というより……開くって言うんです。眉間に力を入れるんじゃなくて、ひたいを広げる感じだって」
「ほう」
長峰は口元にわずかな笑みを浮かべた。
「で、危険性は?」
「……ありませんでした」
村田はきっぱりと言った。
「少なくとも本人に悪意はない。むしろ逆です。来ないでって思っただけで結果的に守ってしまう」
落石のこと。
事故のとき誰も怪我をしなかったこと。
近づこうとした自分だけが弾かれた感覚。
村田は研究者としての言葉と一人の人間としての実感を混ぜるように語り続けた。
「数値だけ見たら説明できません。でも……あれは確かに“何か”でした。偶然じゃない。錯覚でもない」
長峰はしばらく黙ってモニターを見つめていたが、やがて静かに言った。
「ちなみに……彼女自身はこの力を何だと思っている?」
村田は一瞬考えてから答える。
「本人は……引力の逆、みたいな感覚だと言ってました」
「引力の逆?」
「はい。引き寄せるんじゃなくて“来ないで”って思うだけ、って」
村田は苦笑いを浮かべる。
「だから、逆引力……みたいな。物理的に言えば斥力、ってことになるんでしょうけど……でも、斥力でもないんです」
「ほう」
「電磁的な斥力みたいな反発じゃない。一定距離で急に効くわけでもないし、力の減衰の仕方もどのモデルにも当てはまらない」
長峰は少し楽しそうに顎に手を当てた。
「なるほどな……」
そして、ぽつりと呟く。
「……斥力の少女、か」
その言葉は冗談のようでいて、どこか仮説のラベルのようにも聞こえた。村田は思わず笑ってしまう。
「仮称、ですね」
「仮称でいい。名前がつくと現象は急に“輪郭”を持ち始める」
長峰は再びモニターに目を戻す。
「引力でもなく斥力でもない。だが“遠ざける意志”に反応する空間……」
一瞬、研究者の顔から離れた純粋な好奇心の光がその目に宿った。
「いや……これは久しぶりに、ぞくっとする題材だ」
村田も静かにうなずく。
――斥力の少女。
その呼び名がこの先どんな意味を持つのか、この時はまだ誰も知らなかった。
数日後の午後、つむぎと寿々は紫陽花女子大のキャンパス見学に出かけることにした。
「せっかくだから美礼も来る?」
つむぎがそう言うと、美礼は一瞬迷ってから小さくうなずいた。
宇佐大学のときと同じだ。パンフレットを見るだけより、実際に歩いて、空気を吸って、音を聞く。そうすると、文字では見えなかったものがふっと立ち上がってくる気がする。
受験生向けの公開日で、構内は同じような制服姿の女の子たちでほどよく賑わっている。三人は正門をくぐり、並木道を歩き、講義棟を覗き、学生食堂の前で立ち止まった。白い壁、明るい窓、大きなガラス張りのエントランス。全体的にやわらかく落ち着いた雰囲気で、寿々は「なんか安心するね」と言った。
「ね。女子大って感じ」
「ここなら普通に通えそう」
そんな他愛のない会話をしながら、キャンパスの中央から少し外れた道へ向かう。案内図によると奥の方に旧校舎が残っているらしい。
「最後にあっちも見てから帰ろっか」
つむぎがそう言いかけた、そのときだった。
美礼の足がぴたりと止まった。
「……?」
二人が振り返るより先に、美礼自身が自分の体の異変に戸惑っていた。胸の奥がぞわりとする。皮膚の内側を冷たい空気がなぞるような感覚。
理由はわからない。音も、匂いも、見た目も、何も変わらない。
それなのに――
(ダメ)
はっきりと言葉になる前に感覚だけが先に走った。
(そっちに行っちゃ、いけない)
何があるのかも何が起きるのかもわからない。ただ「行ってはいけない」という輪郭だけがくっきりと浮かび上がる。
「……ごめん」
美礼は小さな声で言った。
「今日は、あっち行かない方がいい気がする」
つむぎと寿々は顔を見合わせた。理由を聞こうとはしなかった。
「そっか」
「じゃ、今日はここまでにしよっか」
それだけだった。美礼の“感覚”がこれまで何度も正しかったことを二人はもう知っている。
三人は来た道を引き返し、旧校舎へ続く細い道には足を踏み入れないままキャンパスを後にした。背中に何か視線のようなものを感じた気がして美礼は一度だけ振り返りそうになったが、すぐに首を横に振った。
――見なくていい。
今日はこれでいい。
そう自分に言い聞かせるように歩調を速めた。
翌朝。
つむぎは朝食のトーストをかじりながら何気なくテレビをつけていた。いつものニュース。天気、交通情報、その流れで――
『――紫陽花女子大学の旧校舎で、昨日、小規模な爆発と大量の煙が発生しました』
つむぎの手が止まった。
画面には見覚えのある校舎の外観。黄色い規制線、赤色灯を回すパトカー、白い煙もあった。
『爆発物は小型のものとみられていますが、内部には複数の発煙筒が仕掛けられていた可能性があり――』
「……え?」
思わず声が漏れる。
『煙を吸い体調不良を訴えて救急搬送された方が数名いますが命に別状はなく、けが人はいないということです』
画面のテロップには<事件性あり 警察が捜査>の文字。
旧校舎。昨日、行こうとして――行かなかった場所。
その瞬間つむぎのスマホが震えた。
寿々からだ。
│ びっくり!!!
つむぎはすぐに返信する。
│ 見てる
│ 紫陽花女子大だよね?
間髪入れず寿々から続けてメッセージが飛んでくる。
│ 旧校舎だって
│ 時間、うちらがキャンパス出て
│ すぐくらいじゃない?
つむぎはニュース画面に映る時計表示を思い出す。
確かにあの頃だ。
│ あのまま行ってたらヤバかったよね
│ 煙とか吸ってたかも
しばらく、入力中の表示が消えたり出たりしたあと、寿々から短い一文。
│ ……また美礼に助けられたね
つむぎはその言葉を見つめて、静かに息を吐いた。
理由も説明もなく「行っちゃダメ」と言ったあの声。
感覚だけで未来を避けたみたいな出来事。
│ ほんとそれ
│ 美礼いなかったらって思うと
│ ちょっと怖い
テレビではコメンテーターが「幸い大きな被害はありませんでしたが」と繰り返している。
幸い。
偶然。
運がよかった。
でも、つむぎは知っていた。
あれは偶然じゃない。
画面の向こうで流れる煙を見ながら、つむぎはスマホを握りしめた。
数日後、事務所の応接室。玲子は立花と向かい合って座っていた。
「で、夏葉さんの件はその後は大丈夫? また新たなストーカーとか……」
「ええ、ひとまず大丈夫。SNSの炎上も収まったし。あの時は本当にありがとう」
軽く世間話を交わすように、定期的に立花はこうして様子を見に来てくれていた。玲子はその気遣いをとても嬉しく思っていた。
「しかし、あまり捜査の話ばかりも何だが、例の大学での爆発事件に駆り出されててなかなかしんどいよ」
立花が少し苦笑しながら言う。
「大学…?」
「紫陽花女子大。どうやら目的は共通テストの試験会場らしくて。本番はそのときの爆破が狙いで、今回は予行演習みたいなものだって声明文が警察に届いてるんだ」
玲子は驚いた。そんな事態になっていたとは思いもしなかった。
そのとき、夏葉から聞いていた話を思い出す。
「あ、そういえば……夏葉が言ってたんだけど、ストーカーの時の彼女たち覚えてる? 夏葉以外のあの子たちがちょうどあの日キャンパス見学に行ってて……でも、美礼に助けられたって」
「美礼に助けられた?」
立花の眉が少し動く。何かしらの不思議な力を持っているのか、という思いはあったものの詳しいことは何も知らない。
「長くなるんだけど……」
玲子は立花の様子を見ながら、事実を知ってもらう必要があると思った。なので、少し口ごもりながらも美礼の能力について話し始める。
実は、あのストーカーを見つけたのは美礼だったこと。
そもそもストーカーを近づかせないために夏葉のそばに美礼が居たこと。
あの動画の円形も、美礼が周囲を弾き飛ばしてできたものだということ。
一緒に大分に行った際、落石を弾き飛ばしたこと。
美礼が行っちゃダメと言ったから旧校舎へは行かなかったこと。
「あの子には……人を近づけさせないとか、そういう不思議な力があるの。信じられないと思うけど、事実なの」
玲子の話を聞き終えたあと、立花はしばらく黙り込んでいた。机の上の紙コップを指で転がしながら、何か言葉を探しているようだった。
「……いやさ」
ぽつりと立花が口を開く。
「正直まだ全然整理できてない。刑事やっててわけわからん話を聞くことはあるけどさ……これは別枠だろ」
苦笑いしつつ玲子を見る。
「信じるとか信じないとか、その前に……一度本人に会わせてほしい」
「……美礼に?」
「うん。もちろん事情聴取とかじゃない。職権も使わない。ただ人として、だ」
玲子は少し考えてからゆっくり首を振った。
「約束はできないわ。まだ高校生だし……本人の気持ちが一番だから」
「だよな」
立花はあっさり引いた。
「じゃあ、それでいい。話してみてくれるだけで」
「……うん。伝えるだけは伝える」
そう言ったあと、玲子は少しだけ表情を和らげる。
「驚かせたらごめんね」
「いや」
立花は肩をすくめた。
「もう十分驚かされてる」
二人は小さく笑い合い、それ以上この話題を深掘りすることはしなかった。
後日。
放課後の少し遅い時間、いつもの四人――夏葉、つむぎ、寿々、美礼――が玲子の事務所に集まっていた。
目的は二つあった。
一つは、立花が「美礼に会いたい」と言っていることをきちんと本人に伝えるため。
もう一つは、紫陽花女子大の旧校舎に行かなかったあの日のことを、実際にその場にいたつむぎと寿々から直接聞いておきたかったからだ。
事務所のドアを開けた瞬間、美礼の足がわずかに止まった。
(……あれ?)
