第七話 聖女スーシャは生きていた
王都へ戻ると決めた夜、俺はグラディ村で直した木桶を見つめていた。
あの村の子供は、まだ俺を許していない。
許されないことと、誰かを救うことは別だと教えられたばかりだった。
それなのに、スーシャの名を見た瞬間、すべてを投げ出して駆け出そうとした自分が情けなかった。
「あなたが捕まれば、王国は証拠も証人も一度に消せます。ここであなたを待つ人たちも、守る者を失います」
リリスは焚き火を挟んで俺を見た。
「それでも行くなら、勝手な英雄ごっこには付き合いません。帰るための道を決めてからにしてください」
「……すまない」
王都へ向かう前、俺はヴォルマから古い水路の見取り図を受け取った。
図面の端には、三十年前に埋められた通気口が記されていた。
魔王ゼルガディスが勇者だった頃に使った通路だという。
「父はここを通ったのですか」
リリスが指で線をなぞる。
「確証はありません。しかし、当時の王宮は地下通路の存在を隠すため、工事に関わった者を全員追放しました」
「口封じか」
「残ったのはこの図面だけです」
グレンは地図の端を押さえた。
「姫様を連れて王都に入る以上、俺が退路を守る。お前の右腕では、追っ手を引き受けきれない」
反論しかけて、俺は包帯の下の疼きに口を閉じた。
彼の判断は正しかった。
ヴォルマの図面を見比べ、俺たちは巡礼者用の廃礼拝堂を入口に決めた。
その地下室は旧水路につながっている。
水路そのものには魔力探知器が残っているため、リリスが反応を隠し、グレンが後方を警戒する手はずだ。
「お前は魔王を倒した人間を守るのか」
俺が尋ねると、グレンは顔をしかめた。
「勘違いするな。姫様を守る。お前が倒れれば姫様が無茶をする」
彼は予備の短剣を差し出した。
「右腕をかばうなら、こっちを使え」
俺は左手で受け取った。
敵だった男の手から渡された武器が、ひどく重かった。
王都の裏路地は、凱旋の日よりずっと暗かった。
軒先の花飾りは取り外され、代わりに反逆者の手配書が貼られている。
俺の似顔絵には悪意のある傷が描き足されていた。
小さな子供がそれを指さし、母親が慌てて手を引く。
昨日まで歓声をくれた街が、同じ顔を見て怯える。
胸の奥が妙に冷えた。
礼拝堂へ続く階段では、足元の石が一段だけ新しかった。
俺が屈むと、グレンもすぐ気づいた。
「踏むな。仕掛けだ」
石を避けて壁際を通ると、遠くで鈴が鳴った。
誰かが先回りしている。
救出は時間との勝負になった。
旧水路の入り口には、王都の汚水が流れ込んでいた。
膝まで浸かる冷たい水の中を進む。
天井の低い区間では鎧を脱ぎ、音を立てないよう一列になった。
途中で崩落した壁にぶつかり、グレンが引き返そうとしたが、リリスが壁の奥に微かな風を感じ取った。
「向こうに空間があります」
右腕に力を込めた途端、結界で裂けた傷が熱を持った。
聖剣を振れば壁を崩せる。
だが上の家まで沈めかねない。
俺は左手で短剣を握り、目地を少しずつ削った。
グレンが緩んだ石を受け取り、リリスが落下を防ぐ。
三人がかりでようやく、人が這って通れる隙間を作った。
「勇者の仕事にしては地味だな」
グレンが囁く。
「地味で済むなら、そっちのほうがいい」
通路の先に出たとき、上から子供の笑い声が聞こえた。
数日前まで俺を歓迎していた王都の暮らしが、薄い石の天井一枚を隔てて続いている。
その平穏を守るために、俺は今、王国の追っ手から逃げていた。
牢獄の前では見張りの交代が予定より早かった。
俺たちは物陰に身を寄せたが、若い衛兵がこちらに気づいた。
剣を抜きかけた彼の腕を、グレンが押さえる。
「声を出すな。殺すつもりはない」
衛兵は震えながら、俺の顔を見た。
「……凱旋の日、妹が花を渡した勇者様だ」
俺は頷いた。
「その妹に、俺が国王を殺そうとしたと話せるか?」
彼は唇を噛んだ。
やがて鍵束を差し出す。
