第六話 勇者が本気を出したら、王国軍が一歩も進めなかった
審問隊の黒い旗が谷へ入った瞬間、岩壁に刻まれた術式が一斉に光った。
俺は指先を地面に当てた。
昨日まで聞こえた地下水の流れが、今日はかすかな脈動にしか感じられない。
右腕の古傷が脈打った。
「この結界の中で術を使えば、右腕の傷が開きます」
サフィアが止めた。
「分かっている。だから大きな術は使わない。もともと崩れかけている場所だけを探す」
俺は仲間に退路の確認を頼んだ。
自分が倒れたときの手順まで決めてから、前へ出た。
結界が完成すると、冷たい網に全身を包まれたように息が詰まった。
聖剣の光が細くなる。
魔王との戦いで傷ついた右腕が急に重くなり、俺は膝をつきかけた。
「ユリウス!」
リリスが駆け寄る。
「大丈夫だ。まだ動ける」
そう言いながら、俺は自分の状態を確かめた。
勇者の加護による身体強化はほとんど働かない。
聖剣の自動防御も消えた。
それでも、呼吸法と足運びは残っている。
三年間の戦いで身につけたものまで消えるわけではなかった。
審問隊長は高台から叫んだ。
「見よ! 勇者など、王家の許しがなければただの人間だ!」
兵士たちの間に動揺が広がった。
昨日まで英雄と呼ばれた男が、今日には王家の道具として扱われている。
俺はそれを否定するためではなく、彼らに聞いてもらうために声を上げた。
「俺がただの人間なら、お前たちと同じだ。帰りたい家がある。守りたい人がいる!」
「黙れ!」
審問隊長が杖を振った。
黒い鎖が地面から伸び、俺の足首に絡みつく。
俺は剣を手放し、鎖の根元を蹴ってほどいた。
術式が聖剣の力だけを封じるなら、術者の集中を乱せばいい。
「左の三人が結界を維持している!」
リリスが見抜いた。
彼女の闇魔法が霧となって広がり、術者たちの視界を奪う。
結界が一瞬揺らいだ。
その代わり、霧を維持するリリスの額から汗が流れた。
「長くは持ちません。術者を傷つけずに止めるなら、今しかない!」
「グレン、弓を壊してくれ。兵士は狙うな!」
「言われなくても分かっている!」
グレンが突進し、弓兵の前に立った。
彼の大剣は弓を叩き落とすが、相手の体には触れない。
魔族の騎士が王国兵を殺さずに制圧する光景に、両軍の兵が驚いていた。
俺は地面に手をついた。
加護と聖剣は封じられても、地脈術で地形の弱点を探る感覚だけは残っている。
雨水を吸った土の下に、崩れかけた筋があった。
そこへわずかに力を流す。
視界が白く欠け、右腕の包帯が湿った。
血だ。
もう一度使えば、自力で歩けないかもしれない。
「これが最後だ」
俺は左手で地面を押さえ、仲間の退路を確かめてから力を放った。
王国軍の前方には雨水が削った浅い溝がある。
そこを広げれば、重い荷車は渡れなくなる。
「下がれ!」
雨を含んだ斜面が、地響きとともに崩れた。
土が崩れ、進軍路に幅広い溝が生まれる。
兵士が数人転んだが、すぐに起き上がった。
深さを抑えたのは、誰も落下で死なせたくなかったからだ。
「化け物だ!」
若い兵士が叫んだ。
「違う。お前たちと同じ人間だ!」
俺は答えた。
相手は信じないかもしれない。
それでも、今の俺にできるのは声を届け続けることだった。
だが、崩した斜面の下から水が噴き出した。
想定より雨水が溜まっていたのだ。
溝の縁にいた少年兵の足元が崩れ、彼は滑り落ちた。
「動くな!」
俺は飛び込み、左手で少年の襟を掴んだ。
右腕を使おうとした瞬間、古傷が裂けるように痛んだ。
リリスの霧が消え、結界の鎖が俺の肩へ食い込む。
「地形を変えれば、それで終わりじゃない……!」
自分が作った溝で誰かを死なせるわけにはいかない。
グレンが大剣を地面に突き立てて足場を作り、少年を引き上げた。
俺は息を切らし、二度と崩れないよう斜面の水の流れを確かめた。
その隙を見て、審問隊長は激怒し、負傷した味方兵を盾にするよう命じた。
兵士たちが戸惑う中、隊長自身が、さっき溝から引き上げた少年兵を前へ引きずり出した。
泥のついた襟と、まだ震えている膝で分かった。
助けたばかりの子を、今度は人質に使うのか。
「進まなければ、こいつを反逆者として処刑する!」
少年の顔から血の気が引いた。
俺は溝を飛び越え、隊長の腕を掴んだ。
「その子を放せ」
「勇者の加護もないくせに!」
隊長は短剣を振るった。
俺は手首を押さえ、武器を落とさせた。
剣術の師匠に何千回も叩き込まれた関節技だった。
少年兵は泥だらけの襟を握りしめ、座り込んだ。
「……家に帰りたい。でも、命令に逆らえば母さんが……」
俺は返事を詰まらせた。
俺が掘った溝が彼を危険にさらし、王国の命令が再び彼を盾にした。
二度助けても、彼の家族を縛る仕組みまでは断てない。
「名前を教えてくれ。家族に危害が及ばないよう、ゾイド将軍にも伝える」
少年は迷った末、小さな声で名乗った。