理由はわからない。
音でも匂いでもない。
ただ、胸の奥がすっと冷えるような感覚。
視線が自然と奥の扉に向かう。
スタッフ用の部屋につながる、いつも閉まっている扉。
(……なに?)
ここには何度も来ている。
玲子の事務所は美礼にとってむしろ安心できる場所のはずだった。
それなのに、今日は――初めて感じる違和感があった。
「美礼?」
呼ばれてもすぐに反応できない。
ソファの前に立ったまま奥の扉から目が離れない。
「どうしたの美礼。さ、座って」
玲子の声にはっとして、ようやく視線を外す。
少し遅れて「……うん」と答え、皆の並ぶソファに腰を下ろした。
それでも無意識に肩が強張っている。
玲子はその様子を少し気に留めたが、深くは追及せず本題に入った。
「まずね……美礼。この前話した立花のことなんだけど。あのストーカーを捕まえてくれた人」
美礼は小さくうなずく。
「あなたのこと……能力のことを私から伝えたの。信じられない話だけど事実だから」
つむぎと寿々がちらりと美礼を見る。
夏葉は少しだけ唇を引き結んだ。
「そしたらね、立花が……一度本人に会って話したい、って」
美礼の指先が膝の上でぎゅっと握られる。
「もしかしたら、よ。捜査の協力をお願いされるかもしれない」
部屋の空気がほんの少し張り詰めた。
「もちろん強制じゃない。断ってもいいし会わない選択だってある」
玲子ははっきりとそう言ってから続ける。
「ただ……紫陽花女子大の件。あの日、旧校舎に行かなかった判断。それを立花はすごく気にしてる」
つむぎが口を開く。
「……あれ、ほんとにヤバかったよね」
「ニュース見たとき、鳥肌立ったし」
寿々も続ける。
美礼は再び無意識に奥の扉をちらりと見た。そこから何かが出てくるわけでもない。それでも胸のざわつきは消えない。
玲子は美礼の表情をじっと見つめる。
「だからね。今日は“決める日”じゃない」
優しく、でも真剣な声だった。
「どうするかはあなたが決めていい。私はその選択を守る」
静かな沈黙が事務所に落ちる。
「……いま、返事しなくてもいいんですか?」
ぽつりと美礼が言った。どこか遠くを見ているような目だった。
「もちろんよ」
玲子は即座にうなずく。
「いま決めなくていい。ゆっくり考えて。美礼の気持ちが一番大事なんだから」
その言葉につむぎと寿々もほっとしたように息をつく。
「そうだよねぇ」
「なんかさ、警察のお手伝いとか言われたら危ないことさせられそうだし」
「無理して首突っ込む必要ないよ」
「まだ高校生だしさ」
寿々が腕を組んで少しだけ眉をひそめる。
夏葉は少し考えてから慎重に言った。
「でも……立花さん、ストーカー捕まえてくれた人なんだよね」
「だから、変なことはしないと思うけど……」
それでも断言はできない。
美礼の顔を見て、言葉を選んでいるのがわかった。
「ま、返事はまたでいいよね」
「今日は帰ろ」
そんな空気になり、四人は事務所を後にした。
ドアが閉まり足音が遠ざかる。
急に事務所の中が静まり返った。
しばらくして――
奥の扉が、そっと開く。
「……行ったか」
立花が顔を出した。
「ええ」
玲子は小さく息を吐く。
「ねぇ立花。美礼、入ってきたとき……奥の扉ずっと見てたのよ」
「……」
「あなたがいる方を。正直バレたかと思った」
立花は苦笑いを浮かべて、肩をすくめた。
「たぶん……ほとんどバレてたんだろうな」
「やっぱり?」
「奥のモニターで四人の様子を見てたけど、あの子だけは扉の向こうに“何かいる”って分かってたよな」
玲子は腕を組み天井を見上げる。
「……すごいわね」
「すごいなんて言葉じゃ足りない」
立花はぽつりと続ける。
「今日確信したよ。俺たちが相手にしてるのは偶然とか勘がいいとか、そういう話じゃない」
「ええ」
「本人が一番それを持て余してる……そこが余計に厄介」
二人はしばらく何も言わずに黙っていた。
玲子が静かに言った。
「焦らせない。それだけは約束して」
立花は深くうなずいた。
「ああ……あの子が“自分で決めた”と思えるまで、待つ」
事務所の空気がようやく少しだけ緩んだ。
研究所の一室。ホワイトボードには数式とも図ともつかない線がいくつも書き足され、机の上にはプリントアウトされたデータが積み重なっている。
村田は椅子に深く腰掛け資料を見つめたまま動かなかった。
「……まとまりました」
ぽつりと、ようやく言う。
長峰はコーヒーを一口飲み資料に視線を落とした。
「仮説は多いが……筋は通ってるな。正直ここまで揃うとは思ってなかった」
「僕もです」
村田は苦笑する。
「データが少ないのは事実です。でも、ノイズじゃ説明できない部分が多すぎる」
脳波、周辺磁場、圧力センサーの異常値。どれも再現性は限定的だが、発動時だけ一貫して偏る。
「事実は積み上がってます。彼女が“何かをしている”のはもう否定できない」
長峰はしばらく黙り込み、やがて低く言った。
「……で、どうする」
その一言が、ずっと宙に浮いていた問題だった。
村田は視線を落とす。
「論文、ですよね」
「出せば反響はある。下手をすればセンセーショナルに扱われる」
「個人は特定しません。年齢も、性別も、地域も伏せます。測定条件もぼかせば……」
「それでもだ」
長峰は遮る。
「“存在”そのものが示される」
村田は黙り込む。
「彼女は……普通の高校生です。力を“調べてほしい”とは言ってましたけど世間に知られたいわけじゃない」
「知られない、という保証はない」
長峰はゆっくり言葉を選ぶ。
「我々が名前を伏せても世の中は嗅ぎつける」
「……ですよね」
研究者としての興奮と人としての躊躇。
その間で村田の表情は揺れていた。
「だがな」
長峰は少しだけ柔らかい声になる。
「発表しなければ、これは“ただの未整理データ”だ。我々の手元で止めている限り世界は何も変わらん」
「それも……わかります」
「君はどうしたい。研究者としてじゃない。村田として」
村田は少し考えてから答えた。
「……急ぎたくないです。もう一度本人の意思をちゃんと確認したい。それからでも遅くないと思うんです」
長峰は小さくうなずいた。
「いい判断だ。これは我々の成果じゃない。彼女の人生に触れる研究だ」
窓の外では夕方の光が研究所の廊下を赤く染めていた。
「斥力の少女、か……」
長峰がぽつりと呟く。
「世界はこの言葉だけで十分騒ぐだろうな」
村田は苦く笑った。
「だからこそ慎重に、ですね」
二人は再び資料に目を落とす。
答えはまだ出ない。
だが、急がないという選択だけは確かに共有されていた。
大分県・豊玉神宮。
拝殿には地元の人々や参拝客が静かに集まっていた。
今日は一ノ瀬宮司による御講和。難しい言葉は使わず、ゆっくりと、語りかけるように話すことで知られている宮司だ。
「今日はですね、これからの日本のことを少しだけお話ししたいと思います」
穏やかな声が拝殿にすっと広がる。
「未来というものは誰か一人の力で作られるものではありません。ですが……時折、その時代に“生まれてくる意味”を持った方がふっと現れることがあります」
参列者の何人かが自然と背筋を伸ばす。
「実は先日、わたくしはそのような方にお目にかかる機会がございました」
少しだけ間を置き宮司は微笑んだ。
「まだお若いお方です。とても静かで目立とうともなさらない。けれど……ご自身をしっかりと守って生きておられる」
拝殿は水を打ったように静かだった。
「そのお方は力が強い。だからでしょうか。周りの人が無意識のうちに寄ってきてしまう。守ってほしいと、頼られてしまう」
宮司は首を横に振る。
「けれど、そのお方はまずご自身を守っておられる。それでいて周りも守ってしまう。不思議なことにそれで力が弱まることはありません」
ふっと視線を上げる。
「わたくしには、そのお方が……未来の姫君のように見えました」
ざわり、と空気が揺れた。
「姫君とは誰かに傅かれる存在という意味ではありません。命をつなぎ、次の世代を迎える“場”となる存在です」
ゆっくり言葉を選びながら。