「ここで見たことは報告できません。でも、あなたが聖女様を傷つけないことだけは信じます」
「ありがとう。名前は聞かない」
鍵の金属音が、地下の静けさに小さく響いた。
俺たちは、その名も知らない衛兵が命令に背いた重さを背負って先へ進んだ。
第七牢獄の扉を開けると、スーシャが鎖につながれていた。
頬は青白いが、生きている。
「ユリウス……来てしまったのですね」
「迎えに来た」
「逃げて。私はもう、聖女ではありません」
彼女の手首には、聖印を焼き消した痕があった。
「王宮は私に、あなたが魔王の力を奪ったと証言させようとしました。拒んだら……」
「もういい。話は外で聞く」
鎖を断ち切った瞬間、スーシャが壁に手をついた。
「歩けるか?」
「少しなら」
脱出に使った通路は、入るときより狭く感じた。
スーシャは足を引きずり、追っ手の足音は確実に近づいている。
「置いていってください」と彼女が言った。
そのとき、背後で鉄扉が閉まる音がした。
追っ手が水路の水門を動かしたのだ。
足元の水が急に脛まで上がり、松明の火が湿った風に揺れた。
「前の排水口まで走れ。閉じられたら、ここは袋小路になる」
グレンが叫ぶ。
俺はスーシャの腕を肩に回した。
「置いていかない。俺がここへ来た理由を忘れるな」
リリスは水門の鎖を闇の魔力で引き留めたが、鎖は一節ずつ軋みながら巻き取られていく。
「長くは持ちません!」
俺は右腕の痛みをこらえ、スーシャの歩幅に合わせた。
先を急ぐほど彼女が転ぶ。
速さではなく、全員が抜けられる道を選ぶしかなかった。
グレンは扉を蹴り閉め、蝶番に短剣をねじ込んだ。
「十呼吸だけ稼ぐ。姫様、先へ」追っ手が体当たりするたび、鉄の軋む音が水路に響く。
十呼吸目に蝶番が砕けた。
「もう持たん!」
俺たちの背後へグレンが飛び込み、扉の破片を盾にして追撃の矢を受け止めた。
リリスが鎖から手を離すと水門が落ち、追っ手の先頭を水しぶきが押し戻した。
だが俺たちも出口へ向かう細い通路に閉じ込められた。
「礼拝堂の通気口へ!」
図面を思い出した俺が叫ぶと、グレンが天井の古い格子を押し上げた。
まずスーシャを上げ、次にリリス、最後にグレンが這い上がる。
俺は格子を戻し、水路に流れ込む足音を聞きながら、四人で外壁の隙間を進んだ。
「グレン、無茶はしないで」
「無茶をするのは勇者の役目だと思っていましたがね」
冗談めかした声の奥に、疲れがあった。
俺たちは彼を信じて走った。
水路の出口が見えたところで、スーシャは手首の焼け跡を袖に隠した。
「聖女の印を消されたんです。もう神殿には戻れません」
「印がなくても、お前はお前だ」
「それを、神殿の子供たちにも言ってあげてください」
彼女は笑わなかった。
そのとき、礼拝堂の鐘が鳴り響いた。
水路の出口に仕込まれた警報が作動したのだ。
先回りした審問隊が、退路を塞ぐ。
「反逆者三名と背教の聖女を確認!」
俺はスーシャを背負い直し、グレンが後衛を守った。
リリスは闇の魔法で追っ手の視界を奪う。
出口まであと少しというところで、宰相ベルガンの声が響いた。
「勇者よ。お前は地下で何を見た?」
「まだ何も。だが、これから見る」
「見る前に死ね」
床から槍が突き出した。
俺はスーシャをリリスへ預け、左足で槍の軌道をずらした。
右腕が痛みで痺れ、聖剣を振り抜けない。
そこへグレンが横から槍の柄を断ち、四人は崩れた壁の隙間へ転がり込んだ。
脱出した先で、スーシャは俺の手を握った。
「地下には、勇者の墓があります」
「墓?」
「そして、墓の奥に召喚記録がある。私が見た名簿には、あなたの次に召喚される勇者の名まで記されていたんです」
リリスが息を呑んだ。
「次の勇者……?」
スーシャは震える声で答えた。
「現勇者はユリウス。そして次期勇者は、ルカ・アルディア」
俺は勇者という称号を、初めて恐ろしいものだと感じた。




