第97話「螺旋の迷宮、あるいは誘惑のクラフィン」
パン教本部、最上階のオーブン・ルーム。
あかり様は今、目の前に置かれた不思議なフォルムのパンを見つめ、美しく整えられた眉をわずかにひそめていた。
『クラフィン』。
クロワッサン生地をマフィン型で焼き上げ、中にたっぷりのクリームを詰め込んだ一品。サクサクとした何層もの生地が螺旋を描き、頂上には粉糖が雪のように積もっている。
「……にゃん、これ、何かしら?」
あかり様の問いに、不動の姿勢で控える総監督にゃんが、静かに答えた。
「クラフィンにございます。教徒たちが『あかり様の多様性と、内に秘めた甘美な慈愛を体現している』と、自発的に聖餐パンとして認定し、現在、各地の支部でかつてない規模の供出(焼き上げ)が行われております」
あかり様はクラフィンを手に取り、その複雑な螺旋構造に視線を落とした。
「多様性……ね。それはいいけれど、最近、教団の空気が少し変わった気がしない?……具体的に言うと、新しく入信を希望する子たちが、パン教の『人類パン化計画』の教義を語る前から、すでに魂が焼き上がったような、幸せそうな顔をして並んでいるのよ。……昨日なんて、かつて頑なにお米を信じていたはずの重鎮の方々が、真っ白な白パンを両手に『私は今日から白パンになる』と、涙ながらに訴えてきたわ」
あかり様の視線が、部屋の隅で「ポカポカ」と自分の胸元を叩いている少女に向けられた。
「……うほちゃん。あなた、何か知ってる?」
あかり様に名前を呼ばれ、うほちゃんは嬉しそうにトコトコと駆け寄ると、あかり様の膝元に、自分が食べていたクラフィンをそっと置いた。
「うほっ」
「……ええ、美味しいわね。でも、わたしが聞いているのは……」
あかり様がクラフィンを一口、頬張った瞬間。
サクッ、ジュワッ。
幾重にも重なった生地の香ばしさと、溢れ出すクリームの濃厚な甘みが、口の中で完璧なハーモニーを奏でた。
「……んんっ、最高。……って、違うわ!」
あかり様は慌てて教祖の表情に戻るが、その時、にゃんが静かに告げた。
「あかり様、どうやら……うほ様が各地を巡られた際、その『うほっ』というお声に触れた者たちが、教義を理解するよりも速く、魂の芯から発酵してしまったようなのです。……理屈ではなく、ただそのお姿を見るだけで、人々は自分が『パンとして生きる喜び』に目覚めてしまう……。SNSでも、その純粋すぎる光景が、理屈を超えた福音として広まっております」
「……理屈を超えた、福音?」
あかり様は、自分のクラフィンを幸せそうにもぐもぐと食べているうほちゃんを見つめた。
彼女はただ、美味しいパンを食べて、その喜びを表現しているだけだ。けれど、そのあまりの「無垢な純真さ」こそが、どんな高度な説法よりも、人々の心を一瞬で「パン」へと変えてしまう、最強の救済になっていたのだ。
『うほ様の「うほっ」一発で全人類が救われそうww』
『あかり様のカリスマと、うほちゃんの癒やし……無敵すぎる』
『教義を聞く前に魂が焼き上がるって、もう奇跡だろ』
チャット欄の爆発的な流れを見ながら、あかり様はクラフィンの複雑な螺旋をなぞった。
「……何層にも重なった生地の中に、こんな純真な『答え』が隠されていたなんてね。……うほちゃん、あなたはわたしの想像以上に、世界を優しく黄金色に染め上げているのね」
あかり様は苦笑しながら、うほちゃんの頭を優しく撫で、最高に輝かしい笑顔をカメラに向けた。
「迷えるパンたちよ! 私はパン! あなたもパン! 私たちの愛の螺旋は、もう誰にも止められない! 恐れず、自分という生地を信じて発酵しなさい! 明日も、あなたというパンに豊かな発酵があらんことを。……よろしく! パンに祝福を!!」