「おそらく……未来の大切な命を産み落とす役割を持つお方。そういう方が今の日本に確かに現れています」
最後にやさしく結ぶ。
「ですから……未来は決して暗くありません。静かに、確かに、次の時代は準備されています」
一ノ瀬宮司は深く一礼した。
拝殿には集まった方々それぞれが胸の奥で何かを受け取ったような沈黙がしばらく続いていた。
研究結果がほぼ形になった。
仮説の域を出ない部分はあるにせよ、数値は嘘をついていない。村田自身も、これが研究者人生の中でそう何度も出会えるものではないとわかっていた。
だからこそ、悩んだ末に電話をかけた。
「……玲子さん。論文、ほぼまとまりました」
受話器越しの声はいつもより慎重だった。
「発表、ですよね」
「はい。ただ……」
村田は言葉を選びながら続ける。
「個人が特定される情報はもちろん一切出しません。年齢も、場所も、性別すら曖昧にするつもりです。でも……それでもゼロにはならない」
どこかで誰かが気づくかもしれない。断片をつなぎ合わせて「あの子じゃないか」と思う人間が出てくるかもしれない。
「正直に言うと……リスクはあります」
玲子はしばらく黙っていた。
高校生の女の子に「世界に向けて発表されるかもしれない研究」に関わるかどうかを選ばせる。それがどれほど重いことかよくわかっている。
「……本人に確認したい、ということですよね」
「はい。勝手に出すわけにはいきません。でも、僕が決めていいことでもない」
村田の声は研究者としてというより、一人の人間としての誠実さがにじんでいた。
電話を切ったあと玲子は深く息を吐く。
(高校生にこんな判断を迫るなんて……)
本音を言えば守りたい。
面倒な世界から遠ざけて普通の毎日を送らせてあげたい。
でも――。
(結局、本人のことなのよね)
美礼の力は美礼のものだ。
誰かが勝手に決めていい話ではない。
「……直接、話すしかないか」
もし、美礼が決めきれなかったら。
怖くて、判断できなかったら。
そのときは――。
(私が止める)
研究よりも、論文よりも、あの子の人生のほうが大事だ。
玲子はそう心に決めて美礼に連絡を入れる準備を始めた。
美礼は自分の部屋で、ベッドに腰掛けたままスマホを置いた。
玲子への返事はもう送った。
│ ゆっくり考えて
│ また連絡します
それだけの短い文面なのに、送信するまでにずいぶん時間がかかった。
――論文を出していいかどうか。
その言葉が、頭の中でぐるぐる回る。
出すって、どういうことなんだろう。
出したら、何が起きるんだろう。
出さなかったら、どうなるんだろう。
メリットもデメリットも、どこか遠い話のようでいまいち実感が湧かない。ただひとつ確かなのは「自分のこと」がもう自分だけの問題じゃなくなりつつある、ということだった。
迷った末に、美礼は両親の顔を思い浮かべる。
(相談、するしかないよね)
でも、その前に大きな壁がある。そもそも――両親は美礼に「不思議な力」があることを知らない。いや、知らないというより話したことがない。
人と距離を取るようになったのはいつからだろう。小学校低学年の頃。理由はよくわからないけれど、誰かが近くにいると胸の奥がざわざわして落ち着かなくなった。給食の時間、登下校、休み時間、無意識のうちに少しずつ人から離れるようになっていた。
あるとき、心の中で思った。
――来ないで。
その瞬間、相手がふっと立ち止まった。
たまたまかな、と思った。
でも、何度か同じことが起きて確信に変わった。
「近づいてほしくない」と思うと実際に近づいてこない。
それが怖くて、同時に、少しだけ安心もして。
誰にも言わないまま、少しずつ、少しずつ距離を保つやり方だけが上手くなっていった。
今では意識すれば十メートルくらい。自分の周りに見えない円を描くみたいに。
……それを、どう説明すればいいんだろう。
「信じてくれるかな」
「変に思われないかな」
「心配させすぎないかな」
最悪の場合、
……うちの子、何かおかしくなったんじゃ……
そんなふうに思われたらどうしよう。
美礼は膝を抱えて深く息をついた。
でも、ひとりで決めるのはやっぱり無理だ。玲子も、村田も、みんな真剣だった。だったら自分も逃げちゃいけない。
さて。
何から話そうか。
能力の話?
研究の話?
それとも、ずっと黙ってきた「小さい頃からの違和感」から?
答えは出ないまま時間だけが静かに過ぎていく。
美礼は天井を見上げながら、ただ考え続けていた。
日曜日の夜。
三人での夕食が終わり食卓の上もだいぶ片づいてきたころ、美礼は箸を置いたまましばらく俯いていた。
「……お父さん、お母さん、相談があるの」
その一言に父と母は顔を見合わせる。
普段は食事が終わると「ごちそうさま」と言って、さっさと自分の部屋へ引き上げてしまう娘だ。改まって“相談”と言われると、さすがに少し身構える。
進路のことだろうか。
それとも友達関係か。
二人ともそんなことを頭の片隅で思いながら自然と姿勢を正した。
「うん。どうした?」
父が、できるだけいつも通りの声で促す。
美礼は一度深呼吸してから言葉を選ぶように口を開いた。
「実はね……私、不思議な力があるの」
「この前、大分に行ったでしょ。あれ、その力を調べてもらうためだったの」
いきなり核心を突くような言い方だった。
子どものころの話から順に、ではなく、まず“大分へ行った”という具体的な出来事から切り出したのは、少しでも現実味を持たせたかったからだ。
一瞬、沈黙。
――やっぱり、変に思われたかな。
そう思った次の瞬間だった。
「……ああ、やっぱりそうか」
父が、どこか納得したようにうなずく。
「え?」
思わず美礼が顔を上げる。
母も、少し困ったように、でも優しく笑って言った。
「美礼、子どもの頃から……なんて言えばいいのかしらね。人を寄せ付けない力みたいなの、あったもの」
「……え!? 知ってたの!?」
思わず声が裏返る。
驚きで頭が真っ白になる美礼をよそに、父と母は顔を見合わせて、どこか懐かしそうな表情になる。
「知ってた、っていうか……感じてた、かな」
父が言う。
「小さいころ、知らない人がやたら近づこうとすると相手のほうが急に距離を取ったりしてさ。不思議だなとは思ってた」
「最近は友達を連れてくるようになったでしょう?」
母が続ける。
「だから、大人になるにつれてそういうのも薄れてきたのかなって、お父さんと話してたのよ」
美礼は、ただただ呆然としていた。
――ずっと、自分だけが気づいてて、隠してて、悩んでたつもりだったのに。
両親は、ずっと前から“知っていた”。
少なくとも、見て、感じて、受け止めていた。
胸の奥で張りつめていた何かが少しだけゆるむ。
同時に、言いようのない戸惑いもこみ上げてきた。
(……じゃあ、私が今まで悩んでたのって)
そんな思いが渦を巻きながら、美礼は両親の顔を交互に見つめていた。
「……そっか。知ってたのかぁ……」
美礼はぽつりとつぶやいた。
お父さんもお母さんも、何も知らないと思っていた。
誰にも言えずに一人で抱え込んでいた時期もあったのに。
「もっと早く言えばよかったな……」
胸の奥がじんわりとほどけていく。
驚きとも違う、嬉しさとも違う。
安心感と安堵感が混ざった、ふわふわした感覚。
少し間を置いて深呼吸をひとつ。
美礼は気持ちを整えて、話を続けた。
「それでね……大分の大学の研究所でちゃんと調べてもらったの」
父と母は黙ってうなずき、先を促す。
「その結果がまとまったから、論文として発表してもいいかって聞かれて……」
自分のことなのにどこか他人事のように感じる。
「良いのか悪いのか正直よくわからなくて。だから……お父さんとお母さんに相談したかった」
そう言って美礼は二人の顔をまっすぐ見た。
「なるほど……その不思議な力の論文か」
お父さんは腕を組んで天井を見上げた。
「お父さん、ちょっと読んでみたいな」
「私も」
すぐにお母さんが乗る。
「論文ってことは、美礼の測定結果とか数値とかいっぱい載るんでしょう? 個人情報だらけよね」
美礼はうなずいた。