俺はそれを忘れないよう、手の甲に書き留めた。
日が傾くころ、両軍は睨み合ったまま動かなくなった。
王国軍の兵は疲れ切り、魔族側も避難民の移動で限界だった。
ゾイド将軍が白旗を掲げて前へ出る。
「本日の進軍を停止する」
審問隊長が抗議した。
「王命に背く気か!」
「兵が疲弊している。補給も滞っている。今進めば無用な死者が出る」
「勇者を逃がすつもりだな!」
将軍は冷たく答えた。
「軍を指揮しているのは私だ。あなたではない」
審問隊長は舌打ちして退いたが、目には諦めがなかった。
俺が陣地へ戻ると、サフィアが敵兵の少年を治療していた。
彼は俺を見るなり背筋を伸ばした。
「さっきは……助けてくれて、ありがとうございました」
「もう前に出るな。傷が治るまで休め」
「はい」
サフィアは包帯を巻きながら言った。
「今日、魔族の治療所に人間の兵士が来ました。昨日なら誰も信じなかったでしょうね」
「俺もだ」
「あなたが剣を抜かなかったから、あの子は生きています」
その言葉が胸に残った。
魔王を倒した力より、今日剣を抜かなかった判断を褒められるとは思わなかった。
夜の野営地で、俺は審問隊が使った結界の痕跡を調べた。
赤い魔術文字は土に焼きつき、消そうとしても薄く残っている。
リリスがしゃがみ込み、指先で文字をなぞった。
「これ、魔族の古い術式に似ています。でも最後の一文字だけ、人間の神殿文字です」
「混ぜたのか?」
「そうです。魔族を倒すためではなく、勇者だけを縛るために」
俺は胸の奥が冷たくなるのを感じた。
王宮は魔王との戦争を続けながら、その魔王の技術を密かに利用していた。
「スーシャなら読めるかもしれない」
「だからこそ、王宮は彼女を生かしているのでしょう」
リリスはそう言って、土を払った。
翌朝の進軍が再開されるまで、時間はほとんどない。
俺はゾイドへの返書を書いた。
『避難民の撤収は今夜中に終える。
貴軍の負傷兵が必要とする薬は、東側の仮設治療所に置く』
王命に背けない兵士がいることは分かった。
それでも、敵を殺さずに済ませる道が一本でも残るなら、俺はそれを示したかった。
返書を渡すと、伝令の青年が不安そうに尋ねた。
「本当に将軍へ届くでしょうか」
「分からない。だから、戻る道も決めておけ」
青年は頷き、闇の中へ走った。
俺はその背中を見送った。
聖剣の強さだけでは守れない命がある。
誰かが命令に逆らう勇気を出せるように、俺も自分の行動を選ばなければならなかった。
夜半、ゾイドの密書が届いた。
封を切ろうとして、右手が思うように動かないことに気づく。
俺が左手で封蝋を割る間、リリスは何も言わず灯りを近づけた。
今夜、無理に動けば救出どころか仲間を危険にさらす。
その事実を認めた上で、俺は紙を開いた。
封には王国軍の正式な印があった。
罠かもしれない。
それでも、スーシャの生存を知った瞬間、俺は立ち上がった。
「迎えに行く。ただし、俺一人では無理だ。避難路を守る者も、王都から戻る道を探す者も必要だ」
リリスが俺の腕を掴んだ。
「ようやく分かりましたか。あなたが剣を握れない間は、私たちが道を作ります」
「危険を押しつけることになる」
「いいえ。自分で選んで同行するんです。父の仇が捕まれば、真実を知る道も閉ざされる」
俺は頷いた。
勇者と魔王の娘。
奇妙な二人の旅は、もう引き返せないところまで来ていた。
密書の末尾には、ゾイドの筆跡で一行だけ付け加えられていた。
『この情報を送ったことが露見すれば、私の部下にも危険が及ぶ』
俺は紙を折り畳んだ。
敵だった将軍が払った代償を、軽く扱うわけにはいかなかった。
密書に記された場所は、王宮地下第七牢獄。
そこに聖女スーシャが生きている。
俺は地図を広げ、王都へ戻る道を指でたどった。
俺が国境を離れれば、次の進軍を止められないかもしれない。
それでもスーシャを見捨てれば、王国が隠した真相には届かない。
地図に二本の退路を描き、ヴォルマに北の避難路、グレンに村の防衛を託した。
地図の端には、助けた少年兵が口にした故郷の名があった。
俺が王都へ向かうあいだも、あの村へ続く道だけは塞がせない。
ヴォルマは地図の印を見て、避難路を一本延ばした。
「俺が戻らなくても、撤収を止めないでほしい」
言い終えると、結界で傷んだ右腕が震えた。
俺が剣を握れなくなる日が来ても、村を守れるようにしなければならない。
グレンは苦い顔で頷いた。
「言われなくても、民を優先する。お前を迎えに行くために子供を置き去りにはしない」
俺は返事をしようとして、喉の奥に鉄の味を感じた。
地脈術で酷使した腕が痺れ、包帯を結ぶ指先に力が入らない。
リリスが代わりに結び目を作った。
「次に同じ術を使えば、剣を握れなくなるかもしれません」
「だから次は、俺一人に頼らない方法を先に探す」