「名前とかは出さないって言ってたけど……でも、研究所の人たちだけじゃ決められないから本人に確認したいって」
「そりゃそうだよな」
お父さんは納得したように言う。
「出したあと、どこでどう広まるかわからないし」
少しの沈黙。
テレビの音だけが、やけに大きく聞こえる。
「……うーん」
お父さんはしばらく考え込んでから、ふっと顔を上げた。
「なあ」
お母さんを見る。
「大分、行ってみるか。家族で」
「え?」
美礼が思わず声を出す。
「研究所の人にもご挨拶したいし、どんなところか自分の目で見たい。判断するのはそれからでも遅くないだろ」
「いいわね」
お母さんはすぐにうなずいた。
「久しぶりの家族旅行みたいで」
「……そっか」
美礼の胸に、またふわっと温かいものが広がる。
一人で決めなくていい。
逃げるでも、押し切るでもない。
「ありがとう……」
そう言った声が少しだけ震えた。
こうして家族四人での大分行きが静かに決まった。
美礼は通話を切ったあと、スマホを胸の前でぎゅっと握った。
ちゃんと伝えられた。逃げずに言えた。
それだけで少し肩の力が抜ける。
一方、玲子は事務所のデスクに肘をつきしばし天井を見上げていた。
――なるほど、そう来たか。
論文を出すか出さないか、その二択で答えが返ってくるものだとどこかで思い込んでいた。けれど、美礼が選んだのは「家族で研究所へ行く」という道。予想外ではあったが不思議と腑に落ちもした。
(そりゃそうよね……親からしたら)
娘に「不思議な力がある」「研究論文になるかもしれない」そんな話を聞かされて、電話口だけで「どうぞご自由に」なんて言えるはずがない。むしろ、きちんと向き合おうとしているごくまっとうな親御さんだ。
玲子はスマホを手に取り、すぐにでも村田に連絡を入れようとして、ふと指を止めた。
――待って。
それなら。
その場には自分もいたほうがいい。
美礼の保護者代わり、などというおこがましい意識ではない。ただ、結果的にとはいえ親に詳しい説明もないまま娘を事務所に所属させ、警察関係者や研究者と接点を持たせてきたのは事実だ。書類上だけ。形式だけ。そう自分に言い聞かせてきたけれど「親に挨拶もせずに進めてきた」という点はやはり胸に引っかかっている。
(……でも)
玲子は小さく息をつく。
せっかくの家族旅行に事務所の人間がついて行く。
それってどうなんだろう。
気を遣わせない?
遠慮させてしまわない?
「娘の仕事関係者」という存在は思っている以上に重い。
――いや、でも。
研究所での話は専門的で繊細で簡単じゃない。誰かが間に立って説明し調整する役は必要だ。それが自分であるなら逃げる理由はない。
玲子は迷いを一度飲み込み、画面に短い返信を打った。
│ わかったわ。
│ ご両親と相談してくれてありがとう。
│ まずは大分に行く方向で考えましょう。
│ 詳しいことは、また改めて話そうね。
送信。
スマホを置いたあと玲子は静かに笑った。
(ほんと……この子、ちゃんと前に歩いてる)
不思議な力を持っているからじゃない。
迷って、悩んで、それでも自分で選ぼうとしているから。
「さて……」
今度こそ村田に連絡を入れよう、と玲子はスマホを取り直した。
玲子からの返信をみて、何かひと仕事終えたような気分になっていた。
そのとき、美礼はふと胸の奥に小さな引っかかりを覚えた。
――あ。
立花に会うかどうか。
あの返事をまだしていない。
答えはもう出ていた。
――会わない。
理由はいくつもあった。立花はきっと悪い人ではない。夏葉を助けてくれたし玲子も信頼している。ただ単に「能力に興味があるから一度会ってみたい」と、それだけなのかもしれない。
でも――
もし、その先で。
「捜査に協力してほしい」
「力を貸してほしい」
そんなふうに言われたら、たぶん私はうまく断れない。
(断れないよね……)
相手は警察官で、大人で、正義の側の人だ。
「みんなのため」
「誰かを守るため」
そう言われたら首を横に振れる自信がなかった。
美礼はベッドに腰を下ろし天井を見上げる。
――私の力は何のためにあるんだろう。
大分で、宮司に言われた言葉が静かに胸に浮かんだ。
「あなた自身を、守っているんですね」
あのときはよくわからなかった。
でも、時間が経つにつれてじわじわと染みてきた。
ストーカーのときは、確かに夏葉を守りたいと強く思っていた。
事故も、落石も、みんなを守れたことは嬉しかった。
でも――
あれは「守ろう」と考えて発動した力じゃない。
怖かった。
危険だった。
無意識に「来ないで」「近づかないで」と思った。
その結果、たまたま近くにいた人たちも守られただけ。
(この力……たぶん)
私は、私を守ろうとしてる。
爆弾を探す。
犯人を追い詰める。
危険な場所へ近づく。
それって、私が“危険な目に遭う前提”の話だ。
私の力は、そんな使われ方を想定していない気がした。
――だから。
美礼は深呼吸をひとつして玲子にメッセージを送った。
│ 立花さんの件なんですけど……
│ 今回はお会いしない、ということにしていただけますか。
│ 私、まだそこまで覚悟ができてなくて。
少し間があって、すぐに返事が来た。
│ うん、わかった。
│ 大丈夫よ。無理しなくていい。
その短い言葉に胸の奥がふっと緩む。
「……ありがとう」
声に出して、誰もいない部屋でつぶやいた。
大分への家族旅行は飛行機だった。
早朝の便に乗り、少し緊張気味の美礼とその両脇に座る両親。窓の外に広がる雲を眺めながら、美礼は胸の奥がそわそわするのを感じていた。旅行というには目的がはっきりしすぎている。しっかりと自分に向き合う時間でもあった。
大分空港の到着ロビー。
人の流れの向こうにすぐに見覚えのある姿を見つける。
「あ、美礼!」
玲子だった。きちんとしたジャケット姿でいつもの柔らかい笑顔を向けている。
「玲子さん」
軽く会釈したあと美礼は両親を紹介する。
「父です。母です」
美礼の父が、少し丁寧すぎるくらいに頭を下げる。
母もそれに続いた。
「今日は同行を了承していただいてありがとうございます」
玲子も頭を下げる。
「いえいえ、何やら娘がお世話になっているようで……」
少し言葉を選ぶ間があってから、玲子は続けた。
「実は……詳しくお伝えしていなかったのですが、美礼ちゃん、うちの事務所に所属してもらっているんです。形式的なものではありますけど……」
一瞬、両親の表情が固まる。
「え……?」
「芸能の事務所、ですよね?」
美礼が横で小さく息をのむ。
「いろいろ事情があって。守るため、という意味合いが大きくて……。事後報告になってしまって、本当に申し訳ありません」
玲子は深く頭を下げた。
すると父が、ふっと表情を緩めた。
「そうでしたか……」
母も少し考えるようにしてから、静かに言う。
「娘のことで、ずいぶんご苦労されたでしょう。ありがとうございます」
その言葉に今度は玲子が驚いた。
「いえ……そんな……」
「この子、小さい頃からちょっと不思議で。親の私たちにも全部は見えていなかったと思います」
父は美礼をちらりと見てやさしく笑う。
「支えてくださる方がいたのなら、ありがたい話です」
そのやりとりを横で聞きながら玲子は心の中で思う。
――いいご両親だな。
静かで、落ち着いていて、娘をちゃんと信じている。
空港の外に出ると湿った大分の空気がふわりと肌に触れた。
「こちらです」
駐車場の一角で村田が車のそばに立って待っていた。
「はじめまして。宇佐大学・自然科学研究センターの村田です」
名刺を差し出しながら丁寧に挨拶する。
「娘がいつもお世話になっております」
父と母も名乗り、それぞれ軽く会釈を交わす。
「今日はお時間をいただきありがとうございます。緊張されると思いますが……できるだけ、わかりやすくご説明します」
「よろしくお願いします」
車に乗り込むとエンジン音とともに空港を離れていく。
窓の外を流れる景色を眺めながら、美礼は小さく息を吐いた。
研究所の自動ドアが静かに開くと、そこには長峰博士の姿があった。
白衣ではなく落ち着いたジャケット姿。研究者というより穏やかな大学教授といった雰囲気だ。
「本日はお越しいただきありがとうございます」
深く、しかし堅すぎない丁寧な一礼。
美礼の両親も自然と背筋を伸ばし同じように頭を下げた。
「こちらこそ……娘のことで、いろいろとありがとうございます」
室内では助手たちが慌ただしく動き、机の上には論文資料、グラフを表示したモニター、補足用のスライドが整えられていた。準備が整うまでの間、天気や大分までの移動の話など、当たり障りのない世間話が続く。美礼の両親は研究室の雰囲気そのものに少し緊張しつつも、研究者たちの落ち着いた態度に次第に肩の力が抜けていった。
やがて村田が小さくうなずく。
「では……始めさせていただいてもよろしいでしょうか」
村田は両親に丁寧に資料を手渡した。
それは一冊にまとめられた論文原稿だった。
表紙にはやや長いタイトルが記されている。
【特定被験者において観測された非接触反発現象の特性と方向性】
村田は少しだけ言葉を区切ってから続ける。
「研究室内では通称として『斥力の少女』と呼んでいます」
美礼はその言葉に小さく息をのんだ。
両親も視線を落とし、ゆっくりとタイトルを読み直す。
「もちろん、実際の論文では個人が特定される情報は一切含めていません。数値、波形、条件設定など、あくまで“現象”のみを扱っています」
村田がそう前置きしモニターにスライドを映し出す。
「ですので今日はこの論文が何を言おうとしているのか、どんな事実があってどこまでが仮説なのか、その“中身”をできるだけわかりやすく説明させてください」
グラフ、模式図、簡略化された図解。
村田が一つひとつ指し示しながら説明し、要所で長峰博士が補足を入れる。
「ここが通常時の測定値です」
「こちらが意図的に力が発現した際の変化ですね」
難しい理論や専門用語は避けつつも研究の核心は誤魔化さない。両親は時折うなずき、質問を挟みながら真剣に耳を傾けている。
「重要なのはですね」
長峰博士が穏やかに言葉を継ぐ。
「この力には“向き”があるという点です」
画面に表示される矢印。
「外へ押し出すだけではない。美礼さん自身を中心に“一定の範囲を保とうとする性質”が見える」
村田が深くうなずく。
「ですから私たちは単なる斥力とは呼ばず“方向性を持った自己防衛的現象”として整理しました」
美礼は、初めて――
自分の力が感覚ではなく「言葉」と「図」と「数値」で語られているのを見ていた。
怖さは不思議となかった。
ただ、胸の奥で何かが静かに形を持ちはじめているような感覚。
両親もまた黙ったまま真剣にその説明に耳を傾けていた。
一つの現象として。
娘の話として。
解説が一通り終わり研究室に少し静けさが戻った。
モニターは消され、資料もいったん脇に置かれる。村田は小さく息を整えてから改めて両親の方を向いた。
「……以上が、今回まとめた論文の内容です。正式な意義としては“未知の非接触反発現象を再現性のあるデータとして示した”という点にあります」
長峰博士も静かにうなずき言葉を添える。
「物理学としても生体科学としてもかなり異例です。正直に言えば学会では議論を呼ぶでしょう。場合によっては懐疑的な意見も強い反発も出ると思います」
村田は続けた。
「もちろん美礼さん個人が特定される情報は一切出しません。ですが……論文が注目されれば“同様の現象を持つ人物がいるのではないか”と探そうとする人が現れる可能性は否定できません」
それがデメリットだった。
研究としての価値。
社会的な反響。
そして、娘への影響。
両親はしばらく言葉を失ったまま互いに視線を交わす。
内容のすべてを完全に理解できたわけではない。
数式も理論も正直難しい。
けれど――。
(この人たちは本気だ)
父はそう感じていた。
娘を「不思議な存在」として消費するのではなく一人の人間として、現象として、丁寧に向き合ってくれている。
母も同じ思いだった。
怖さがないと言えば嘘になる。それでも、未知のものをなかったことにしてしまう方がもっと怖い気がした。
やがて父が口を開く。
「……正直、難しい話は全部はわかりませんでした」
そう前置きしてから穏やかに続ける。
「でも、皆さんが美礼を大切に扱ってくださっていることはよく伝わってきました」
母もうなずく。
「この子の力が、本人にとっても、誰かにとっても、意味のある形で扱われるなら……それは悪いことじゃない気がします」
二人は一度、美礼の方を見る。
美礼は少し緊張した表情で、でも、しっかりと両親を見返していた。
父は決めたように言った。
「論文、発表してください」
「その代わり、もし何かあれば必ず私たちにも相談してください」
村田は思わず深く頭を下げた。
長峰博士も、助手たちも、同じように。
「ありがとうございます」
「必ず、責任をもって扱います」
研究室の空気は張りつめていたものから少しだけ柔らいだ。
美礼は胸の奥に静かな熱が灯るのを感じていた。
怖さもある。
でも、それ以上に――
自分がちゃんと“ここにいる”と認められたような不思議な安心感があった。
研究室の空気は、先ほどまでの張りつめた説明の時間から一転して少し柔らいでいた。
机の上には片づけきれなかった資料が残りモニターは暗転したまま。
長峰先生、村田、美礼の両親、そして美礼と玲子。自然と雑談が始まった。
「こういう研究を毎日されてるんですね」
美礼の母が感心したようにあたりを見回す。
「すごいです。本当に……私は完全に文系なのでこんな毎日は想像もできません」
「いえいえ」
長峰先生は穏やかに笑った。
「我々もわからないことだらけですよ。だからこそ面白いとも言えますが」
そんな雑談の流れの中で長峰先生がふと思い出したように口を開く。
「ひとつ、よろしいでしょうか」
少しだけ声の調子が変わる。
「こういった力はですね、民俗学的にも、生物学的にも……代々受け継がれる例が語られることがあります。ご両親、あるいはご親族の中に似たようなお話しをされる方はいらっしゃいますか?」
一瞬、父が考え込むように視線を上に向けた。
そして照れたように小さく息をつく。
「私も妻もそういう力はまったくありません。ただ……そういえば、ですね」
少し間を置いてから続ける。
「私の母……美礼の祖母になりますが、昔はよく『おかぁちゃんは神通力が使える』なんて言ってました」
「神通力?」
村田が思わず身を乗り出す。
「ええ。実際に何ができたのかは正直よくわかりません。それに『うちはすごい家系なんだ』なんてことも言ってましたけど……」
父は苦笑いを浮かべる。
「実家は長野の普通の農家ですし代々伝わるお宝があるわけでもない。当時の私は、ふーん、って感じでしたね」
軽く笑いながら話す父。
その横で母が小さくうなずく。
「私も詳しくは知らないけど……お義母さん、そういうことを言う人だったのは覚えてます」
長峰先生と村田は言葉を挟まずじっと耳を傾けていた。
研究者の顔になっているのがはっきりとわかる。
一方、美礼はというと――
完全に不意打ちだった。
(そんな話、初めて聞いた……)
祖母の顔を写真ですら思い出せない。
美礼が生まれたときにはすでに他界していた人。
その人が「神通力」を口にしていたなんて。
胸の奥で何かが小さく揺れた。
驚きと同時に、どこか遠いところで自分の力と静かにつながったような不思議な感覚。
研究室には誰もがそれぞれの思いを抱えたまましばし静かな時間が流れていた。
とても意味のあった大分への家族旅行から戻り、美礼はいつもの日常に戻っていた。
季節はすっかり冬。朝の空気は冷たく吐く息が白くなる。
共通テストが近づき、つむぎや寿々は勉強の追い込みに入っていた。
放課後も図書室や自習室に直行で、以前のように四人でだらだら過ごす時間は減っている。
――邪魔しちゃいけないよね。
そう思う気持ちもあって、美礼から声をかけることも少なくなっていた。
その分、よく一緒に居たのは夏葉だった。
夏葉は大学進学よりも芸能活動に本気で取り組むと決めたようで、進路の話題からは少し距離を置いている。
「そのうち行きたくなったらまた考えればよくない?」
そんなふうにあっけらかんと笑う。
ある日の放課後、二人で帰りながら美礼は大分の話をした。
家族で行ったこと。
研究所で論文の説明を受けたこと。
自分の力が、年明け一月の学会で発表されるらしい、ということ。
「えっ、論文!?」
夏葉は目を丸くした。
「すごいじゃん。論文になるって、なんかもう……すごいやつでしょ」
論文が具体的にどういうものなのか正直よくわかっていない様子だったけれど、それでも素直に喜んでくれているのが伝わってきた。
「美礼、ほんとにすごいねぇ」
その言葉に美礼は少し照れて笑った。
そして夏葉はふと思い出したように言う。
「あ、そうだ。そういえばこの前事務所に立花さん来てたよ」
美礼は一瞬足を止めかけた。
「前にあった大学の爆破事件、結局まだ犯人見つかってないんだって。このまま共通テスト迎えそうだから警察もかなりピリピリしてるみたい」
そうなんだ、と美礼は小さく相づちを打つ。
「だから警備体制がどうとか、そういう話をちょっとしてたけど……まぁ、立花さん、ほとんどコーヒー飲みに来てるだけっぽい感じもするけどね。はは」
軽い調子で笑う夏葉。
美礼もつられて笑ったけれど、胸の奥にかすかなざわめきが残った。
――まだ、終わってないんだ。
冬の夕暮れは早く空はもう薄暗い。
二人の足音だけが静かな帰り道に響いていた。
年が明け、一月。
土日にはいよいよ学会での発表が控えていた。
自分が壇上に立つわけでも何かを話すわけでもないのに美礼の胸の奥は落ち着かなかった。理由ははっきりしているようでつかめない。ただ、ざわざわする。
父もどこか同じだった。
村田から届いた一通の連絡――
「学会で東京へ行きます。よろしければ長峰先生とどこかでお食事でも」
その文面を何度も読み返しながら父は腕を組んで考え込んでいた。
「先生たちと食事するような店って……どんなとこがいいんだろうな」
土曜日の昼過ぎ。
学会がまさに行われているであろう時間帯に父は美礼を誘った。
「会場の近く、ちょっと見ておきたいんだ。駅の周りとかさ。感じのいい店があるかどうか」
「スマホで調べればいいじゃん」と美礼は言ったが、
「いや、だめだ。雰囲気ってのは画面じゃわからん。失礼があっちゃいかんだろ」
その言葉に美礼は小さく笑って「別に予定ないし。車ならすぐだしね」と、そう答えた。
こうして二人は冬の街へと車を走らせた。
――その信号待ちまでは、何事もなかった。
赤信号で車が止まった、その瞬間。
胸の奥が、きしり、と音を立てた気がした。
……なに?
ぞわり、と背中をなぞる感覚。
冷たいのにじっとりと重い。
しかも、それがはっきりと「近づいてくる」。
禍々しい。
そうとしか言いようのない違和感。
暴走車のときとも、落石のときとも違う。
あのときはもっと瞬間的で鋭かった。
これは……粘つくような、意図を持った感じ。
美礼は息を潜めたままじっとしていた。
すると、隣に一台、音もなく止まるものがあった。
スポーツサイクル。
信号待ちで車と並ぶ形になったそれに乗っているのは、大きなリュックを背負った男性と思しき人物。
……え? これ?
違和感の正体が自転車?
半信半疑のまま、美礼は助手席の窓からそっと横を見る。
その瞬間だった。
相手もこちらを見た。
一瞬。ほんの一瞬だけ視線が絡む。
全身の血がすっと引いた。
――あ。
心臓が強く跳ねる。
あのときだ。
紫陽花女子大の旧校舎。
行ってはいけない、と体が叫んだあの感覚。
あの場所で確かに感じた――
「見られている」という視線。
同じだ。
間違いない。
美礼は、はっきりと理解していた。
この人だ。
あのときの視線の主。
信号が青に変わった。
交差点の空気が流れる。
その一瞬、車が動き出すよりも早くスポーツサイクルがすっと前へ出た。
「……お父さん、あの自転車、追って!」
助手席から飛び出した声に父は思わずハンドルを強く握る。
「え? なに? 自転車? あれ? 知り合いなのか?」
戸惑いながらも娘の声がただ事ではないことだけははっきりわかる。美礼はいつも落ち着いている。声を荒らげることも無茶を言うこともない。その美礼が切羽詰まった顔で前を指している。
「いいから、急いで!」
父はそれ以上聞かず前方の自転車との距離を保つようにアクセルを踏んだ。
すぐさま美礼はスマホを取り出し震える指で玲子に電話をかける。
「もしもし、玲子さん……!」
息を整える暇もなく言葉が溢れ出す。
「たぶん、爆弾の犯人。目の前にいる。自転車に乗ってる」
「どうしよう……!」
「立花さんに連絡して!」
一気に、ほとんど叫ぶように伝える。
電話口で玲子は一瞬言葉を失った。
今日は共通テストの本番。
紫陽花女子大は試験会場。
警察は最大警戒態勢。
立花は間違いなく現場に出ている。
――今、犯人が動く。
その可能性は十分すぎるほどあった。
頭の中で状況が高速で組み上がっていく。
『……わかった』
玲子の声は意識して落ち着かせた低い声だった。
『立花には私からすぐ伝える』
『美礼、今どこ?』
「お父さんの車の中……」
美礼は前を走る自転車から目を離さない。
リュックの揺れ方。
無駄のないペダリング。
絶対あの人だ。
あの旧校舎で感じたぞわりとした視線。
間違いない。
『いい?』
玲子の声が少しだけ強くなる。
『とにかく無理はしないで』
『追うのはお父さんに任せて』
『美礼は絶対に自分から近づかないこと』
「……うん」
短く答えながらも、美礼の胸の奥ではあの“力”が静かにざわめいていた。
紫陽花女子大の校内。
警備本部代わりの一室で、立花は無線の音を聞き流しながら配置図を確認していた。そのときスマホが震える。
『……玲子?』
通話がつながった瞬間、立花の声色が変わる。
『え? 今なんて言った? 美礼ちゃんが……犯人を見つけた?』
受話器の向こう、玲子の声はいつになく切迫していた。
「理由はわからない。でもね、あの子、叫ぶみたいな声だったの。そんな話し方、今まで一度もなかった」
『……』
立花は無意識に立ち上がっていた。
「きっと何か見たのよ。もしくは……感じた」
一瞬の沈黙のあと、立花は短く息を吐く。
『……わかった。それで俺はどこに行けばいい? この大学に向かってきてるのか?』
「それが、まだわからないの」
玲子も必死で言葉を選んでいる。
「犯人は自転車。美礼はお父さんの車で追ってるみたい」
『車で……追ってる!?』
「ええ。でも、無茶はしないようにって言ってある」
立花はすぐに頭を切り替える。
『了解。俺はいま紫陽花女子大。すぐ動ける。場所がわかったらもう一度連絡くれ。全力で動く』
「……お願い」
玲子の声がほんの少しだけ震えた。
「美礼を守って」
『当然だ』
立花はそう言い、通話を切ると同時に無線を手に取った。
スポーツサイクルは紫陽花女子大とは反対方向へ向かい、少し走った先――
雑居ビルが肩を寄せ合うように立ち並ぶ、雑然とした街中の一角で急にスピードを落とした。
カチャリ、と乾いた音を立てて止まる自転車。男は一度だけ周囲をぐるりと見回し、そして何事もなかったかのようにひとつのビルの中へ消えていった。
道路脇に車を寄せ、息を潜めてそれを見ていた美礼は震える指でスマホを耳に当てる。
「……玲子さん。今、止まった」
声がわずかに上ずる。
「大学じゃない。雑居ビルが並んでるところ。あ、住所……わからない……」
助手席から身を乗り出す美礼に父が周囲の標識を見て答える。
「向田一丁目の交差点だな、ここ」
「向田一丁目……交差点から三番目のビル。サイクルスーツ着てる人。リュックを背負ってる。その中に入った」
一気に言い切ると息を整える暇もなく通話が切り替わる。
――玲子はそのまま立花に繋いでいた。
「向田一丁目の交差点。交差点から三番目のビルに入ったって」
一瞬の沈黙。そして、低く即断の声。
『そこなら……五分で着く』
立花はそう言うと無線を掴んだ。
「こちら立花。向田一丁目、雑居ビル。目標は自転車、リュック、サイクルスーツの男。単独行動の可能性高い。周辺を封鎖、静かに詰める」
周囲にいた警官たちの空気が一変する。
ざわめきが消え、足音と無線の短いやり取りだけが残る。
共通テスト、警備、未解決の爆破事件――
すべての点がいま一本の線で繋がろうとしていた。
数分も経たないうちにサイレンを抑えた数台の車が次々と現れた。
その先頭から降りてきた立花が周囲を一瞥し――すぐに美礼の乗る車を見つける。
助手席の窓が静かに下りる。
立花はまず運転席の父に軽く会釈した。
「警察の者です。少しだけ失礼します」
それだけ言ってから美礼に視線を落とす。
「美礼ちゃん。話すのは初めてだね。連絡ありがとう」
低く落ち着いた声だった。
「ここから先は警察の仕事だ。大丈夫、任せて」
そう言い残し、立花は一歩下がると無線を取り出しながら周囲の警官たちに手短に指示を出し始めた。ビルの出入口、路地、裏手――人の流れを遮るように無言の連携で包囲が敷かれていく。
父はただその様子を見ているしかなかった。何が起きているのか正直よくわからない。だが、娘の様子と警察の動きから察するに、美礼の「何か」が確かに今この場で役に立っているのだろう、ということだけは伝わってくる。
このままここにいていいのか。
どこかに移動した方がいいのか。
誰に聞けばいいのかもわからない。
隣を見ると、美礼はスマホを両手で強く握りしめ身動き一つせず固まっていた。
顔色は青白く、視線はビルの方に吸い寄せられている。
――今じゃないな。
「どういうことだ」なんて聞ける状況じゃない。
父は小さく息を吐いた。
今日は学会帰りの先生たちと食事の店を下見するはずだった。レストラン探しどころの話じゃなくなったなと、どこか現実逃避のようなことを考えながら、この車の中から状況を見守ることに決めた。
事態は思っていたよりもずっと早く動いた。
数名、いや十名近い警官たちが無言のまま次々とビルの中へ入っていく。
その背中を美礼は助手席からじっと見つめていた。
心臓の音がやけに大きく聞こえる。
――どうなるの。
時間の感覚が曖昧になりかけた頃、ビルの入口が再び開いた。
現れたのはサイクルスーツ姿の男。
両脇と前後を警官に固められ、逃げ場を完全に断たれている。
抵抗する様子もなく、淡々と歩かされていくその姿に美礼は思わず息を呑んだ。
あの自転車の人だ。
男はそのままパトカーに押し込まれドアが閉まる。
一台、また一台と車が動き出す。
道の反対側に立っていた立花が、こちらに気づいたのか軽く会釈だけをしてそのまま自分の車に乗り込んだ。
言葉はない。
それで十分だった。
パトカーの赤色灯が遠ざかり、やがて見えなくなる。
その瞬間、美礼はようやく、深く、深く息を吐いた。
肩の力が一気に抜け、シートに背中を預ける。
――終わった。
そのときだった。
コンコン。
助手席の窓が控えめに叩かれる。
顔を上げると、そこに立っていたのは玲子だった。
コートを羽織ったまま少し息を切らしている。
「……居ても立ってもいられなくてね」
窓を開けると、玲子は状況を一目見渡してほっとしたように微笑んだ。
「どうやら……無事に逮捕されたみたいね」
その言葉を聞いた瞬間、張りつめていた何かがふっとほどけた。
「……うん」
美礼はそう答えながら思わず目を潤ませる。
玲子の顔を見ただけで胸の奥から安心感が込み上げてきた。
大丈夫だった。
ちゃんと、終わった。
冬の冷たい空気の中で、美礼はゆっくりと現実を取り戻していくのだった。
玲子の事務所に入るとようやく空気が落ち着いた。
ソファに座った美礼は、さっきまでの出来事を思い出すように言葉を選びながら話し始める。一気に説明することはできず、ぽつり、ぽつりと。
「信号待ちのとき……すごく、禍々しい感じがして」
「今までと違う、嫌な感じで……近づいてくる、みたいな」
父も玲子も、口を挟まずに聞いている。
「それで……自転車の人と目が合って……その瞬間に思い出したの。前に、紫陽花女子大の旧校舎で感じた……あの視線と同じだって」
言い終えたあと、美礼は小さく息を吐いた。
父は頭を掻きながら少し苦笑いを浮かべる。
「いやぁ……こっちは大変だったよ」
「急に『自転車追って!』って言われて、その直後に玲子さんに電話して『犯人がいる!』なんて言うから、え? 何? 何が起きてるんだ?って」
そこで一度言葉を切り娘を見る。
「……そういうことだったのか」
玲子は深くうなずいた。
「とにかく……無事でよかった。あとは立花からの連絡……それか報道を待ちましょう」
三人の間にようやく同じ状況を共有できた感覚が生まれた、そのとき。
父のスマホが鳴った。
「……あ、村田さんだ」
短い通話のあと、父は電話を切り美礼と玲子の方を向く。
「どうやら、論文の発表は大成功だったみたいだよ。すごい反響らしい」
美礼は少し驚いたように目を瞬かせる。
「ただね、急に長峰先生がいろんな人に引っ張りだこになったみたいで……今回は会食できないかもしれないって。明日、改めて連絡するそうだ」
「……そう」
その言葉と同時に、美礼の胸の奥がすっと軽くなる。
発表がうまくいったことよりも、
反響が大きかったことよりも――
今は誰とも会わなくていい、その事実がありがたかった。
頭の奥にはまだあの禍々しい感覚が残っている。
知らず知らずのうちに心が疲れていたのだろう。
それでも。
こうして父と玲子とゆっくり話せたことで、胸に溜まっていた重たいものがだいぶ外に出ていった気がした。
美礼は静かにソファにもたれかかり、もう一度深く息をついた。
翌朝のニュースは、どの局も同じ話題を繰り返していた。
――爆弾犯、逮捕。
犯人は単独犯とみられ、大学の共通テストを狙い手作りの小型爆弾を複数用意。
ドローンに爆弾を取り付け、近くのビルの屋上から飛ばし試験中の大学を空から爆破する計画で、逮捕時はまさにドローンに爆弾を仕掛けている最中だった、という。
「一歩間違えれば大惨事になっていた可能性があり――」
淡々とニュースを伝えるアナウンサーの声が事の重大さを際立たせていた。
犯行動機はまだ明らかになっておらず、警察が詳しく調べているという。
――本当に間に合ったのだ。
その少し後、玲子のスマホが鳴った。
表示された名前を見て、彼女は静かに通話ボタンを押す。
「……もしもし」
『今回はありがとう』
立花の声はいつもより少し柔らかかった。
『美礼ちゃんに助けられたよ。本当に』
玲子は小さく息を吐いてから答える。
「……信じてくれて、ありがとう。正直、大学とは関係ない雑居ビルにいる“自転車の男”って聞いただけじゃ爆弾犯だなんて思えないもの。それでも動いてくれた立花のおかげよ」
電話の向こうで立花が苦笑する気配がした。
『いや……正直に言うとさ、ハズレでも仕方ない、って覚悟はしてた。犯人の情報がほとんど何も無かったからな』
少し間を置いて、続ける。
『でも、あのタイミングで動かなきゃ後悔する気がした。だから……動くしかなかったんだ』
そして、はっきりとした声で。
『とにかく今回は美礼ちゃんと、それを繋いでくれた玲子のおかげだ。本当にありがとう』
玲子はスマホを耳に当てたまま静かに目を閉じた。
「……こちらこそ」
電話を切ったあと、ニュース画面に映るパトカーや規制線をしばらく無言で見つめる。
誰にも知られず、
誰にも称えられず、
それでも確かに守られた日常がそこにあった。
玲子は小さく微笑んだ。
学会を終えた翌週の月曜日。
研究所は朝から異様な空気に包まれていた。
電話が鳴り止まない。
一本切ったと思えばすぐ次が鳴る。
デスクの上ではメールの受信通知が絶え間なく音を立てている。
「はい、宇佐大学・自然科学研究センターです……はい……ええ……」
対応している職員の声も次第にかすれてきていた。
今回の発表は、これまで“超常現象”“オカルト”“眉唾もの”として扱われてきた領域を、実測データと理論モデルを伴って提示したという点で決定的だった。
――あるかもしれない、ではない。
――観測された、という事実。
それは、想像以上に世間を揺さぶった。
エネルギー関連の研究機関。
物理学会の複数の分科会。
基礎科学から応用研究まで、分野を越えた問い合わせが殺到する。
「次号で特集を組みたい」
「いや、臨時号を出したい」
「独占インタビューは可能か」
「被験者への追加取材は?」
科学雑誌、学術ジャーナル、研究系メディア……
中には明らかに一線を越えそうな媒体もあり、大学側は取捨選択に追われていた。
「……これは、ちょっと想定外だな」
村田は受話器を置いてから椅子に深く座り直した。机の上には付箋だらけのメモと未読のメール一覧。
「反響はあると思ってましたけど……ここまでとは」
長峰博士は静かに腕を組みながら研究室の様子を見渡していた。
忙しなく動く助手たち。
鳴り続ける電話。
走り書きのメモ。
「学会での反応は手応えはあった」
「だが……これは“理解したい”というより“掴みたい”反応だな」
「通称の『斥力の少女』がインパクト強すぎたか……」
博士の言葉に村田は黙ってうなずく。
うれしくないわけではない。研究者としてこれほどの反響は正直言って誇らしい。自分たちが積み上げてきたデータと理論が世界に届いた証でもある。
だが同時に、
――この先は慎重にならなければならない。
そんな予感もはっきりと胸にあった。
「……被験者の匿名性、絶対に崩しませんよね」
村田が念を押すように言う。
「当然だ」
博士は即答した。
「研究は社会のものだが、人は研究材料じゃない」
電話のベルがまた鳴る。
研究所は今、
知らなかった扉を自ら開いてしまったのだと――
誰もがどこかで感じ始めていた。
夏葉の家は久しぶりに“いつもの四人”の空気で満たされていた。
テーブルの上には、ケーキ、ピザ、開けられたお菓子の袋。
ソファの周りには飲み物の缶や紙皿が並び、少し散らかっているのが逆に心地いい。
「改めてだけど合格おめでとうー!」
夏葉がそう言ってグラスを掲げると、つむぎと寿々が照れたように笑い美礼も小さく拍手した。
「結局、紫陽花女子大に落ち着いたね」
「いろいろ考えたけど、やっぱり一番しっくり来た」
受験の話、これからの大学生活の話、そして夏葉のドラマの現場の話――
「最近もう帽子なしで外出られないんだけど」とか、
「変装しても声でバレるんだよね」とか、
笑いながら、少し現実味のない話題が続く。
ひと通り盛り上がってケーキも半分以上なくなったころ。
ふと、つむぎがスマホを見ながら言った。
「……そういえばさ」
その一言で空気が少しだけ変わる。
「美礼の論文、やっぱりすごい反響みたいだね。一部の科学系だけかと思ってたけど普通に話題になってるよ」
「ネットでもめちゃくちゃ見かけるよ」
寿々が続けてスマホを操作する。
「ほら、これ」
画面を三人に向ける。
そこには、どこかの掲示板のスクリーンショット。
――“斥力の少女”の被験者、夏葉説。
「え……」
夏葉が思わず声を漏らす。
寿々は少し気まずそうに説明する。
「ほら、前の事故のときの動画あるでしょ。円の中心に夏葉がいたからじゃないかって」
「フェイクだろって意見も多いけどさ。“斥力の夏葉”とか書いてる人もいて……」
つむぎが苦笑する。
「さすがに雑すぎる推理だよね」
「うん……」
夏葉はそう答えながらもどこか落ち着かない様子だった。
あの動画。
もう終わったと思っていた話題。
まさか、こんな形で蒸し返されるとは誰も思っていなかった。
美礼は黙ったまま自分の手元を見つめていた。
単なる噂。
憶測。
その場限りで消えていく話題――
そう信じたい。
けれど同時に“被験者探し”という言葉が胸の奥で引っかかる。
もし、この流れが止まらなかったら。
もし、誰かが本気で探し始めたら。
楽しかった部屋の空気がほんの少しだけ冷える。
誰も口には出さない。
でも、四人とも同じことを考えていた。
噂は静かに、しかし確実に形を変えて広がっていった。
最初に出回った「斥力の少女=夏葉説」は、しばらくすると勢いを失った。
考えてみれば当然だった。夏葉は連日のようにドラマに出演し、番宣にも出て、共演者とも距離が近い。現場のメイキング映像などでも笑って肩を並べている。
――人を寄せつけない力?
――そんな人間があんな仕事できるわけない。
世間は案外そこは冷静だった。
そして、次に目を向けられたのがあの動画に一緒に映っていたもう一人の人物。
《中心にいたのは夏葉じゃない》
《その横にいた黒髪の子の方が不自然だった》
《カメラの外側で何か起きてたんじゃないか》
名前は出ない。
顔もはっきりしない。
ただ――
黒髪の子。
美礼は玲子の事務所に所属しているとはいえ表に出る存在ではない。
事務所の公式サイトにも載っていない。
プロフィール写真もない。
だから、爆発的に広まることはなかった。
けれど「黒髪」「夏葉と一緒にいた」。その断片だけが噂として静かに積もっていく。
さらに、追い打ちをかけたのが大分でのあのタクシー運転手だった。
「そういえば女優の夏葉さんを乗せたことがある」
「たしか、長い黒髪の子も一緒だった」
何気ない一言。
本人に悪気はない。
むしろ、ちょっとした自慢話のつもりだったのかもしれない。
だが、それは点と点を繋ぐには十分すぎる材料だった。
《やっぱりあの子が被験者なんじゃないか》
《一般人だから名前が出てこないだけ》
噂は確信めいた色を帯び始める。
玲子の事務所にも問い合わせは届いていた。
遠回しなもの。
探りを入れるようなもの。
露骨なものも、少し。
けれど玲子は変わらず同じ対応を貫いた。
「動画はフェイクです」
それ以上は何も言わない。
それが今できる最大の防御だった。
――それでも。
美礼は限界を感じ始めていた。
ある夜、家で両親と向き合って話した。
「……いま、こんな噂が出てるの」
静かに現状を説明する。
黒髪の子の話。
自分に近づきつつある視線。
「もしかしたら……私だってバレるの、時間の問題かもしれない」
言葉にした瞬間、胸が締めつけられる。
そうなったら、きっと今の生活は終わる。
取材。
記者。
カメラ。
知らない人たちが家の前に立つ。
堤家の日常が音を立てて壊れていく――
父も母もすぐには何も言えなかった。
答えなんて、ない。
しばらくして、父がぽつりと言った。
「……そうなったら、そうなったで考えよう」
それは、投げやりでも無責任でもなかった。
今できる唯一の現実的な答えだった。
母は美礼の手にそっと触れる。
「今は……まだ起きてないことを全部背負わなくていい」
美礼はうなずいた。
不安は消えない。
けれど、ひとりではなかった。
夜は静かだった。
その静けさがいつまで続くのか――
誰にもわからなかった。
数日後。
日曜日の冬の光がやわらかく差し込む昼下がり。
その日はたまたま誰も出かける予定がなかった。
父も、母も、美礼も、三人そろって家にいた。
インターホンが鳴ったのはそんな何気ない時間の途中だった。
玄関に立っていたのは年齢の違う二人の男性。
どちらも落ち着いたスーツ姿で、派手さはないが妙に隙がない。
名乗り、軽く頭を下げる所作だけでただ者ではないことが伝わってくる。
リビングにお通ししテーブルを囲んだ。
二人の男性は言葉を選ぶように静かに話し始めた。
世間で広がっている噂のこと。
美礼の身に起きている現象について。
そして、これまで水面下で把握していたという、いくつかの事実。
父は腕を組み、母は手を重ね、美礼はじっと二人を見つめていた。
誰も途中で口を挟まなかった。
空気は張りつめているのに不思議と恐怖はなかった。
話がひと通り終わったあと、年長の男性が静かに口を開く。
「ご安心ください」
一拍、間を置いて。
「美礼さんのことは、我々が守ります」
テーブルの上に置かれたものが二つあった。
一つは、紙の色がすっかり飴色に変わった分厚い古い家系図。
もう一つは、簡素な名刺。
そこには、余計な肩書きはなくただ一行。
――宮内庁。
美礼はその文字を見つめながらゆっくり息を吐いた。
自分の知らないところでずっと昔から続いてきた何かが、いま、静かに繋がったのだと、なぜか直感的にわかった。
外では変わらず穏やかな日曜日が流れていた。
終。




